第十五章 開戦(三)
袁紹率いる大艦隊は、黄河を渡り白馬の津へと向かう。
艦内の司令室にて、袁紹は腕を組んで黙している。
待ちに待った曹操との戦……緊張していないと言えば嘘になる。
この戦の要は、まずは渡河点の奪い合いになるはずだ。
曹操の軍も、既に許都を発ったとの報は聞いている。
場合によっては、白馬津で曹操とぶつかることになるかもしれない。
曹操は、若い頃から己の興味の赴くままに生きる、自由奔放な男だった。
当時から飛び抜けた才覚で知られていたが、それ以上に衆目を引いたのは、その奇行の数々だった。
盗賊団を潰してその頭になってみたり、花嫁泥棒の真似事などしてみたり……
同じく少年だった袁紹は、そんな曹操の悪戯に半ば無理矢理付き合わされ、随分と神経をすり減らされたものだ。
とにかく、良いことも悪いことも、自分が出来ることは何でもやってきた印象がある。
袁紹は、そんな曹操に振り回されつつも、何をしでかすかわからない彼の行動に期待し、内心楽しんでいたように思える。
曹操がいたからこそ、袁紹の青春は実りある輝かしいものとなった。
一緒につるんでいた頃は決して認められなかったが……
こうして敵対することになって初めて、あの時代を好意的に受け入れられるようになったとは如何な皮肉か……
思い返すは、楽しかったあの頃……
「わはは! どうした袁紹! 足手まといは置いていくぞ!」
「犯人はこやつだ! こやつを捕まえろ!」
逃げ遅れたところを見捨てられたり、犯罪の濡れ衣を着せられたり……
今と全く変わらない、曹操の嘲るような笑い声が脳裏にこだまする……
(いや、楽しくはなかったな。むしろ腹が立ってきたぞ)
すぐに思い直す。
それでも、貴重な思い出であることには変わりない。
憎しみもなく、さりとて感謝しているわけでもない。
そんな、真に好敵手と呼べる男は曹操ただ一人だ。
彼を相手にすると、実に清々しい闘志が沸き立つのを感じる。
いつか、この男を越えたい……少年時代、最も身近にいた悪友に対して袁紹はそんな大志を抱いていた。
いつしかそれは、袁紹の人生の目標となったのだ。
そして、その時はもう間近に迫っている。
曹操には必ず勝つ。どんな手を使ってでも。
傲慢が己に力を与えるならば、どこまでも、果てしなく、驕り高ぶってみせる。
「オー、そろそろ岸が見えてキマシタネー」
窓を覗きながら、沮授が呟く。
過去の思い出に浸るのはこれまで……袁紹は椅子から起き上がる。
「白馬津を射程圏内に捕らえ次第、艦砲射撃で沿岸の施設を無力化、
その後文醜、顔良率いる機甲騎馬戦隊で一気に城を攻め落とす……だったな」
まず最善の手だ。とりあえず、全くの無能というわけではないらしい。
「そうアルヨ〜〜まずは景気よく一勝といきましょう〜〜」
(そう上手くいけばよいが……)
相手が曹操なだけに、やはり一抹の不安は残る。
それでも、田豊が託した才を信じて、堂々たる己を保つ。
「え、袁紹様ー!」
物見を任せていた兵が、息せき切って走ってくる。
「何事だ!」
兵士は、荒い吐息と共に信じられない一言を発した。
「曹操が……白馬津に……っ!!」
一方、劉備は船の外側に立ち、白馬津を眺めていた。
「白馬津か……いかにも兄さんの好きそうな名前だな」
去年逝った義兄のことを思い出すが、すぐに頭の奥へと押しやり、対岸の陣容を注意深く見つめる。
既に岸には砲台が並べられ、曹操の部隊が展開している。
「どうだ益徳、お前ならもっとはっきり見えるだろう。何か気付いたことないか?」
自分より視覚も聴覚も遥かに良い義弟に尋ねる。
じっと対岸を見つめていた張飛は、表情を変えずにとんでもないことを口走った。
「……曹操がいやがる」
「何っ!?」
果たして、曹操は多数の兵と共に対岸にいた。
彼の周りは、許楮、楽進ら精鋭達が守りを固めている。
それでも、戦の最前線に総大将自ら出てくるとは……報告を聞いた袁紹は、驚愕する一方で、嬉しそうに笑みを浮かべる。
(曹操……またこの私の予想を飛び越えていきおって!)
