伝えなければ
ノアがしがみついてから幾分経つだろう。
ロミーナやニコラ達が離れるように諭すも、一向に離れようとしない。
私としては非常に嬉しい事なのだが、数分もの間両腕を上げたままというのは如何せん厳しいものがある。
それに、普段近づけない子にこんなにもくっつかれては、抱きしめたいという欲望が爆発してしまいそうで、それを抑えるのに必死なのも事実。
「ノア様~? マリアンヌ様からいい加減、離れてくださいまし~?」
「マリアンヌ様の腕がプルプルされて、面白い事になっておりますのでそろそろ離れて頂かないと」
「そろそろと言えば、ノア様の衣服、丈が足元まで長いものに変えないといけないでしょうか? 膝まで丈があることで、転んだ際にケガをされますし」
「膝までのドレスや、ワンピースは卒業って事ね。貴婦人デビューとしていいんじゃないかしら」
たしかに、ノアの服装は丈が膝までの衣装に、子ども用パンプスの組み合わせが多い。
子どもながらの膝丈ワンピースやドレスといった感じだ。
今日みたいに転んでケガをするくらいなら、丈の長いドレスを身にまとう方が体を守れるだろう。
えぇ、よく分かるわ。でも、その前に一つ言わせて欲しい。
――こ、この二人、さっきまで私の腕の事わかってくれていたのに、今はそっちのけなんですけど……。
今ここでする話なのか。
私の両腕は、とうに限界を迎えている。
「二人とも、マリアンヌ様の腕がそろそろ限界って事、忘れてない?」
ニコラが心中を察してくれたのか、ロミーナ達の話を遮った。
助かった……そう思った刹那、今度は書斎の部屋がノックされ、クリスが入ってきたのだ。
「マリアンヌ様、予算の件でご相談が……何をされているのです?」
「い、いえ、何も?」
「そうです! マリアンヌ様はまだ何もされていません!」
「まだ……とは? ノア様? そのようなところで何をされているのですか」
「じ、実は――」
私はクリスに、何か咎められるのではないかと内心ひやひやしている。
だが、私の思いとは裏腹に、クリスはいたって冷静に、ニコラの説明を聞いているのだ。
そうしてニコラの説明を聞いたのち、あごに手を当てて、何か考え込んだ。
――う、腕が……腕がつらい。怒るなら早く~。
私の腕の力が抜け始めた途端、クリスが考えるのをやめ、こちらに近づいてきた。
それと同時に、下がり始めた腕を再度ピンっと上に上げる。
「ね、ねぇ……腕が限界なのだけど。このままノアちゃんを抱きしめてもいい?」
「いけませんよ。せっかく我慢をなさっておられるのですから、もう少し我慢なさってくださいまし」
ニコラの言う通りなのだが、何分、いろいろ我慢の限界なのだ。
この辺でご褒美があってもよいではないか。
そんな事を思っていると、クリスがノアの前で目線を合わせるように膝立ちになった。
「ノア様、マリアンヌ様から離れてくださいませ。そうでないと、この間のお約束、出来かねます」
――約束?
クリスとノアの間で、何か約束がなされたのだろうか。
知りたい気もするが、二人の間の事だ。
私が踏み入る事はしてはいけない。
「……」
クリスの言葉を聞いて、キュッとノアの手に力が入るが、少し名残惜しそうに離れて行った。
ノアが離れた事による解放感からなのか、腕が力なく下がっていった。
私がほっと胸をなでおろすと、今まで黙っていたレオンが声を発する。
「クリス、さっき予算の相談をマリアンヌ様に聞こうとしていなかったか? なぜ、マリアンヌ様にするんだ? それに、ノアとの約束とはなんだ」
「予算の件でございましたら、私よりマリアンヌ様の方が、計算が得意だと知り得たからでございます。ノア様との約束は……申し訳ございません、私の口からはお答えできかねます」
「約束なら仕方ないな。わかった。それより――」
レオンは、クリスの言葉に一瞬納得をした様子だったが、すぐに信じられないといった表情を浮かべた。
「マリアンヌ様が、計算できる……だと? そんなまさか」
「嘘ではございません。少し前に、私の仕事を手伝って頂きました。その術は見事でございました。ですので、こうして相談に――」
あのクリスに、こうも認めてもらえたのかと思うとすごく嬉しい。
だが、レオンには衝撃的だったのか、驚きの中に愕然と拍子抜けしているようにも見える。
「以前、マリアンヌ様に算術を習おうとしたが、拒絶されたのだぞ」
――拒絶? 「キツくあたっていた」っていう? 一体、何を言われたの――。
「以前のマリアンヌ様は……なんと?」
「「貴婦人の私に算術が出来ると思っているの。勉強すら自分で出来ないなんて、次期侯爵というのも名ばかりね」とな」
「私は……そんな事言ったの? それは――」
「謝らないでください! 謝罪はもう、十分聞きました! 謝罪なんかいらない! 欲しいのは、そんなものじゃない」
レオンが初めて打ち明ける、マリアンヌからの仕打ち。
私の想像以上のキツイ言葉。
きっと彼なりの努力やプライドを、一瞬にして無にしてしまったのだろう。
初めて会った時からの強い警戒心は、ノアの事だけではなく、自身が受けた仕打ちにもあったはず。
だが、これを聞いてやはり黙ってはいられない。
こんな事で怖じ気づくなら、最初から仲良くなりたいだなんて思わない。
「レオン君、ひどい事言ってごめんなさい。謝罪はいらないとの事だけど、やっぱり言わないわけにはいかない」
伝えなければと思った。
「頑張るあなたを、傷つけてしまったから」
母を亡くし、父は仕事で家におらず、家族と呼べるのはこの広い家に妹だけ。
使用人はいるが、家族かと聞かれると、疑問が残る。
そんなところに、継母という曖昧な存在が来て、彼らなりに歩み寄ろうとしたはずだ。
だが、返ってきたのはマリアンヌによる拒絶。
それによって妹を守らなければと言う、兄の使命や責任が強く芽生えたはず。
まだ11の幼子だ。
一人で多くのものを背負う彼に、伝えなければと思ったのだ。
「……」
私の謝罪を聞いた彼は、何とも言い難い表情を浮かべ、黙ったまま俯いてしまった。
私には彼の表情が一瞬だけ、悔しいような今にも泣きそうな表情に見えた。
そうして何とも気まずい雰囲気が漂う中、書斎の扉がノックされ、パトリシア婦人が姿を見せた。
講義の時間という事になり、私やクリス、ニコラは書斎から出て、予算の相談のために執務室へと移動したのだった。




