第9話 夫から初めて手紙が届きました
公爵家へ嫁いでから、もうすぐ1か月が経とうとしていた。
最初は慣れないことばかりだったけれど、今では屋敷での暮らしにもすっかり馴染んでいる。使用人の皆さんは親切だし、庭園は美しいし、厨房ではときどきお菓子作りまでさせてもらっている。
何より、可愛い義妹のルシアちゃんと出会えたことが嬉しかった。
最近では毎日のように一緒にお茶を飲んだり、庭園を散歩したりしている。昨日なんて、私が騎士のアランさんとお話ししていただけで、少し寂しそうにしていたくらいだ。
最初に出会った頃はあんなに無口だったのに、今では自分から手をつないでくれることもある。
そんな変化が、私にはたまらなく嬉しい。
ただ、ひとつだけ気がかりなことがあった。
それは、夫であるリュシアン・アルヴェルト公爵と、いまだに一度も顔を合わせていないことだ。
結婚式は代理人を立てて行われ、私がこの屋敷へ来てからも、旦那様はお仕事で忙しいと聞いている。
もちろん、公爵という立場なのだから、きっと大変なお仕事があるのだろう。
それに、今回の結婚は政略結婚だ。最初から夫婦らしい関係を期待していたわけではない。
それでも、こうして1か月近く顔を合わせないままでいると、少しだけ不思議な気持ちになってしまう。
(旦那様は、どんな方なのかしら……)
王国最強の魔法剣士であり、戦場では《銀の死神》と恐れられている人物。
そんな噂を聞いたことはあるけれど、実際にどんな性格をしているのかは、まったく知らない。
ただ、ルシアちゃんのお兄様なのだから、きっと何か素敵なところもあるのだろう。
そんなことを考えながら朝食を終えた頃、部屋の扉が静かに叩かれた。
「奥様、セドリックでございます。少々よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
扉が開き、セドリックさんが入ってくる。
いつも通り丁寧に一礼した彼の手には、一通の封筒があった。
深い紺色の封蝋には、公爵家の紋章が刻まれている。
「奥様。本日は、旦那様よりお手紙をお預かりしております」
「……えっ? 旦那様から?」
思わず聞き返してしまった。
セドリックさんは小さく頷き、封筒を差し出してくれる。
「はい。リュシアン・アルヴェルト公爵閣下より、奥様へお渡しするよう申しつかっております」
「まあ……! ありがとうございます!」
私は両手で封筒を受け取った。
まさか、旦那様からお手紙をいただけるなんて。
少し緊張しながら封を開き、中に入っていた便箋を取り出す。
そこには、整った文字で短い文章が綴られていた。
『エミリアへ。
屋敷での生活に不自由はないか。
仕事の都合で顔を合わせられず、すまない。
必要なものがあれば、遠慮なく申しつけてほしい。
体調には気をつけるように。
リュシアン・アルヴェルト』
私は何度か、その文章を読み返した。
決して長い手紙ではない。
むしろ、必要なことだけを簡潔に書いた、不器用な文章だと思う。
けれど、そこには私の暮らしを気遣う言葉が並んでいた。
顔も知らない妻のことを、ちゃんと気にかけてくださっているのだ。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……優しい方なのですね」
思わず呟くと、セドリックさんが少し驚いたような顔をした。
「……奥様?」
「旦那様です。お忙しいのに、私のことを気にかけてくださっているなんて。とても嬉しいです」
私が笑顔で答えると、セドリックさんはしばらく黙り込んだ。
それから、どこか安心したように表情を和らげる。
「……左様でございますか。それをお聞きになれば、旦那様もお喜びになるかと存じます」
「ふふっ、それなら嬉しいです。あの、私からもお返事を書いてよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。お預かりしたお手紙は、責任を持って旦那様へお届けいたします」
私は礼を伝え、もう一度便箋へ視線を落とした。
まだ会ったことのない旦那様。
けれど、この短い手紙のおかげで、少しだけ身近に感じられるようになった気がした。
❀ ❀ ❀
午後になり、私はいつもの庭園へ向かった。
今日はルシアちゃんとお茶をする約束をしている。
昨日、少し寂しそうにしていたから、今日はできるだけ一緒に過ごしてあげたいと思っていたのだ。
東屋へ向かうと、すでにルシアちゃんが待っていてくれた。
銀色の髪には、以前贈った水色のリボンがついている。
その姿を見つけた瞬間、私は嬉しくなって手を振った。
「ルシアちゃん、お待たせ! 今日は少し嬉しいことがあったのよ!」
ルシアちゃんは私を見ると、小さく頷いた。
「……そうか」
「ふふっ、何があったか聞きたい?」
「……ああ」
私は隣の椅子に腰を下ろし、朝から大切に持っていた手紙を取り出した。
