一 全てを忘れた少女は目を覚ます
生ぬるい風が頬をくすぐり、目が覚める。どこか懐かしさを感じる白い天井が目に入る。ゆっくりと体を起こすとそこは覚えのない場所だった。
誘拐されたのだろうか?一抹の不安と焦りを感じ、ここまでの経緯を思い出そうとした。昨日朝起きてから、そして夜になり眠るまで。自身の意思でこのベッドに入った記憶がないか探る。
そうしてしばらくたった。風は変わらず私の頬を撫でている。
私は何も思い出せない。ここに至るまでだけではない。それ以前の記憶や生年月日、ましてや名前までもすべて。最初からないかのように頭の中から消え去っていた。
かろうじて分かることといえば性別だけ。しかしそれも生体的特徴から今判断しただけの情報である。覚えていたものではない。
一抹どころではない。多大な不安や恐怖が私の体を駆け巡る。
「何が起こってるの……?」
部屋にこぼれた独り言に返事が返ってくるはずもない。寂しくこだました声は部屋の中に溶けて消えていく。
ふとカーテンが揺れた。そういえば窓が開いていたのだった。私を起こした風が部屋に入ってくる。続けざまに蝉の声も聞こえてきた。数匹程度の音圧ではない鳴き声は、今の季節をダイレクトに主張してくる。
そうする間に、こわばった体はほぐれ、バクバクと大きな音を立てていた心臓は落ち着きを取り戻していった。依然として怖いことには変わりはない。命の危険と隣り合わせかもしれないし、それらに対処しようとも私の記憶だって欠けている。が、何か行動を起こさないといけないのも事実であった。
ベッドから出て、恐る恐る床に足をつける。さほど冷たくない生ぬるい床。夏である。
「どうりで暑いわけ。クーラーとかつけて寝ればよかったのに」
動いてないのに汗ばむ身体。鬱陶しくて仕方がなかった。冷静になったとたん激しさを増して聞こえる蝉の声も暑さを助長する。こんなに大きな鳴き声なのに起きた当初は全く耳に入らなかったのか。相当焦っていたんだなと他人事のように苦笑する。
扉を開く。続く廊下には甘い匂いが広がっていた。あたりを見回すと先には下へと続く階段が見える。どうやらここは二階であるようだ。振り返り戸を閉めると、そこにはプレートがかけられている。
「『Huka』フカ……? あぁフウカか。フウカ、フウカ…私の名前とか? うーん、覚えてないや」
独り言は私の癖なのだろうか。たまにもれだす自身の声に思わず苦笑いしてしまう。
気を取り直し、ほかの部屋も見てみようとする。少し進んだ先にはもう何部屋かある。勝手に開けるのは忍びないが、そもそもここに説明もなくつれてきた方が悪い。思考を他責へと切り替えて探索してみることにした。
どの部屋に入ろうか悩んだ末に、結局一番階段に近い部屋にした。万が一部屋に人がいた場合、すぐに一階へと逃げられるようにするためだ。自身がいた部屋は廊下の一番奥だったため、ほんのわずかではあるが廊下を歩くことになる。
扉と扉のあいだ。どこぞのホテルの廊下のように小さめのテーブルが置いてあった。そこには小さな鉢があり、白い花が植えられている。名前を思い出すことのできないそれらは、どれも少ししおれていた。しかし鼻をくすぐるいい香りはあせていない。部屋から出てきた際の上品で甘い香りの正体であった。
「私が起きた部屋にもあったらなぁ。そしたらあんな風じゃなくて、このいい匂いで起きれたかもなのに」
目的の扉の前に来た。ドアノブに手をかける。
「失礼しま~す……て、あれ?」
ドアノブは動かなかった。ガチャガチャと音をならしつかえるだけである。よく扉を見てみると鍵穴がある。鍵がかけられているようだった。開かないはずである。他の扉も見てみるがどれも鍵穴があり、どれも案の定開かない。もう一度私が寝ていた部屋に戻ってみてみると、そこにも一応鍵穴はついていたようであった。
「誘拐説が濃厚になってきた? それよりもむしろ監禁?」
実際にできるかはそれとして、自身の置かれた状況が正確にわからない今、扉を壊すという選択肢も取ることができない。それならば仕方がないと諦めて下の階へと向かうことにした。どうやらおりてすぐはリビングになっているようである。
下へと階段を降りると目につくものがある。第一にテレビとソファのあいだのローテーブル。第二にその上に置かれた手紙。
『記憶のない私へ』
微妙に閉じ切られていないカーテンから夏の朝のやわくも眩しい光がさしこみ、それを照らしている。息をするのも忘れ、伸ばした私の手が机上へと影をつくる。そばには小さな鉢にうえられた小さな白い花。甘い香りが広がっている。
その手紙に封はされていない。差出人も宛名もない。ただ記憶のない私へと。確かに今の私には記憶がない。だが、
「この『私』は本当に私……?」
そう思ったのも一瞬。何もわからない中、見つけた手がかり。読まないという手は私の中になかった。かすかにふるえる手で白い封筒を開け、二枚の便箋を取り出す。
『記憶のない私へ
おはよう。もう頭は痛くない? ちゃんとこの手紙は見つけられた? まあ見てるってことは見つけられたってことなんだろうけど。
今私はどんな状況でこれを読んでるのかな。起きて記憶がないってなったら結構パニックそうだよね笑。大丈夫そう?落ち着いて読みなね。
私も正直あんま詳しいことは言えないんだけど、記憶がない理由についてはある程度説明できるよ。色々あって脳の手術を受けたの。色々あってね。だからその一時的ショックとかでたくさん忘れちゃってるだけ。きっとそのうち思い出していくよ。焦らないで。
とはいってもしばらくは何したらいいか分かんないだろうから、私がしたいこと? 後の私にしてほしいこと? 書いておくね。困ったときの参考にして。
今丁度高二の夏休みかな。そうだな、十月の体育祭にはマストで出たい。騎馬戦やってみたかったんだよね。
あと修学旅行あるじゃん! ずっと行ってみたかったんだよね。海外、台湾に行くんだよ。絶対タピオカ飲みたい。千と千尋の舞台になったとこもあるらしい。見たすぎ。
部活にも絶対出て! 試合出るなら一つでも多く勝ちたいでしょ。たくさん練習してよ。うわ、書いてるうちにはやく運動したくなってきた。
三年になってからの話にはなるけど文化祭だってある。クラス変わらないらしいよ。みんなと仲良くなるチャンス!
