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ヴァレリウス——いや、前世の夫である「お父さん」の口から語られた数年間の遭難生活は、聞いているだけで胃が痛くなるような、とんでもなく過酷なものだった。
「突然の未知の嵐と落雷で、船の魔力コンパスも星図盤も、航行計器が全部壊れてしまってね。気がついたら、見渡す限りの海。どっちが北かもわからない状態だったんだ」
再会した提督室で、お父さんは苦笑いしながらそう語った。
「食料もあっという間に底を尽きたみたいなんだ。船のろ過装置でなんとか飲み水だけは確保できたけど、食べるものは海から釣り上げる魚だけ。……最初はよかったんだよ。でも、来る日も来る日も塩焼きか煮魚。味付けはろ過する時に取れた粗塩だけ。さすがにそんな生活ばかりしていると、魚の顔を見るだけで吐き気がしてきてみたいでね……。この数週間だけでも辛かったけど」
屈強な探検家であるヴァレリウスの体躯を持ちながら、中身は胃腸の弱い日本の五十代サラリーマンなのだ。醤油や味噌のない魚だけ生活がどれほど過酷だったか、私には痛いほどよくわかった。
だからこそ、私が乗ってきた潜水艦の備蓄食料——西パンゲアの技術で作られた、コンソメ味の乾燥スープや、ふっくらとした長期保存用のパン——を口にした時、宏さんは大の大人が恥面もなく、ボロボロと号泣してしまったのだ。船員たちも皆、泥水をすするような顔でパンを頬張り、涙を流していた。
その後、私たちの帰路は、拍子抜けするほど順調だった。
潜水艦に搭載された最新鋭のナビゲーションシステムと通信機器により、正確な現在位置と本国への方角を即座に割り出すことができたのだ。さらに、潜水艦から余剰の循環魔力エネルギーをアルゴス号に供給することで、傷ついたガレオン船は再び力強い推進力を取り戻した。
私達を乗せた潜水艦が護衛するように並走し、ゆっくりと、だが確実に、懐かしい本国へと向けて航海を続けたのだった。
◈
長い航海ののち、本国に帰り着いてから、あっという間に数週間が経った。
帰還直後は、行方不明だった夫の生還と、総督である私が自ら未知の海域へ向かい発見したというニュースで、国中がひっくり返るようなお祭り騒ぎとなった。連日のように貴族や商人たちが面会に訪れ、そして「念のための」長期医療療養と、休む暇もない日々が続いた。
そして昨日、ようやく全ての療養期間と隔離検査を終え、私たちはついに「日常」を取り戻すことができたのだ。
「……はぁ。やっぱり、自分の部屋の椅子が一番落ち着くわね」
私が転生してきて最初に目覚めた、あの豪華だがどこか冷たかった自室。しかし今、この部屋はあの頃とは全く違う温度を持っている。
「まったくだ。隔離病棟のベッドは柔らかすぎたし、医者達の目は『本当に人間か?』って疑っているみたいで居心地が悪かったよ」
向かいの席に座り、苦笑いしながら肩をすくめたのは、お父さんだ。
伸び放題だった髪と髭は綺麗に整えられ、西パンゲアの貴族らしい洗練された衣装を身に纏っている。見た目はダンィでワイルドなイケオジなのだが、カップを両手で包み込むように持ち、ズズッと音を立ててお茶をすする仕草は、日本のこたつでほうじ茶を飲んでいる時の夫と全く同じだった。
「これ、カモミールに似てるけど、少し独特のクセがあるわよね」
「ああ、懐かしい味だ」
「この世界の『癒やしの草』をブレンドさせてみたのよ。緑茶やほうじ茶が恋しいけれど、贅沢は言っていられないわね」
「そうだな。君が淹れてくれたお茶なら、なんだって一番美味いさ」
照れくさいセリフをサラッと言ってのけるのも、彼が「ヴァレリウス」というフィルターを通しているからかもしれない。私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、ティーカップをソーサーに置いた。
ふと、部屋に静寂が落ちる。
満ち足りた静けさの奥底に、どうしても拭いきれない、澱のような寂しさが微かに漂い始めた。
「……ねえ、お父さん」
私は、テーブルの上に置かれた彼のごつごつとした大きな手に、そっと自分の手を重ねた。
「今頃、あの子たち、どうしているかしらね」
お父さんの手が、ピクリと震えた。夫はカップを置き、私の手を優しく握り返してくれた。
「……翔太は、俺たちが神隠しに遭う前、ちょうど会社で昇進したばかりだったな。責任感が強いから、無理して仕事を抱え込んでなきゃいいが」
「ええ。それに美咲だって、来年結婚式を控えていたのに。ウェディングドレスの試着、一緒に行くって約束していたのにね。……私たちが突然いなくなって、どれだけパニックになって、どれだけ泣いているのか……」
言葉にすると、胸の奥がギュッと締め付けられるように痛んだ。
どんなにこの世界が豊かで、どんなに健康な体を手に入れても、育て上げてきた愛する子供たちにもう二度と会えないという事実は、私たちの心にぽっかりと開いた、決して塞がることのない風穴だった。
「ごめんね、湿っぽいこと言っちゃって。でも……やっぱり、寂しいわ」
私の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
泣くなんてみっともないと分かっているけれど、この人——宏さんの前でだけは、ルキアナという「鉄の女」の仮面を外して、ただの、昔の母親に戻りたかった。
「謝るな。俺だって……同じだよ。孫の顔も見たかった」
お父さんもまた、琥珀色の瞳を潤ませ、鼻をすする。大柄な夫が肩を震わせている姿は不器用で、けれどその不器用さが私を安心させてくれた。
