第十五章 開戦(二)
「だぁっ!はっ!てやぁっ!!」
岸辺の岩肌で、一心不乱に蛇矛を振るう張飛。
己自身の苛立ちを相手にしているかのように、鬼気迫る形相で鍛練に励んでいる。
今ほど、己の力不足を痛感したことはない。
迫り来る曹操軍の猛威から、自分は兄を守って逃がすことしか出来なかった。
劉備は、それで十分だ、よくやったと褒めてくれたが……張飛の心には拭いようがないしこりが残っていた。
(もしあの時、雲長兄貴がいたなら……いや、俺の代わりが、雲長兄貴だったなら!)
こんな惨憺たる結果にはならなかったはずだ。
もっと上手く軍を率いて、曹操軍相手に持ちこたえることができたかもしれない。
自分は、関羽に遠く及ばない。
劉備は、軽口こそ多いが本気で張飛を責めることはない。
だがそれが余計に自責の念を煽る。
お前はお前に出来ることをすればいい……
そんな慰めは、結局、劉備も張飛を関羽より劣ると見なしているということなのだ。
少し前までは、まるで意識することすらなかった考えだ。
関羽がいなくなって、初めて思い知らされた。
自分が、どれだけ彼に頼ってきたかということを。
関羽がいなければ、自分はただ多少強いだけのひよっ子ではないか。
そして………今、関羽はいない。
あの後、自分達は徐州に彼を置き去りにすることになってしまった。
下丕城が落ちたという報せは聞いたが、関羽の生死は不明のままだ。
曹操に殺されたか、何とか脱出に成功したか。
劉備は関羽について何も語らない。諦めた……とは思いたくない。
必ず生きていると信じたいのだ。そしてそれは、張飛も同じことだ。
自分でさえ、こうして生き延びたのだ。あの関羽が死ぬはずがない。
“あの誓い”を破るはずがない。彼は必ず帰ってくる。だが……
(強くなる……俺は、強くなる!!)
もうあんな悔しい思いはしたくない。
関羽に頼らなくても戦える強さ……彼がいない間、立派に劉備を守り切れる強さを手に入れる。
体中の傷が微かに疼くが、それを自ら封じ込める。
(あんな“まがい物”の力じゃねぇ……雲長兄貴みたいな、本当に強い男になってやる!)
それが、今も必死で生きるために戦っている関羽の思いに答えることになるはずだ。
(兄貴は俺が絶対に守ってみせる!
だから、雲長兄貴……すぐにとは言わねぇ……いつか、必ず帰ってきてくれ!)
関羽への甘えを捨てる……それが、真の意味で強くなり……兄達に並び立つ第一歩のはずだ。
揺るがぬ決意を抱き、矛を振るっていたが……下品な笑い声が、場の空気を掻き乱した。
「げははははははは!
誰かと思えば、劉備んとこの糞餓鬼じゃねぇか。こんなところで何やってんだぁ?」
上を見上げると、そこには袁紹軍の二枚看板の一人、顔良がいた。
張飛は、自分にできる最も穏やかな反応を返す。
「あんたには関係ないだろ」
だが、顔良が沸点に達するのは、今の一言で十分だった。
血管が浮き、膨れ上がった顔が、蜂に刺されたように赤くなる。
「何だその口の利き方はァ!!」
怒鳴り声をあげ、地面を強く踏み付ける。岩が砕け、破片が散る。
「てめぇ……自分の立場が分かってんのか?
曹操にボロ雑巾みてーにやられて袁紹様に泣き付いてきた、ゴミクズ劉備の金魚の糞がよぉ……」
張飛を見下し、怒りと蔑みの篭った眼で睨んでくる顔良。
「いいか! てめぇらがこうして生きていられるのは、全部袁紹様のお情けがあってこそだ!!
いわばてめぇらは、靴の裏にたまたまへばり付いた泥も同然の存在なんだよ!!
ゴミの分際で、俺様に舐めた口きいてんじゃね……」
「鍛練」
顔良の口上を遮るように、張飛は冷ややかな声を浴びせる。顔良は一瞬面食らう。
「あんたのさっきの質問だよ。ここでちょっと体を鍛えてたんだよ。
悪かったな。当然見ただけで分かっているもんだと思っていた」
自分も丸くなったものだ。
今やこの程度の挑発なら、簡単に受け流せるようになっている。これも、長兄の影響だろうか……
「………………」
顔良はしばし固まっていたが、“透かされた”ことに気付いて顔を強張らせる。
ここで言い返したら負けだ……顔良は必死で怒りを押し込める。
だが……やがて、彼の顔に下卑た笑みが浮かぶ。
「そういやぁよぉ……関羽はどうした? 何で一緒にいねぇんだ?」
意地悪く聞いてくる顔良に、張飛の顔色が変わる。
「お! そうだった! 関羽は死んだんだったなぁ……
てめぇらに置き去りにされて、曹操に嬲り殺しにされたんだったか……
酷い話もあったもんだぜ。劉備ってのは本当人でなしのクズ野郎だな。
こんな男には絶対に仕えたくねぇぜ。グヘヘヘヘヘ!」
げらげらと笑う顔良に対し、張飛は拳を強く握り締める。
言うな――
それ以上言うんじゃねぇ――!!
