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後編

 旦那様がお帰りになったと聞いて、フランは急いで湯の支度をはじめた。

 この邸の主人が帰宅するのは四日ぶりのことだ。

 急に大きな仕事が入ったのだと執事が言っていたので、すると、その仕事は終わったのだろう。それならば気持ちよく休んでもらえるように精一杯努めなければ。


「フラン様。あとは私どもでやりますので、お部屋で旦那様をお待ちください」

「は、はい」


 執事に言われてしまうと、フランは従うほかない。

 ほかの侍女たちへ指示を出す執事に場を譲り、自分は主人の寝室を整えることにする。

 すでに清潔なシーツに替えてあるからとくにすることもないのだけれど、灯りを入れて、小さなテーブルに水さしやグラスを並べた。やることがなくなると、辛抱強く待つ。

 しばらくすると足音が響いて、開いた扉なら主人が姿を見せた。


「旦那様! お帰りなさいま――わっ、わわわ」


 姿勢を正してお迎えしたつもりが、倒れこんできた主人を体全体で支えることになってしまった。

 これはずいぶんとお疲れのようだ。

 なんとか踏ん張って転ばないようにして、フランは寝台へ体の向きを変える。


「だ、旦那様。お休みになるなら、寝台へ行きましょう。ね! すぐそこですから! もう少し頑張ってくださいませっ」


 ぎゅっと回された腕にいろんな意味で悲鳴を上げそうになるのをこらえ、フランは無礼とは思いつつ力一杯主人をずりずり動かした。

 ぼすんと寝台へ横たえることに成功して、フランはふうと額を拭う。

 しっとりした銀髪の向こうにあるはずの、青灰色の瞳を探して首をかしげた。


「お食事はおすみですか?」

「……いらん」

「このままお休みに?」


 あまりに億劫そうなので、フランはそっとその顔色をうかがう。想像以上にお疲れだ。


「もしよろしければ、お体の揉みほぐしをいたしますが……」


 ぐったりとしている主人は、フランの言葉にしばらく沈黙した。しかし、何度か風が窓を揺らしたあとで、しゅるしゅるとシーツを鳴らしてゆっくりと体の向きを変える。

 背を上にうつ伏せた彼は、重たげに唇を動かした。


「……フラン」

「はい」

「……好きにしろ」

「はい! かしこまりました」


 真面目で厳格な主人のこんな姿はめずらしい。

 相手から見えないのをいいことに、フランはこっそりと笑みをこぼした。

 出番である。侍女の仕事はさせてもらえないが、フランにもたまにこうして役に立てるときがあった。気合いを入れねばなるまい。

 腕をまくって、失礼しますと寝台へ腰掛ける。

 湯上りであたたまっている主人の体へ、ガウンの上からゆっくりと手をはわせた。




 王宮で宰相補佐をしているギースは、たまにこうして動けなくなるほどの疲労を抱えることがある。

 普段から根を詰めて仕事をしているため、疲れも取れにくく、睡眠も浅いようだった。あまりよくない顔色なのに、毎日がそれだからもともとそうなのかと思わせるくらいだ。

 三年前まで、フランは彼の執務室を担当する侍女だった。

 気難しそうな相手に緊張しながら部屋を整え、機会をうかがいながら茶の支度をし、言いつけられれば資料を届けたり受け取ったり。


 一年ほど仕えることができたから、たぶん、不興を買うことはなかったのだと思う。真意はわからないが、執務室ではなく彼の邸で仕える気はないかと言われ、フランは今ここにいる。

 厳しいが、国のことを一番に考えて努力も苦労も惜しまない姿に、フランは胸がいっぱいになった。一生懸命お仕えしよう。そう思っていたところでの誘いだったから、快く引き受けたのである。


 侍女の仕事をするつもりだったのだが、それはほかの侍女が請け負い、フランはもっぱらギースの身支度や邸へ訪ねてくるお客の対応を任された。普段はギースが手配した教師から国の政や礼儀作法などを学び、合間にお茶をしながら執事と邸の管理を話し合うばかりだ。