いついかなる時も、あの男はこの袁紹を驚かせねば気が済まないらしい。
司令室にいる重臣達がざわめき出す。
「曹操の本隊はもう白馬津に着いたのか?」
「馬鹿な、早過ぎる」
「とにかく、これは千載一隅の好機ぞ!」
「至急狙撃兵を用意させよ! いや、曹操もろとも船着き場を焼き払うべし!」
騒ぐ重臣を前に、袁紹は卓を叩いて立ち上がる。
「うろたえるでない! それでも我が袁紹軍の軍師達か!!」
袁紹の一喝により、場は一気に静まる。
だが、その中で一人全く動じず、微笑みを浮かべたままの男がいた。
「エンショー様、エンショー様」
「どうした、沮授」
「ちょいちょい、お耳を拝借。作戦を一部変更するアルネ……」
対岸に向けて移動していた袁紹の艦隊が、突如として動きを止めた。
砲撃を行うにしても、岸からは離れすぎている。ここからでは、沿岸の曹操軍に届かない。
だが、射程のことなど意に介さぬかのように、砲門が展開する。
そして、何もないはずの川面目掛けて、無数の砲口が一斉に火を吹いた。
一見、威嚇か試し撃ちのようで、単に砲弾を無駄遣いしたように思えたが……次の瞬間、川面が大爆発を起こす。
それは、撃ち込まれた大砲の火薬からは考えられぬほどの規模の爆発だった。
「な、何だ!?今のは?」
「思った通り……海中に爆弾が仕掛けてありましたネー。
あのまま進んでいたら、ワタシ達みんな海の藻屑になってたーヨ」
沮授の作戦とは、射程距離外からあえて川面を撃ち抜くというものだった。
その意味不明の提案に多くの重臣が反発したが……袁紹はあえてそれを受け入れた。
これが吉と出るか凶と出るか……それによって沮授の才気を見極めようとしたのだ。
結果としてこの判断は、海中に仕掛けられた罠を破壊し、あわや全滅という危機を乗り越えることができた。
「よくやった! 沮授よ!」
「イエイエ〜ワタシもまだ、死にたくありませんからネー」
「これからも、貴様の采配には期待させてもらうぞ」
袁紹は清々しい面持ちで、対岸を見据える。
「どうだ、曹操! 貴様の小賢しい策ごとき、我が袁紹軍には通用せん!
最も、貴様の兵力では、そのような姑息な手を使わねばこの袁紹に抗うことなど叶わぬがな!
貴様の行いは、黄河の流れに逆らって進む魚と同じよ!!