「実はね、今日、旦那様から初めてお手紙が届いたの!」
その瞬間、ルシアちゃんの動きがぴたりと止まった。
青い瞳が、私の手元にある封筒へ向けられる。
「……そうか」
「ええ! とっても嬉しかったわ。お忙しいのに、私のことを気にかけてくださっているみたいなの」
私は封筒を胸元に抱き、思わず微笑んだ。
すると、ルシアちゃんが少しだけ身を乗り出した。
「……嬉しかったのか?」
「もちろんよ! だって、旦那様から初めていただいたお手紙だもの。まだお会いしたことはないけれど、私のことを気にかけてくださっているのがわかったんですもの」
そう答えると、ルシアちゃんは少しだけ目を見開いた。
それから、どこか照れくさそうに視線を逸らす。
「……そうか」
「ふふっ、文章は少し短かったけれど、とても優しい内容だったのよ。ルシアちゃんのお兄様は、きっと思いやりのある方なのね」
私がそう伝えると、ルシアちゃんは何とも言えない表情になった。
嬉しそうにも、困っているようにも見える。
私は不思議に思いながら、手紙を丁寧に畳んだ。
「いつか、旦那様にもお会いしてみたいわ」
「……会いたいのか?」
「ええ。せっかく夫婦になったのですもの。一度くらい、ちゃんと顔を合わせてお話ししてみたいわ」
ルシアちゃんは黙り込んだ。
その表情が少し曇ったように見えたので、私は慌てて言葉を続ける。
「あっ、もちろん、ルシアちゃんと過ごす時間も大好きよ? 旦那様とお会いできたからって、あなたと遊ばなくなるわけじゃないんだから」
「……そういう心配はしていない」
「あら、そうなの? ふふっ、それならよかった」
私は安心して微笑んだ。
昨日は少し寂しそうにしていたから、また同じような気持ちになってしまったのかと思ったのだ。
けれど、今日はどうやら違うらしい。
それよりも、せっかくルシアちゃんと一緒にいるのだから、ひとつ相談してみたいことがあった。
「ねえ、ルシアちゃん。実は、旦那様へのお返事を考えているのだけれど……」
「……返事?」
「ええ。でも、まだ一度もお会いしたことがないでしょう? 何を書いたら喜んでくださるのか、よくわからなくて」
私は少し恥ずかしくなりながら、ルシアちゃんの顔を覗き込んだ。
「よかったら、一緒に考えてくれないかしら?」
「……俺に聞くのか?」
「ええ。だって、ルシアちゃんは旦那様の妹でしょう? 私よりずっと、お兄様のことをご存じだと思って」
ルシアちゃんは、なぜかとても困った顔をした。
しばらく黙り込んだあと、小さく息を吐く。
「……お前が思ったことを書けばいい」
「私が思ったこと?」
「……ああ。無理に飾る必要はない」
その言葉を聞いて、私は少し考えた。
確かに、まだ会ったことのない相手だからといって、必要以上にかしこまることはないのかもしれない。
旦那様は私の暮らしを気遣ってくださったのだ。
それなら、私も今の生活がどれほど楽しいか、素直に伝えてみよう。
「そうね! ありがとう、ルシアちゃん。なんだか、少し気が楽になったわ!」
私が笑顔で答えると、ルシアちゃんは小さく頷いた。
けれど、その表情にはまだ少しだけ複雑そうな色が残っていた。
❀ ❀ ❀
私は屋敷から便箋と筆記具を持ってきてもらい、東屋のテーブルで返事を書くことにした。
ルシアちゃんは隣に座り、静かに私の手元を眺めている。
最初に書いたのは、手紙をいただいたことへのお礼だった。
それから、屋敷では何不自由なく暮らしていること、使用人の皆さんが親切にしてくださっていること、庭園が美しく、毎日楽しく過ごしていることを綴っていく。
書き始めてみると、伝えたいことが次々と浮かんできた。
「ふふっ、こうして書いてみると、私、本当に毎日楽しく暮らしているのね」
「……そうか」
「ええ。最初は少し不安もあったけれど、今ではこの屋敷が大好きよ」
私は微笑みながら、次の文章を書き始めた。
もちろん、ルシアちゃんのことも忘れてはいけない。
この屋敷で一番嬉しかった出来事なのだから。
『そして、何より嬉しいのは、ルシアという可愛らしい義妹ができたことです。最初は少し無口な子でしたが、今では一緒にお茶を飲んだり、庭園を散歩したりしています。とても優しく、素敵な妹さんですね』
そこまで書いたところで、隣から小さな声が聞こえた。
「……待て」
「あら、どうしたの?」
「……その部分は、書かなくてもいいんじゃないか」
ルシアちゃんが、なぜか真剣な顔で便箋を見つめている。
私は不思議に思い、首を傾げた。
「えっ? どうして? 旦那様も妹さんが褒められたら嬉しいでしょう?」
「……いや、それは……」
「ふふっ、遠慮しなくてもいいのよ。本当のことなんだから」
私がそう答えると、ルシアちゃんは片手で顔を覆ってしまった。
耳まで赤くなっている。
どうやら、自分のことを褒められるのが恥ずかしいらしい。