 これは侍女だった自分には荷が重いと思っているのに、主人はそれでいいのだと譲らない。そう言われてしまうと、そうなのかとフランもうなずくしかなかった。彼のことだからなにか考えがあってのことなのだろう。

 うまくやっていると言ってもらうこともあったから、それならばますます頑張るぞと意気込んで現在に至る。


「旦那様。これは、今宵だけではお疲れが取れませんよ」

「……ああ」

「明日から、できるかぎりお帰りくださいね? お体を壊してしまいます」

「……ああ」


 ゆっくりと布越しに背中をさすり、首や肩にも力をこめる。ちょっとやそっとじゃ、ほぐれないほどガチガチに固まっていた。

 執務室付きだったころから、なにか主人のためにできることはないかと思っていたフラン。

 それなら、体の疲れを取ってあげるといいよ。そう言って一から手順を教えてくれたのは、宮廷医師のコンラッドだった。

 教わった手の動きや流れを身につけて主人へ施すようになって、三年。

 初めは眉を寄せていた主人は、今ではすっかりフランに身をまかせるようになっている。




 首から肩、肩から脇、脇から腕と、順になでて揉んで固まった筋肉をほぐしていく。

 ゆっくりと上下する体。閉じられた瞳。

 いつもきっちりしているのに、このときばかりはひどく無防備だ。

 投げ出された腕を軽く持ち上げ、フランは主人の手のひらをやわやわと揉んだ。男性にしては華奢で綺麗だが、自分の小さな手と比べるとやはり大きくて筋張っている。

 この手が、国を支えているのか。

 まじまじと眺めて、それから丁寧になでた。


 今のところはうまくできているらしい。お咎めの声があがらないことにほっとしてフランは、背中から腰へと手を移す。

 時間をかけて向き合えば、少しは楽になってもらえるはずだ。すでに日付が変わった時刻だが、気にせずフランは主人の疲れを癒すことに集中した。

 こりのひどいところになると眉を寄せたり息を詰まらせたりしていた主人なのだが、そうこうしているうちに規則的な寝息が聞こえてくる。


 フランはよかったとほほえんだ。するりと眠れたなら、それに越したことはない。

 全身をゆっくりゆっくり時間をかけてなでてから、足元に畳んでおいた布団をふわりとかけて灯りを落とす。お休みなさいませ。そう言って寝室を辞そうとしたフランの手を、ぐっと強い力が遮った。