今までできなかったこととかいっぱいしていこ。ここに書いたこと以外にもやりたいことやったらいいし。記憶なんかいずれ思い出すんだから、気にせず気楽に生きていこう。生きてたらいいことあるよ。
あ、そうだ。家中の鉢見た? この手紙読んだらすぐに水あげて! しばらくあげれてないと思うから花もしおれてそう。サンカヨウっていう花。いいにおいだよね。水やったら分かるけど結構不思議な花なんだよ。だから絶対水やりしといて、お願い!
書くことはこれくらいかな。けっこう長くなっちゃった。今一人? 一人だったとしてもそのうち病院の人とか来るんじゃないかな。そしたらその人にもっと詳しいことは聞いたらいいよ。
今は分からないことだらけだろうけど、とにかく頑張れ! ちゃんと生きるんだよ~』
「なんだそれ」
緊張していた空気が弛緩する。脳の手術、やりたいこと、水やり。重要そうなことは書いてあるのに肝心なことは何もない内容。変に身構えた自分がバカみたいだ。しかし、とりあえず誘拐されたわけではないことは分かる。それに安心し、一息ついた。
先ほどは気が付かなかったが、白い花、サンカヨウというらしいが、それが植えられた鉢の横に水の入っていない霧吹きが置いてある。どうやらこれで水を吹きかければいいらしい。早速手に取り、キッチンで水を入れた。
不思議なこととはなんだろうか、いったい何が起こるのだろうか。どうやら私は好奇心が強い方らしい。少しワクワクする気持ちを抑え、水をかける。一度、二度、三度。霧吹きのため水はごく少量しか出ない。 何度も何度も吹きかけるが、何も起こらない。何かが起こる兆しでさえ見えない。落胆である。記憶のある私にウソをつかれたと悔しい気持ちさえ湧き出てきた。そんな感情にかまってやるものかとほかの鉢にも水をかけにいく。
キッチン、リビング、階段、廊下。逆戻りしていく。鍵のかかった部屋が幾分か気がかりだが、開かないものはどうにもならない。その部屋に花がないことを祈るばかりである。
そして一番初めの部屋。白い花もその他の鉢植えもなかった記憶はあるが、念のためと確認する。この部屋は白を基調とした簡素な部屋だった。ついでにと本棚や机を探る。起きた当初は気後れしたこの部屋も、自分の部屋かもしれないと思うと罪悪感もわかない。たとえ違ったとしても、それは記憶のない人間を一人放置した人が悪いのである。
「私って結構読書するタイプの人間だったんだ。ふーん、あ、ファンタジー系多め?」
何冊か取り出し表紙をめくると、魔法やらなんやらという単語が飛び込んでくる。記憶を無くしたら、面白かった本の結末を知らないまま、一から楽しめるのでは?そう思うと記憶がないのも悪い気がしない。この流れのまま机の引き出しを探ってみる。
「ん?これは……ノートか」
授業ノートが入っていた。にしては教科書などが見当たらない気もするが。手に取った一番上のノートには『数学』という文字と『渡辺風花』という名前。扉にかけてあったプレートにもフウカという文字があった。やはり私の名前なのだろうか。
そういえば記憶がないはずではあるが、一般教養というのだろうか、そういった知識は覚えたままなんだなとふと思う。自分に関係することだけを忘れてしまったのかもしれない。すべてを忘れたかったわけではないが、やけに都合が良い気がして疑問が残る。
我に返る。長いこと、この場にいすぎてしまった。この部屋は暑い。額には薄く汗がにじんでいた。ほどほどにしてリビングへと戻る。霧吹きを片付けて机のそばのソファに腰かけた。
そこで違和感。視界の中に何かが足りないような感覚に襲われる。空白だらけの私の脳の記憶と見比べ、目を凝らす。
その原因はあっけなく見つかった。控えめに、だが確かに存在を主張していた白がなくなっていただけ。もっと正確に言うとその色を失っていただけ。サンカヨウの白く華麗な花弁が透明になっていたのだった。
「え!すご! 透明な花なんてあるんだ」
普通では考えられない植物の変化に心が躍る。他に水をやった鉢も変わっているのか気になったため、見に行こうと腰をあげようとした。




