1-21 海八分
「もうマルコっ☆あんな言い方はないんじゃないかなっ☆」
「涙様……」
竜宮城の奥、貝殻細工の回廊。マルコは静かに片膝を折り、忠誠を捧げる騎士のように傅いた。厚い胸板を折り曲げ、涙の白い手の甲に恭しく唇を寄せる。
「私は四年前、上司の小さなミスの責任を押し付けられ、地上の企業を追われました。生活の当てもなく、途方に暮れていた私を救ってくださったのが――涙様、貴女です」
「………………」
涙はその言葉を遮らず、ただ受け止めるように黙っていた。
マルコの声には微かな震えが混じる。礼節と感謝の語彙を並べながら、その口調は次第に熱を帯び、何処か捨て身にも見える誠実さを孕んでいく。
「涙様がいらっしゃらなければ、私は疾っくに海底の藻屑でした。恩義は決して忘れません。あなたの笑顔こそ、私が生きる理由なのです」
「そっかっ☆嬉しいよっ☆」
涙がいつもの調子で笑ってみせると、マルコの目が更に潤む。
「先程の客人に対する無礼……深く反省しております。ですが、どうかお許しを。涙様の周りに悪意が近付くと思えば、理性など保てません。涙様に仇なす『虫』は――排除しなければならないのです!」
マルコの肩が震え、熱い涙が頬を伝う。それは忠誠にも似た狂気の涙だった。
涙は変わらぬ笑顔を浮かべる。けれど、その口元の端だけが、ほんの僅かに翳りを帯びていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――〈南国諸島ニライカナイ〉・〈海底都市エリア〉。竜宮城を追い出された俺は、屋外喫煙所のベンチに腰を下ろしていた。湿った潮風の匂いに、タバコの煙が薄く混じる。ネオンの滲んだ光が、灰皿の縁や濡れた床へ温く反射していた。
「きゃー!何この子、可愛いー!」
「どこから来たのー?」
喫煙所の外では、天音に抱かれるフランがお姉さん方の注目を集めている。子供が人気なのは海底も地上も変わらないようだ。最後の一服を灰皿に押し付け、喫煙所を出て天音達の下へ向かう。
「悪い、待たせたな」
「いえ……」
フランはお姉さん達の髪飾りを物欲しげに見つめている。ふと思い立ち、俺はお姉さん方に尋ねた。
「ああ、汚宅部拓生って奴を知りませんか?優秀な商人と聞いたんですが」
「汚宅部?ああ、あの!」
「涙様のライブによく通ってるよね」
「カジノの向かいの民家に住んでるハズよ」
そこで一人が、少しだけ顔を曇らせた。
「でも……汚宅部って今……炎上してるよね」
「関わらない方がいいんじゃない?」
――炎上、か。嫌な響きだ。だが、行くしかない。
「ありがとうございます」
「ほらフラン、お姉さん達にバイバイしな」
「ばいばい」
お姉さん方に礼を言い、フランが元気良く手を振る。
「「ばいばーい!」」
ネオンと歓声の渦を抜け、カジノの向かいに建つ一軒家へ向かう。近付くにつれ、空気の色が変わった。
そこだけ、人が避けて歩いていた。街全体の喧騒が、家の周りだけ薄くなる。
その壁にはスプレーで殴り書かれた罵詈雑言。「死ね」「消えろ」「嘘つき」――言葉が家そのものに刺青のように食い込み、住人を追い詰めた痕跡を生々しく残している。窓ガラスの隅には、卵でもぶつけられたのか、黄ばんだ跡がこびり付いていた。
「……地獄かよ」
「どういうことなのでしょう……」
フランが俺の背で身を乗り出す。
「おにいたま、フラン、おしたい」
「ん、いいぞ。鳴らしてみな」
「あい!」
フランが身を乗り出し、俺の背を掴む。小さな指の温もりが、世間の泥濘みたいな悪意を一瞬だけ薄めてくれた。
インターホンが鳴る。妙に遠い音だった。数秒の静寂ののち、扉が軋んで開く。
「――な、何ですかな?」
現れたのは、丸々とした体躯の男。ボウルカットに黒縁眼鏡。アニメTシャツ。オタクのテンプレートのような出で立ちの男だった。