 突然のことに、フランはぼすんと音を立てて寝台へと倒れこむ。


「だ、旦那様?」


 いつの間にか起きたのだろうか。

 暗がりで目をこらすと、薄っすら主人が目を開けたように見えたような、そうでないような。


「……フラン」

「はい」


 ああ、やはり目が覚めてしまったのか。もっと静かに退室するんだった。

 自分の不手際に肩を落としたフランに、くぐもった声が先を続ける。


「今日はこのままここにいろ」

「えっ」

「おまえにしかできぬ仕事だ」

「えええっ」


 少しぼんやりとした口調の主人だが、手を離す気はないらしい。驚きの声に眉が寄ったのに慌てて口をふさいだが、フランは心臓が飛び出しそうなくらいに驚いている。

 抱き枕になれってこと? それとも、枕元で待機していればいいのかしら。

 頑張って頭を働かせるが、答えにたどり着く前に布団の中に引きずり込まれる。さっきまでぐったりしていたのが嘘みたいに、力強い腕はがっちりとフランを抱えていた。


「だ、旦那様っ」

「うるさい」


 ううう、すみません。ぴしゃりと言われてしまい、フランは口をつぐむ。

 後ろから抱き込まれているため、背中は服越しに熱が伝わり、頭の上では静かな呼吸が続いている。フランが固まっている間に、それはすっかり寝息に変わってしまった。


 これは、動けないぞ。困った。心臓がうるさいことまで伝わってしまいそうだ。

 フランはなんとか腕から出れないかとやってみたが、どういうわけだかゆるまない。しかたなくもぞもぞ動いて靴を脱ぎ、ベッドの下へと放った。

 すやすやと穏やかな呼吸を感じて、知らぬ間にフランまでも眠りに落ちて行った。




 ふっと気がついたときには、部屋の中が明るくなっていてフランは勢いよく起き上がる。

 閉じたカーテンの隙間からすでに日が昇っているのを見て取ると、慌てて寝台の縁へと抜け出した。

 抜け出す、はずだった。


「まだ起きるには早いだろう」


 ぐっと回された腕がそれを許さなかった。

 がくんとつんのめって、フランはまたあたたかな布団の中へ舞い戻る。


「だ、旦那様っ、さすがにわたし、旦那様のお部屋に朝までいたら問題になります!」


 侍女は侍女の役目があって、今の状況は明らかにその範疇を超えている。ただでさえ、普段の仕事が侍女のそれから外れていて、ほかの侍女たちからも遠巻きにされているのに。

 これ以上なにかあっては、ここにいられなくなってしまう。

 必死に言うフランに、対する主人は横たわったまま。腕の力はちっともゆるんでくれない。

 どうしよう。眉を下げて身じろぐと、低い声が静かに言った。


「フラン、結婚しよう」


 まだ人の動きだす前の、早い早い朝。

 清々しいはずのそこへ、さらりとこぼされた声にフランは目をまん丸にして固まってしまった。

 聞き間違いだろうか。そう思ったフランの頭の中を知っているのか、切れ長の青灰色の瞳が、射抜くようにまっすぐと向けられている。


「私にはおまえなしの生活など考えられない。邸の切り盛りも身についていると聞いているが」

「だ、だだだ、旦那様。おふざけがすぎます」

「……おまえは私が冗談でこんなことを言うと思っているのか」


 憮然とした声に、フランはますます慌ててしまう。

 主人が冗談を言う性格でないことも、誠実で堅物で生真面目なのとも、よくわかっている。わかっているからこそ、信じることが難しい。

 ふうと小さく息を吐いた主人は、かすかに唇の端をあげた。


「一夜をともにしたのだから、夫婦になるのが定石だろう」


 なんて誤解を招きやすい言い方!


「そ、それは、添い寝しただけでございます」

「たとえそうだったとしても。周りはそんなことは知らん。ともに寝起きしたとなれば、好きなように解釈するものだ」

「だ、旦那様ぁ」


 フランの情けない声に、とうとう主人が咽喉の奥で笑った。


「私に捕まったのが運の尽きだな」


 フランは唇をとがらせる。それはそれで聞き捨てならなかった。


「……運の尽きだなんて。わたしには運がよすぎたようにしか思えません」


 相手は、フランの主人である。

 侍女として、ひとりの人間として、ずっとお仕えしたいと思っていた相手である。

 身の程知らずと言われようが、侍女としか見てもらえなかろうが、フランはこの主人のために精一杯生きようと思ったのだ。

 けれども、まさかこんなことになるなんて。

 顔を赤らめたフランに、寝台の中では大きなため息がこぼれた。


「フラン……寝床で無防備なことを言うと、どうなっても知らんぞ」


 低い声は、素っ気ないのに冷たさなんて少しも感じさせなかった。

 青灰色の目が、回された腕が、フランをとらえて離さない。


「大事にする」


 短くも優しい言葉は、フランの胸をいっぱいにした。

 これが夢だとしても。なんて素敵なんだろう。頭の中がふわふわして、しばらくまともに動けそうもない。

 フランを捕まえている腕に、ゆっくりと手を添えた。




***




 王太子殿下の執務室を訪ねてきたギースは、涼しい顔で口をひらいた。


「妻を迎えることにいたしました」

「ふぅん」


 殿下は、ギースの言葉に頬杖をついたまま軽い返事をする。

 ギースが時期宰相で、二十代後半になるのに妻帯しておらず、周りの貴族たちが自分の娘を! と躍起になっていることも、そんな相手を歯牙にもかけないギースのことも、知っていてこの反応である。ほかの誰かだったら、目を見開いて悲鳴をあげたはずだ。