罵りの対象が自分から兄たちに及んだ途端、張飛の怒りは一気に頂点へと達した。
これまで何度も顔良に挑発されても、手を出そうとしなかったのには訳がある。
劉備に、決して袁紹軍と悶着を起こさないよう厳命されていたからだ。
劉備はあくまで客将の身……そこで騒動を起こして袁紹の機嫌を損ねれば、すぐに追い出されてしまうかもしれない。
だから、これまで顔良に何を言われても努めて受け流してきたのだ。
だが、もう今が限界だった。
兄の苦渋の決断を、こんな男に悪し様に罵られるのは我慢がならない。
今すぐにでも顔良を刺し殺してやりたい殺気で漲っている。
「しかし残念だったぜぇ。関羽の野郎は、俺様がこの手でぶっ殺してやりたかったのによぉ!!
はっきり言っちまうが、俺はてめぇらが気に喰わねぇんだよ!!
何でこんなところにいやがるんだ! 死にかけの雑魚は、とっとと消えやがれ!
何だったら、俺様が引導を渡してやってもいいんだぜぇ! え、張飛よぉ!!」
あからさまな怒気と憎しみを露にして手にした大鎚を振り回す顔良。
だがそれを見て、張飛の心は逆に冷めていった。
「へぇ……その言い分だと、あんた一度雲長兄貴に負けたんだな」
「!!」
全くの事実を指摘され、顔良は言葉を詰まらせる。
「というか、あんた誰だよ。俺ぁ全然記憶に無ぇんだが」
「な……き、貴様……」
「俺はあんたのことを知らない。
けど、あんたは俺や兄貴たちのことを知っていた……
これって、どういうことなんだろうな?」
人一倍自尊心が強い顔良に、この挑発は効いた。全て自分の一人相撲だったように思えて、例えようもない憤怒が彼を突き動かす。
「こ、こぉのクソチビがぁぁぁぁぁぁ!」
「るせーよ! このイボイボデブが!」
既に張飛の怒りも沸点を通り過ぎていた。
相手の方から仕掛けたとなれば、少しは言い訳も立つだろう。
いや、そんな打算など頭から消し飛ぶほど、今の張飛は怒っていた。
「死にさらせぇぇぇぇぇぇ!!!」
大鎚を振りかぶり、突進する顔良。
張飛も殺気を刃に乗せ、顔良を迎え撃つ。だが……
「はい、そこまで……」
張飛と顔良の間に、白い影が割って入った。
思わず息を飲むほどの美男子だった。
憂いを帯びた紫水晶の瞳に、耳が覆われるところまで伸ばした輝く紫色の髪。
細身ながらも背の高い体躯を白い貴族衣装で包んでいる。
麗しい睫毛を備えたその顔は、女性らしい柔らかさと清らかさ、更に得体の知れぬ妖気すらも宿したおよそ非の打ち所のない美貌を湛えていた。
最も、張飛と顔良が動きを止めたのは、その美しさに圧倒されたわけではない。
彼の抜き放った両刃の長剣が顔良の喉元に突き立てられ、同じく長い鞘で張飛の蛇矛を押さえ付けている。
(強い……!)
元より男の顔などに興味のない張飛が直感したのは、彼の得体の知れぬ強さだけだった。
現に自分は、この男が近づいてくることに気付けなかったではないか。
今も、正体不明の妖気を感じて一歩も動けずにいる。
「張合てめぇ!邪魔すんじゃねぇ!」
(張合……それがこいつの名か)
顔良も知っていることからすると、彼も袁紹軍の一員らしい。
張合は、あくまで優雅に……されどうんざりしたように答えた。
「やめてくれないかな。その汚らわしい声でボクの名を呼ぶのは。不愉快窮まりない」
「な……」
「せっかく人が午後のまどろみに身を任せ、夢の世界を旅していた最中だったのに……
そんな下品な声で騒がれちゃ、甘美な夢世界に耽溺することもできないじゃないか……」
(何だこいつ……いや、それより……眠っていた、だと?)