――ファンキーな見た目してんな。おい。
だが、その見た目より先に目に付いたのは、声の震えだった。怯えと警戒が、もう隠しようもなく滲んでいる。
「アンタが汚宅部拓生か」
「そ、そうですぞ。悪戯ではなく客人とは珍しいですな。狭いところでありますが、入ってくだされ」
声には臆病と警戒が等分に混ざっている。電気が灯ったばかりのワンルームには、雑然と積まれたフィギュア、モニター、ポスター。空気は淀み、閉ざされた時間の匂いがした。何日もカーテンを閉めたまま生きていた人間の部屋だと、入った瞬間にわかる。
「こっちですぞ」
灯りを点けたばかりのワンルームに案内される。壁一面に貼られた涙のポスターとポップ。アニメグッズで埋まる棚。電子機器が雑多に置かれた室内は、その男の生活感を滲ませていた。
「座ってくだされ」
卓袱台を挟んで向かい合う形で座る。後ろで天音が淑やかに腰を折り、フランは好奇心を押し殺している。拓生は猫背のまま、短い手足をぎゅっと縮めた。
「挨拶が遅れたな。俺は雪村雪渚だ。それでこっちが、天音と妹のフラン」
「ご紹介に預かりました、雨ノ宮天音と申します」
「フラン!」
「あ、改めて……汚宅部拓生ですぞ。……それで、小生に何の用ですかな?」
「単刀直入に言おう。俺達のクラン・〈神威結社〉に入ってくれる仲間を探している。それで優秀な商人と名高い、お前の力を借りたい」
「成程ですな。確かに今はどのクランも資金難。商人の確保は最優先とされていますからな」
「そういうことだ。どうだ?」
「誘っていただけるのはありがたいでありますが――お断りさせてもらいますぞ」
拓生は、そこだけは譲れないと言わんばかりに、はっきりと言い切った。
「理由を聞いてもいいか?」
「商人とはいえ、クランに加入すれば戦闘は避けられませんぞ。小生に……戦えるだけの力はありませんぞ」
――言い分は頷ける。クランに誘うということは、「命を懸ける」ことと同義だ。見ず知らずの俺達に命を預ける理由など、今の彼にはない。
「商人として、自分が生きるだけのお金があっても、戦わなければ生き残れない世の中だということはわかっていますぞ。ただ……まだその勇気は持てませんぞ」
――賢い。ちゃんと自分の立ち位置を理解している。その上で、臆病になっている。いや、正確には――臆病になるだけの理由を、もう持ってしまっている。
「それに小生には、やらなければならないことがありますぞ」
「やらなければならないこと?」
「――涙女史を、あの暴君・マルコから解放することですぞ」
フランが首を傾げる。
「たくおおにいたま、なにがあったの?」
「……先週の涙女史の握手会でのことですぞ。小生は……突然マルコ氏に路地裏に連れられ、有無を言わせず暴力を振るわれたのですぞ」
「そんなことが……」
「酷いですね……」
「全く以て許せませんぞ!小生のキュートなボディに傷を付けるなど!」
拓生は短い手足を振って憤慨する。コミカルな語り口ではあったが、その内容は酷いものであった。
「それで小生……気が動転して、お恥ずかしながらこのような書き込みをしてしまったのですぞ」
そう言って拓生が差し出したのは、ノートパソコンであった。「Triple Crown応援スレ」と銘打たれたその掲示板は、涙やマルコを褒め称えるレスで溢れていた。
その流れの中、一際目立つ一連の書き込みがある。――マルコを批判しようとする声と、それを押し流す罵倒の波。
――――――――――――――――――――――――
Triple Crown応援スレ part.285(799)
>マネージャーのマルコはファンを問答無用で殴り付ける暴漢
>嘘つき乙
>マルコ様への嫉妬キモ
>こいつ痛過ぎだろ
>デマ流して楽しい?