なんて可愛らしいのだろう。
「大丈夫よ、ルシアちゃん。旦那様には、あなたがどれほど素敵な子なのか、ちゃんと伝えておくからね」
「……頼むから、ほどほどにしてくれ」
「あら、ふふっ。そんなに照れなくてもいいのに」
私は思わず笑ってしまった。
ルシアちゃんは少し不満そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。
私はそのまま手紙を書き進める。
最後には、いつか旦那様と直接お話しできる日を楽しみにしていることを添えた。
そして、丁寧に署名をする。
『エミリア・アルヴェルト』
結婚してから使うようになった、新しい名前。
まだ少しだけ慣れないけれど、こうして書くと、自分が本当に公爵家の一員になったのだと実感する。
私は便箋を読み返し、満足して頷いた。
「できたわ! ありがとう、ルシアちゃん。あなたのおかげで、素直な気持ちを書けたと思うの」
「……そうか」
「ふふっ、旦那様が喜んでくださるといいのだけれど」
そう伝えると、ルシアちゃんはしばらく私を見つめた。
それから、小さく呟く。
「……きっと、喜ぶ」
その言葉に、私は思わず笑顔になった。
お兄様のことをよく知っているルシアちゃんがそう言ってくれるのなら、きっと大丈夫だろう。
❀ ❀ ❀
手紙を書き終えたあと、私はふと気になっていたことを尋ねてみた。
「ねえ、ルシアちゃん。旦那様って、どんな方なの?」
「……どんな?」
「ええ。お手紙をいただいて、少し興味が湧いてきたの。ルシアちゃんから見て、お兄様はどんな人なのかしら?」
ルシアちゃんは、なぜか少し困ったような顔をした。
しばらく考え込んだあと、ぽつりと答える。
「……無愛想で、あまり面白い男ではない」
「まあ! そんなことを言っては可哀想よ」
私は思わず笑ってしまった。
どうやら、ルシアちゃんはお兄様に対して少し厳しいらしい。
けれど、家族だからこそ遠慮なく言えることもあるのだろう。
「でも、お忙しい方なのでしょう? きっと、お仕事で疲れているだけなのだわ」
「……そうかもしれない」
「それに、今日のお手紙はとても優しかったもの。私は、きっと素敵なところもある方だと思うわ」
そう伝えると、ルシアちゃんは静かに私を見つめた。
そして、少しだけ真剣な声で尋ねる。
「……怖くないのか?」
「えっ?」
「……あの男の噂は、聞いているだろう」
私は少し考えてから、頷いた。
確かに、旦那様には恐ろしい噂がある。
戦場では《銀の死神》と呼ばれ、敵から恐れられているという話だ。
けれど、噂だけで人を判断するのはよくないと思う。
「ええ、聞いたことはあるわ。でも、実際にお会いしてみないと、どんな方なのかはわからないでしょう?」
「……そうだな」
「それに、こんなに優しいルシアちゃんのお兄様ですもの。きっと、優しいところもあると思うの」
私が笑顔でそう伝えると、ルシアちゃんは言葉を失ったように黙り込んだ。
その表情が少しだけ寂しそうに見えたので、私はそっと手を握る。
「ふふっ、もちろん、ルシアちゃんのことも大好きよ。旦那様とお会いできても、これからも一緒に過ごしましょうね」
「……ああ」
ルシアちゃんは小さく頷いた。
けれど、その声にはどこか複雑な響きがあった。
私は少し不思議に思いながらも、深くは考えなかった。
❀ ❀ ❀
夕方になり、私は書き終えた手紙をセドリックさんへ預けた。
封筒には丁寧に宛名を書き、公爵家の紋章が入った封蝋で封をしてもらう。
セドリックさんは手紙を受け取ると、深々と頭を下げた。
「確かにお預かりいたしました。旦那様へお届けいたします」
「ありがとうございます。お忙しいとは思いますが、どうぞよろしくお伝えください」
「……かしこまりました。旦那様も、きっとお喜びになります」
その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。
まだ会ったことのない旦那様だけれど、こうして手紙を交わすことで、少しずつお互いを知っていけたらいい。
そんなふうに思いながら、私は庭園へ戻った。
すると、ルシアちゃんがまだベンチに座っていた。
私に気づくと、小さく手を上げてくれる。
「ルシアちゃん、まだここにいたのね!」
「……ああ」
「ふふっ、旦那様へのお返事、ちゃんとセドリックさんに預けてきたわ。読んでくださるのが楽しみね」
そう伝えると、ルシアちゃんは少しだけ困ったような顔をした。
「……そうだな」
「またお手紙をいただけたら嬉しいわね。今度は、旦那様のお好きなものや、お仕事のことも聞いてみたいわ」
私はそう言いながら、ルシアちゃんの隣に腰を下ろした。
今日もこうして、可愛い義妹と穏やかな時間を過ごせている。
そして、まだ顔も知らない旦那様との距離も、ほんの少しだけ近づいたような気がした。




