ミッションスクール
外国文学には、聖書の言葉や登場人物がよく出てくる。《そのまま引用》と
《パロディに変えて引用》とがあるが、聖書に縁遠い日本人の脳では、よほどの
名句でないかぎり、パロディに気づけぬまま読み進めてしまうことがある。
たとえば《ユダ=裏切り者》という背景を知らないでいると「なぜ、登場人物でもない《ユダ》って名前が、ここでいきなり出てくるんだ?」となる。
このような場合、たいていはカッコによる説明書きが記されているが、訳者にとっては親切のつもりでも、読者にとってはうっとおしいとなるようで、なかなかに難しい問題だ。
ことロマンス小説の分野においては、このカッコ書き説明は《ご法度》で、訳文にうまく盛りこむのだと、現役でご活躍の翻訳家の先生にうかがったことがある。
『乙女の祷り』を書くにあたっては、ダイジェスト版の聖書で簡単に学びなおし、日本語⇔英語対照の聖書にも目を通した。
ミッションスクールの歴史を調べていて驚いたのが、当時の英語教育の高さで
ある。外国ミッションによる経営のため、校長と幹部は宣教師。イングリッシュ・デー(※)なるものまで設けられていた校風は、私の通っていた市立高の英語授業より、ハイレヴェルだったのではと思わせる。
授業風景は、卒業生の回想によると、以下のようなものだった。
明治九年十一月晩秋の薄日が新栄女学校の洋館の窓を和やかに照らしている。
若き西洋婦人が少女等を前にしてゆつくりゆつくり英語を話している教壇の上には直径一尺位の地球儀が置いてある。生徒はいずれも十五、六歳、銀杏返し、桃割、唐人髷、長袖の着物に小倉の袴を穿いている者もあつて、熱心に謹聴している。(中略)教師は全部英米人であつた。聖書、植物学、天文学、万国史、万国地理、ウヰルソンリーダー・ナショナルリーダー、凡て英語を用いた。
(『女子学院八十年史』1951年より抜粋)
なんとも《ミッション》な雰囲気ではないか。当時の学び舎は現代のようなコンクリート匣にあらず、さぞやおもむきがあったのだろうなぁ……と、モノクロ写真を眺めながら、郷愁と憧憬の入り混じた感慨に、ひとしきりひたった私であった。
※ 生徒同士の間でも、日本語を使ったら一度につき一銭の罰金を取る、
という規定があった。