ならば、彼は自分が一人で鍛練している間も、この近くにいたことになる。
確かにこの辺りには身を隠せる岩陰がいくつもあるが……
それでも、自分が全く気配を感じることが出来なかったとは……
「これが、麗しき乙女の声だったなら、どんな罵り合いでも妙なる天上の音楽に聞こえただろうに……
君達では、野鼠が地を這う音より不快な調べにしかならないよ……」
嘆くように天を仰ぐ張合。顔良は忿懣やるかたない様子で声を搾り出す。
「てめぇ……新参者の癖に生意気だと思っていたが……どうしても俺様の邪魔をしくさるつもりか」
「いや?殺し合いたければ好きにするがいいさ。
君達が死のうがどうなろうが、興味ないからね。
ただし、ここでは駄目だ。ここで暴れられちゃあ、ボクの安眠の妨げになるだろう?
この場所は風が気持ちよくて気にいっているんだ。
雑音を立てたいというのなら、もっと他の場所でやってくれないかな?」
自分の都合だけをまくし立てる張合。
この男は、睡眠を邪魔された……ただそれだけの理由で仲裁に入ったというのか。
もちろん、確かな実力に裏打ちされてのことだろうが……
張合は剣を鞘にしまい、背中で手を組んで歩き出す。
「ま、その結果双方軍紀違反で死罪になっても、ボクには関係ないことだけどね」
「ぐぅ……」
張合の言葉で頭が冷えたのか、顔良の殺気が急速に静まっていく。
確かにここで争っても袁紹に処罰されるのが落ちだ。
「らぁぁぁぁぁっ!!」
近くの岩場に鎚をたたき付ける。岩が砕け散り、大きな陥没が出来上がる。
今ので溜め込んだ怒りを発散したのか、顔良は鎚を担いで、捨て台詞を残して立ち去ろうとする。
「おらぁ、チビ。あんま調子に乗ってんじゃねぇぞ。
次の戦、せいぜい背中に気をつけるんだな。
戦場じゃあどんな間違いが起こるかわからねぇからなぁ……」
「あんたこそ、そうやって人の足を引っ張るのに一生懸命になって、うっかりやられちまわないようにな」
売り言葉に買い言葉、顔良はまたも憤激しそうになるが、怒りを内に押し込め去っていった。
「……なぁ、あんた……」
張合の方を見た途端……すぐ眼の前に、彼の顔が見えた。
「うわぁ!?」
情けないことだが、思わず腰を抜かしそうになる。
「ふーん、顔はそれほど悪くない。だが、品性が足りなさすぎる。
まぁ、野性の虎の類と見ればそれなりに愛でることもできようが……いや、良くて喧しい野良猫だな」
「さっきから何を……」
「君が気にすることはない。そう言えば、自己紹介がまだだったか。
私の名は張合、字は儁乂。美の探求者だ」
「び……美?」
「そう、この世の全ての価値は美しさで決まる。
世界には、まだ見ぬ美が白日に晒されるのを待っている……
それを探し求めることこそ、私の使命だ」
空を見つめて、うっとりとなる張合。
その独特の調子に、張飛はすっかり置き去りにされてしまう。
「それにしても【大地の鉄鎚】殿も哀れな御方だ。
己があまりに醜いがために、世界の美しさに憎しみを抱かずにはいられないのだろう。
彼を責めてはならない……むしろ悲しむべきだ。
彼を醜く産み落とした運命の残酷さに……
嗚呼……まさしく美しさとは罪なもの……おや、どこへ行くのかね」
張合の話を聞かず、その場を去ろうとする張飛。
彼にしては珍しく戸惑った表情で、こう告げる。
「……あんたは嫌な奴じゃなさそうだが……正直、俺にはついて行けそうも無い……」
怒りや憎しみ以外で、こんな風に拒否反応を覚える相手は始めてだ。
張合は特に気にした様子もなく、ただ肩を竦めてみせた。
「ああ、君には少々高尚すぎたかな、【蛇天童子】君」
「じゃ、じゃ……何だって?」
突然出てきた単語に困惑する張飛。
「何、気にする必要はない。今度は戦場で会おうじゃないか。
美しい戦いを見せてくれることを、期待しているよ」
「………………」
この男とこれ以上会話しても、疲れるだけだと思った張飛は、無言でその場を立ち去る。
張飛の姿が小さくなるのを見届けた後、その紫水晶の瞳を黄河へと向ける。
「【紅の覇王】と【黄金の帝王】……さぁて、どちらが勝つのかな?
まぁ、どちらだろうと構わない。
戦を通して、そこに最高の美を見出だすことができればね……
うふふ……うふふふふ……」