 むしろ、呆れの色まで浮かべてみせるのだから、やはり曲者と言われている殿下である。


「式は三月先に行いますので、先にご報告いたします」


 そんな殿下の態度をまったく意に介さないギースも、やはりなかなかなものだろう。

 この一週間ほどであらかたの手続きもすませたと続けた彼に、ようやく殿下が体を起こした。


「まったく。お前といいコンラッドといい、どうしてそうまどろっこしいのかねえ」


 私にはわからんなあ。

 あくび交じりに言って背もたれにドンと寄りかかると、襟足で編まれた銀の御髪が背もたれの向こうで揺れた。窓からの陽射しで輝き、とても美しい。

 宮廷医師のひとりを挙げたことに、同じく陽に髪を染められたギースは眉をひそめた。


「お言葉ですが。私はどこぞの見掛け倒しとは違い、早々に邸に迎えています」

「それだって、本人は侍女のつもりだと言うじゃないか。きちんと説明するのを、あえて省いたのだろう? しかももう何年も前のことだ。私に言わせれば、どちらもそう変わらないぞ」


 執務室付きの侍女を見初めて、早々に邸へ囲ったのだからすぐに結婚すると言うのが普通だ。

 蓋を開ければ、プロポーズもできておらず侍女として引き抜いたという誤解も解かず、女主人としての教育を施したまま二年の月日が経った。

 殿下でなくとも、遅すぎると言いたいだろう。

 医師のコンラッドもコンラッドだ。色男だなんだと浮名は立って周りが落ち着かないものの、本人は気になる相手と距離を詰めたいのに詰められず、男として意識されているのかもあやしい状態が二年も続いた。

 こちらも遅ればせながら、最近になってようやく踏み出したらしい。遅い。本当に遅かった。

 ふたりして見た目や肩書きが派手な割りに奥手だなんて笑えない。


「まあ、おまえたちの働きは認めているところだが、体を壊されては元も子もない。うまいこといったなら、そろそろ増員してもよいだろう」

「……なぜ、この時期なのですか」


 今までどんなにギースたちが忙しくても、仕事の配分変更はおろか、一時的にでも人手をあてがうなんてしなかったはずだ。

 不審そうなギースに、殿下は大袈裟にため息をついてみせる。


「そんなの決まっているじゃないか。コンラッドの尻に火がついたなら、サシャが丸め込まれるのも時間の問題だ。自分の手に嫉妬する、なんて暢気なことを言っていたヘタレが、ようやく動き出したんだからあっという間だろうな」


 それはギースも同じ見解だった。色恋沙汰に鈍くて、自分のことをよい被験体だと胸を張っているサシャだって、さすがに最近ではそわそわと落ち着きがない。つまりは、コンラッドを意識しているわけだ。コンラッドがそれを逃すとは思えなかった。

 黙ることで肯定したギースに、殿下は指で机をこつこつ叩く。


「そのうち子供ができることを考えれば妥当だろう。サシャが抜けるなら、補わなければならない。……まあ、おまえがひとりで全部できるならこのままでも私はいいがねえ」


 結果として自分に影響がなければ、細かいところは気にしない。そんな姿勢が通常であるのに、一応部下を気づかう気持ちはあるのだろう。

 先を見越しての言葉に、ギースは無表情で答えた。何年か前はギースがひとりでこなしていたのだ。それこそ、邸に帰る日がほとんどなかったけれど。


「殿下が無茶をおっしゃらなければ、ひとりでも可能ですが」

「おやおや、ひどい言われようだ。じゃあ、おまえはもしかわいい息子や娘が生まれても、滅多に帰れない生活でもよいわけだな」

「……そうは言っておりません」


 嫌そうではあるが、この男にしてみればめずらしく己の気持ちを言葉にした。

 すると殿下はふんと鼻を鳴らした。にやりと口の端があがる。


「初めからそう言え。おまえはサシャやフランの素直さを見習うといい」

「……私まで能天気になったら、回るものも回りません」

「この減らず口が。――日取りが決まったら教えろ」


 子が育ち、国の宝になる。

 国に仕える親の背を見て、またひとつふたつと礎が増える可能性は果てしなく大きい。

 殿下が心底楽しげに笑うのにわずかに顔をしかめたギースは、それでも流れる動作で胸に手をあて、深々とお辞儀をして部屋を辞していった。


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