私たちは言葉を交わす代わりに、テーブル越しにしっかりと両手を取り合い、互いの温もりで、どうしようもない喪失感と悲しみを和らげるように、静かに涙を流した。
コンコンコン。
不意に、控えめだが規則正しいノックの音が部屋に響いた。
「母上。カッシウスです。入ってもよろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、今世の私たちの息子、カッシウスの声だった。前世の子供たちへの未練に浸っていた私たちにとって、彼もまた、間違いなく愛すべき「家族」の一員だ。
「え、ええ。入ってちょうだい」
私たちは慌てて手を離し、ハンカチで目元を拭った。お父さんも誤魔化すように咳払いをして、背筋を伸ばす。
扉が開き、金糸の刺繍が施された貿易会社の幹部服をパリッと着こなしたカッシウスは、部屋に入るなり、私たちを見て柔らかく微笑んだ。
「お二人とも、お加減はいかがですか。療養明けのすぐで申し訳ありませんが……」
彼は少しだけ言い淀んだが、すぐに真剣な表情に戻った。
「改めて、二人が無事に帰還されたこと、本当に、本当に安堵しております。父上が行方不明になってからというもの、母上はずっと気を張っておられましたから。こうして二人が揃って並んでいる姿を見られる日が来るとは……」
カッシウスもまた、目元を微かに赤くしていた。彼にとっては、偉大な父と、鉄の女である母。その二人が無事に生きて再会したことは、何物にも代えがたい喜びなのだろう。
「ありがとう、カッシウス。あなたが立派に留守を守ってくれたおかげよ」
「俺からも礼を言う。立派になったな、息子よ」
お父さんが父親らしい威厳を込めて頷くと、カッシウスは恐縮したように頭を下げた。
しかし。
感動的な再会の余韻に浸るのも束の間、カッシウスの表情が、スッと実務的な——というよりは、困惑と戸惑いが入り混じったような、複雑なものへと変わった。
「……あの、お二人の無事の帰還に水を差すようで大変恐縮なのですが」
カッシウスは、手元の分厚い書類バインダーを抱え直しながら、言いにくそうに口を開いた。
「実は、問題が発生しておりまして。現在、軍の港……例の潜水艦が停泊しているドックの周辺が、パニック状態に陥っているのです」
「パニック? 潜水艦の魔力炉に異常でも起きたの?」
私は首を傾げた。あんなに頑丈な船が、帰国後に壊れるとも思えない。
「いえ、潜水艦自体には異常はありません。問題は……その、『謎の飛翔体』です。昨日あたりから、潜水艦のすぐ傍の空中に、白く輝く、未知の小さい石板……いや、まるで宙に浮く鏡のような物質が、ずっとフワフワと滞空しているのです」
カッシウスは、自分でも何を言っているのかわからないという顔で説明を続けた。
「魔法研究所の筆頭魔術師たちが総出で解析に当たっているのですが、全く手出しができません。どんな魔法障壁もすり抜け、物理的な干渉も受け付けないのです。石板の表面には、見たこともない古代文字のようなものが明滅しており……ドックの作業員たちは『深海の呪いだ』『未知の兵器だ』と怯えきっています」
白く輝く、未知の小さい石板。
宙に浮き、表面に古代文字が明滅している。
「あ」
私は、思わず間抜けな声を出してしまった。
思い当たる節が、少しあった。
いや、思い当たるどころの話ではない。それの『送り主』の顔——顔というか、巨大な目玉とウネウネとした触手——を、私ははっきりと知っている。
「……母上? もしかして、何かご存知なのですか?」
私の反応を見逃さなかったカッシウスが、探るような目を向けてきた。宏さんも、「何かやらかしたのか……」という顔で私を見ている。
「ええっと……そうね。まあ、知っているといえば、知っているというか……可能性の話だけれど……」
私は頬をポリポリと掻きながら、どう説明したものかと頭をフル回転させた。
「実はね、潜水艦で水深七万メートルまで潜った時に、ちょっとした……出会いがあって……」
「出会いとは?」
「なんというか、巨大なイカ……えっと、『リヴァイアサン種』って名乗る、海の底にある国の門番さんと、少しお話しする機会があってね」
「はい?」
カッシウスの知的な顔が、完全にフリーズした。お父さんも、横でポカーンと口を開けている。無理もない。
詳しい経緯を説明したあと。
シーーーン、と。
豪華な自室に、冬の木枯らしのような沈黙が降りた。
十秒。二十秒。
長い沈黙の後、カッシウスはゆっくりと抱えていたバインダーをテーブルに置き、両手で顔を覆った。深く、長いため息が漏れる。
カッシウスは、指の隙間から私をジトッと、静かに、しかし凄まじい圧を込めて問い詰めてきた。
「母上は、数年間行方不明だった父上を、決死の覚悟で探しに行ったんですよね?」
「ええ。もちろんよ」
「ではなぜ、父上を助けに行ったついでに、我々がかつて接触したこともない未知の『深海の超古代国家』との『単独交易協定』まで結んで帰ってこられたのですか!? 我が社の管轄外どころか、世界レベルの外交問題ですよ! 一体……どうして……」
優秀な息子の、理解できぬ悲痛な叫び。
私は微笑み答えた。
「旅行先で仲良くなったのよ」
悲しみも、喪失感も、今はもうない。
このトンデモナイ別世界で、愛する夫と、胃薬が手放せなくなりそうな優秀な息子と共に、私はこれからもたくましく生きていくしかない。
西パンゲア貿易会社総督、ルキアナとしての新たな人生。
私の異世界第二の人生は、どうやらまだまだ忙しくなりそうだった。