我らは荒ぶる激流となりて、貴様の謀もろとも、全てを押し流してくれよう!!」
まるで自分が手柄を立てたかのように有頂天になる袁紹。
だが、沮授は渋い顔一つしない。顔の筋肉を緩ませたまま、にこにこと笑っている。
それもそのはず、彼は元より個人の手柄や名誉には興味がない。
ただ、組織の歯車として十全に機能し、戦を勝利に導くことだけに喜びを覚える男なのだ。
田豊が彼を使命したのは、ずば抜けた才ももちろんだが、それ以上に彼の軍師として最適な性質ゆえだった。
「李典機雷は不発に終わったか」
爆発する川面を見て、曹操はこちらの策が読まれたことを知る。
(今頃袁紹は、さぞや得意満面になっていような)
その姿を想像して、曹操は思わず笑いが零れる。
それでいて、頭の中では次になすべき行動を即座に決定している。
袁紹の本隊がこの白馬津から上陸すると読んだ曹操は、李典が開発した新型の機雷を沿岸部に仕掛けた。
さらに、自分自身を囮として、艦隊を岸に誘導する。
船が海中に張り巡らされた網を突破した瞬間……縄で接続された機雷が炸裂し、袁紹の艦隊を一気に海に沈める……はずだった。
だが、この策は敵に読まれ、まさに水泡に帰してしまった。
最も、李典も開発中の兵器ゆえ上手くいくとは限らないと言っていたが……
袁紹には、よほど優れた軍師がいるらしい。
筆頭軍師である田豊か……それとも曹操も知らぬ新たな才か。
袁紹軍の陣容については、最後まで詳しい情報は得られなかった。
開戦までにあらゆる手を尽くして袁紹軍の情報を集めようとしたが、敵軍はあまりにも大き過ぎるゆえに、全貌を掴むことは出来なかった。
中枢に近づくにつれて軍紀は徹底され、情報が漏れでないようになっている。
情報戦においても、袁紹軍の備えは万全だ。
陣営の不明瞭さも、袁紹を強敵たらしめている由縁だった。
「白馬津は破棄する。直ちに城へ後退せよ!」
倚天の剣を掲げ、号令を下す曹操。
こちらには、袁紹軍の持つような機械仕掛けの軍艦はない。
岸で迎撃しようとしても、十数隻からなる艦隊の一斉砲撃を受けてはひとたまりもない。
岸に並べてある砲台も、威嚇のために用意したただの筒だった。
技術面においては、曹操とて決して袁紹に劣っているわけではない。
しかし、袁紹には優れた機械技術を形にできるだけの財力がある。
袁紹のような大艦隊を建造するには、人手も資産も足りなさすぎた。
負ける戦はしない。一戦一戦の有利不利を的確に見極め、犠牲を最小限に留めねば、この長い戦いは勝ち残れない。
曹操の指示に従い、岸に展開していた部隊は潮が引くより速く撤収する。
その直後、袁紹の艦隊は射程圏内に到達する。
「第二射、撃て――っ!!」
沿岸に雷電が降り注ぐ。
多数の戦艦から放たれた砲撃の嵐は、張りぼての砲台を残らず吹き飛ばし、沿岸部を更地に変えた。
曹操は逃がしてしまったが、景気付けの花火としては最高だ。
脱兎の如く逃げ去る曹操を見て、袁紹はご満悦である。
「ふははははははは!! 逃げおった! 逃げおったぞあの曹操が!!
この袁紹を挑発するつもりだったのであろうが、尻尾を巻いて逃げるとは情けない事よな!!」
子供のような物言いだが、これは紛れも無い袁紹の本心である。
いつか曹操を参らせたい……名門袁家の血統よりも、子供の頃から続く因縁を支えとして、彼は今日まで戦ってきたのだ。
そして、これからも。
無人の白馬津に、艦隊が接岸する。
大きな橋が下ろされ、艦内にいた数万の軍勢が上陸する。この規模ですら、ほんの一端でしかない。
最終的には、総勢四十五万の大軍が揃うことになる。
袁紹は船の上から、降り立った五万の軍に激を飛ばす。
「この袁紹に付き従いし精鋭達よ! 待たせたな!
新たな時代を切り開く我らの戦は、ここから始まるのだ!! 文醜! 顔良!」
「はっ!!」
右翼と左翼の先頭に立つ二将軍は、袁紹の声に力強く応える。
「兵五万を率いて曹操を追撃せよ! この袁紹への忠誠、武勲で示してみせよ!!」
「お任せを!」
続けて、全軍を見渡して言い放つ。
「貴様達は第一陣に志願した勇気ある者達だ!
手柄を立てれば、本来の五倍の報酬を与え、しかるべき地位も約束しよう!
この袁紹、勇猛と忠誠には金子を惜しまぬ!
我らの勝利は、お前達一人一人の働きにかかっている!