>死ねよ
>誰が信じるんだwww
>マルコ様がそんなことする訳なくて草
>はい特定
――――――――――――――――――――――――
「これは……」
「マルコを糾弾しようとしたのですぞ。ただ……誰にも信じてもらえず、嘘吐き呼ばわり。終いにはIPアドレスから個人情報まで特定され……このザマですぞ」
――そういうことか……。
事の顛末を聞けば、被害の深刻さが透けて見えた。ネットの群衆は、噂と侮蔑で簡単に人を破滅へ追い遣る。
「それは……災難だったな」
「ですが小生は絶対に負けませんぞ……!いつか必ず、あの暴君の手から、推しである涙女史を解放してみせますぞ……!」
拳を握り締める手は震えていた。目には涙。足も少し震えている。怖いのだ。だが、それでも諦め切れない。そんな顔だった。
「勝てるのか?」
俺がそう尋ねると、拓生は力なく項垂れた。
「……無理、ですな。マルコ氏は新世界に一パーセントしかいない偉人級ユニークスキル保持者。小生など、一撃で泡となるでしょうな」
「それに幹部のような奴もいたな。ありゃ一筋縄では行かないぞ」
「小生に……戦う勇気があれば……」
「たくおおにいたま、げんきだして」
「はは、いい子ですな。……っと、申し訳なかったですな。変な話をしてしまいましたぞ。久々の真面な会話だと思うと、つい……」
「いや、構わない」
「明日は涙女史のソロライブですぞ!どうせなら雪渚氏達も一緒に行きますかな!?」
「そうだな。行ってみるか」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――雪渚氏!寝坊ですぞ!急いでくだされ!」
「せつくんはロングスリーパーですからね。平気で十時間睡眠します」
「せつなおにいたま、よくねる」
「……っ!すまん……!」
フランを背に、天音、拓生と共に、幸運の街のメインストリートを駆ける。アスファルトを蹴る音が心地良く響いていた。その度に海底の光が足元で弾けた。街は今日も、祝祭と狂騒の準備で息を弾ませている。
だが、俺達が拓生を連れているだけで、そこには別の騒めきが混じる。
「おい……アイツ、汚宅部じゃねーか……?」
「なんで外にいるんだよ。引き篭ってろよ」
若者達の嘲笑。女達のひそひそ話。露店の店主ですら、露骨に目を逸らした。この街は、拓生が「ここにいること」そのものを許していない。
拓生が唇を噛み、視線を落とす。俺は肩越しに言った。
「拓生、気にするなよ。お前のやったことは正解じゃなかったかもしれないが、少なくとも不正解じゃない」
「雪渚氏……!」
その一言に、拓生の肩が僅かに上がった。
軈て、巨大な円形闘技場が見えてきた。幸運の街の中心。そこが本日のライブ会場となっている。歓声と音楽が海を震わせていた。
「始まってしまっているようですな……」
拓生が肩で息をしながら空を仰ぐ。俺は心底申し訳なくなって、頭を掻いた。
「マジですまん……」
「仕方ありませんぞ。……ん?」
拓生が足を止め、闘技場脇の茂みの奥へ視線を遣る。その瞬間、俺は反射的に彼の頭を押さえ付けた。
「な、何をするんですかな……!?雪渚氏……!」
「見ろ」
茂みの向こうの死角。そこに立っていたのは、オレンジ色のアロハシャツを身に纏う、ホオジロザメ顔の大男。鰓張った顔が特徴的な男――マルコだった。その向かいには、昨日竜宮城にいた幹部の一人。白と黒のツートンカラーの髪にギザ歯の男。
「マルコ氏……」
その空間に一瞬、氷のような緊張が走る。闘技場から漏れる歌声が、滑らかに、しかし何処か不穏に場の空気を押し広げる。二人の声が低く交わされるのが聞こえた。
「それでイルーガ、計画の用意は出来てるんだろうな?」
「問題ねーよ、マルコ様。いつでもイけるぜ――『歌姫暗殺計画』」
空気が、凍った。