戦え! 我らが掴む栄光のために!!」
袁紹の鼓舞によって、全軍は歓声を上げる。
「行けい!!」
袁紹が黄金剣を突き出した瞬間、先発隊は堰を切られた洪水の如く駆け出していく。
その中には、劉備と張飛もいた。
「今の聞いたかよ、益徳! 五倍の報酬だってよ! こいつぁやる気出てきたぜぇっ!」
「たく、金のこととなると眼の色変えやがって……」
張り切る劉備を見て、張飛は呆れた視線を送る。
「なぁに、そう考えているのは俺らだけじゃねぇさ。
見ろよ、どいつもこいつも恐ろしく猛ってやがる」
確かに、共に走っている者達は、皆燃え立つように士気を高めている。
「けっ、金のために頑張るたぁ、安い奴らだぜ」
雪崩のような馬の蹄の音で聞こえないと思って、好きに毒づく張飛。
「いやいや、この金って奴が一番大事なのさ。
本気で袁紹のために戦いたいって思っている奴らはほんの一握りだ。
大半は、戦に勝っていい思いをしたいって奴らだろうよ。
世界の大義よりもまずは自分の幸せ、それが普通の人間ってもんだ。
そういう奴らの力を引き出すなら、目ん玉飛び出るような金を積んでやるのが一番なのさ!
袁紹って奴はただの金持ち自慢じゃねぇ……金の使い道を分かっていやがる!
そしてそいつぁ曹操も同じことだ! その点じゃ奴らに差はねぇ!
効率のいい金の使い方をしてきたからこそ、奴らは勝ち上がることが出来た!
まず必要なものは金なんだよ! 大勢の人間を引き付ける金無くして、天下は取れねぇ!」
それは、自分自身に言い聞かせているようだった。
張飛も、少ない兵力でやりくりして来た劉備の苦労を知っているだけに、彼の思いは理解できた。
「つーわけだからよぉ、益徳。
お前もこの戦でたっぷり活躍して、袁紹からたんまり報酬をふんだくってくれよ!」
「結局他人任せかよ……」
ぼやく張飛だが、やる気がないわけではない。
袁紹軍に組しているとはいえ、相手は曹操……徐州での雪辱を晴らすにはちょうどいい機会だ。
蛇矛を握るその腕は、闘志に漲っている。
「ま……やるだけやってやるか……!」
関羽の仇討ちのつもりは毛頭ない。兄は必ず生きていると信じているからだ。
この戦は、劉備を守るための、自分が強くなるための……そして、いつか関羽と再会する時のための戦いだ。
文醜、顔良率いる先発隊五万に比べ、曹操の兵は僅か五千、飲み込まれれば一巻の終わりである。
しかも、大軍にも関わらず、その進軍速度は曹操らを上回っている。
このままでは、白馬城に到着するまでに追いつかれる。
「さすがにすんなり行かせてはくれぬか」
刻一刻と近づく袁紹軍の蹄の音を聞き、冷静に現実を認識する曹操。
袁紹軍の速さの秘密は、彼らの使用する乗騎にある。
北の異民族と同盟を結んだ袁紹は、彼らから多くの馬を譲り受け、その繁殖に着手した。
北方の騎馬軍団は最強と呼ばれているが、彼らの用いる馬は根本的に中原の品種とは違う。
厳しい環境に揉まれ、極寒の大地を生き抜けるよう進化した精強なる種。
その内に秘めた能力は、穏やかな中原の品種とは比べるべくもない。
さらに「馬」という種族の始祖となった幻獣の血も色濃く受け継いでいる。
かつて呂布軍で使用されていた魔獣馬にも、この北方の馬の細胞が利用されていた。
十倍以上の大軍の勢いに、兵達も恐怖に当てられる。
たまりかねて、楽進が声を上げた。
「曹操様! 俺が殿に行きます!!
近づいてくる奴ぁ、片っ端から殴り飛ばして……」
「ならぬ。追いつかれなくとも、矢の射程圏内に入れば狙い撃ちにされて終わりだ。
今はただ、前に進むことだけを考えよ」
近距離での殴り合いを得意とする楽進にとって、遠距離からの矢の連射は相性が悪すぎる。
「で、ですが……」
「分かっておる。余もこのまま逃げ切れるとは思っていない。
それに……元より逃げるつもりはない。余はここに、戦うために来たのだ」
自信に満ちた曹操の言葉に、楽進は押し黙る。
「後方にいる五万の軍勢は、この場で駆逐する」
ありえないことを平然と口にしてのける曹操。
いかに曹操が戦の天才とはいえ、十倍の兵力差は覆しようが無い。
相手は劉備とは違う。今日この日のために、徹底的に鍛え上げられた袁紹軍の精鋭なのだ。
だが、曹操には確たる自信があった。
白馬城の方角から、砂塵と共に黒い甲冑を纏った騎馬の群れが現れる。
『曹』の旗を掲げた軍勢は、味方のものだ。
そして、その先頭に立つのは……
「袁紹には同情してやろう。
何せ、余の下には、今中華で最も強い二人の男がいるのだからのう……」
黒い甲冑を装着した張遼は、傍らにいる男に語りかける。
この黒甲冑は、曹操軍の精鋭の証。
曹操軍において、最も強い部隊に与えられるものである。
「正直、今でも意外に思っている……
次に貴殿と戦場で見える時は、必ず再び刃を交える時だと信じて疑わなかったからだ」
「………………」
大輪刀を握り、挑発的な視線を送る張遼。
「まさか、貴殿と肩を並べて共に戦う日が来ようとは。
この戦いの勝敗よりも、どうやって貴殿と戦いたい衝動を抑えるかが難題だ」
「私も意外だ」
「ほう?」
「貴殿がそんな軽口を叩く男とは思わなかった。曹操殿に影響されたか?」
「く……ははははは!」
その切り返しに笑い出す張遼。
確かに、曹操の下についてからどこか変わって行く自分を実感している。
だがそれは、決して悪いものではない。
「作戦通り……私は曹操様の盾となる。貴殿は矛として、敵陣を突き崩してくれ」
「心得た」
黒き鎧を身に纏う男は、青龍偃月刀を振りかざし、敵陣目掛けて馬を奔らせる。
「何だぁ? 増援かぁ!?」
曹操を迎えるように城の方面から現れた軍勢はおよそ三千ほど。
皆黒い甲冑を着込んでおり、遠目では大地を流れる黒い濁流のように見える。
彼らは曹操を包み込むように保護すると、一部が分かたれ、こちら目掛けて突き進んでくる。
「馬鹿めが、狙い撃ちよ!」
たかが千程度の兵でこちらに挑んでくるとは、自殺行為としか言いようが無い。
大きな口から唾を飛ばしながら命じる顔良。
射程圏内に入った瞬間、弩弓隊は弓を一斉に射出する。だが……
先頭を走る将が、さらに前へと加速する。
長い黒髪を振り乱し、手にした青龍偃月刀を上空に向けて回転させる。
風車の如く回る青龍刀は円形の盾となって、飛来する数千の矢を切り刻む。
その神業に、袁紹軍の兵士達は息を飲む。
男は矢を残らず撃ち落し、青龍刀を再び水平に構える。
あれだけの矢を受けたにも関わらず、体はおろか鎧にすら、かすり傷一つ負っていない。
そしてこの瞬間……黒髪の将は、その素顔を袁紹軍へと晒した。
その正体は……劉備と張飛にとって、誰よりも衝撃的なものだった。
「雲長……」
「雲長兄貴……!!」
長い黒髪と黒髯、青龍偃月刀、そしてあの超絶的な武芸の冴え……
黒い甲冑を纏った曹操軍の先鋒は、まさしく関雲長その人だった。
「関羽……関羽だとぉ!?」
関羽を見て激しく動揺した男がもう一人……
顔良の内に去来するのは、驚愕、憎悪……そして例えようも無い歓喜だった。
「ぐ、ぐわははははははは!!
関羽ぅぅぅぅぅ!! 何故貴様がそんなところにいるぅぅぅ!!
だぁが! そんなことはもうどうでもいいぃぃぃぃ!!」
もう十年近くも前……関羽に受けた屈辱は、晴れることなく内で燻り続けていた。
粗暴で豪快なように見えて、その実極めて粘着気質な彼は、あの時の屈辱を忘れることなどできなかった。
あれから幾多の戦場を渡り歩き、多くの敵を殺してきたが……
月日を経て忘れるどころか、拭い去りようの無い怨念と化していった。
その怨み積もる相手が、こうして敵として現れたのだ。
顔良の頭から、軍を率いる将としての自覚など頭から消し飛んでいた。
「どけどけい!! 関羽は俺様がぶっ殺してやる!!」
大鎚を振り回し、配下の兵に道を開けさせる顔良。彼の濁った瞳に映るのは関羽のみだ。
「関羽ぅぅぅぅぅ!!」
互いの乗騎が交錯した瞬間……
「くたばりゃぁぁぁぁぁぁっ!!!」
力任せに大鎚を振るう顔良。
袁紹軍一の剛力から繰り出される、巨岩をも容易く吹き飛ばす一撃だ。
だが、その一撃は空を薙ぎ払うに留まった。
衝撃波によって、関羽の長髪が千切れ飛ぶ。
「ち……だが、まだまだぁ!!」
それほど簡単に斃せる相手とは思っていない。
大鎚を握り締め、追撃及び反撃の態勢を整えようとする。
(ん? 何だ……?)
顔良は、意外な光景を目の当たりにする。
当然こちらに向かってくると思っていた関羽が……見る見るうちに自分から離れて行くのだ。
「俺様から逃げるか、関羽!!
さてはこの顔良に恐れを成したな! 口ほどにも無い奴よ!!」
仕留め損なったが、彼の機嫌はすこぶる良くなった。
そんなに自分が怖いのか、関羽は必死で逃げようとしている。
その証拠に、彼の姿が瞬く間に小さくなっていくではないか。
やはり十年前の戦いは何かの間違いだった。
袁家に連なる高貴な血統を引く自分が、あんな田舎者に負けるはずが無い。
二人には、天と地ほどの実力の開きがあるのだ。
(くくく……いささか拍子抜けしたが、逃がすものか……
ようやく巡ってきたこの機会……貴様の脳天をぶち砕かねぇと、満足できねぇんだよ!!)
そう思い、関羽を追いかけようとする顔良だが……
ここで、自らに起こった異変に気づく。
追いかけられない……どれだけ念じても自分の体が、前に進もうとしないのだ。
その内、関羽の姿は豆粒ほどに小さくなってしまう。
これでは、獲物をむざむざ取り逃がしてしまうではないか。
「くそっ! どうなってんだ!? 動けっ! この駄馬がッ!!」
脚で乗騎の脇腹を叩こうとするが、彼の脚もまた、意に背いて動こうとしなかった。
否……そうではない。
顔良の中で、黒い疑念が沸き起こる。
関羽は本当に逃げているのか?
ならば何故……自分の周りの風景も同時に前へ流れているのか?
(ち、違う……離れているのは……遠ざかっているのは……ッ!!)
馬も脚も、動かないのではない。
そんなものは、今の彼には既に存在しないのだ。
底冷えするような恐怖、そして湧き上がる痛みと共に、顔良はある真実に行き当たる。
「俺だァァァァァァァァッ!?」
腹から下を喪失した上半身だけの姿で、顔良は絶叫する。
あの交錯した一瞬に、既に勝負はついていた。
関羽は大鎚を避けると同時に、青龍偃月刀を振るい、瞬時に顔良の腹部を両断したのだ。
切断された顔良の上半身はそのまま吹き飛び、まだ意識のあった彼には、遠ざかって行く関羽が逃げているように見えたのだ。
(お、俺が死ぬ!? この、顔良が……!?
馬鹿なっ! 俺はまだ何もやっていない!!
こんなところで、終わるはずが無いぃぃぃぃっ!!!)
現実を直視できないまま、恐怖を超えた憤怒が顔良を支配する。
風の流れを肌で感じ、大量の血を吐きながら、その怒りを虚空に解き放つ。
「ド畜生がァァァァァァァァァァァァァッ!!!」
袁紹軍の二枚看板、顔良将軍。
彼は、曹操軍に加わった関羽が討ち取った最初の将となり……
同時に、曹操と袁紹との戦における、最初の犠牲者となるのであった。