第1話 政略結婚した夫には会えません
政略結婚というものは、もう少し緊張するものだと思っていた。
けれど、馬車に揺られながら窓の外を眺めている今の私は、思っていたよりもずっと落ち着いている。もちろん、不安がないわけではない。これから暮らす屋敷も、そこで働く人たちも、そして何より、夫となった方のことさえほとんど知らないのだから。
私の名前はエミリア・ヴェルナー。20歳になったばかりの、ヴェルナー伯爵家の長女だ。
我が家は歴史こそ古いものの、ここ数年は領地の不作が続き、財政がすっかり傾いてしまっていた。父も母も懸命に立て直そうとしていたけれど、簡単にどうにかなる金額ではなかったらしい。
そんな折に舞い込んできたのが、アルヴェルト公爵家との縁談だった。
お相手は、リュシアン・アルヴェルト公爵。22歳という若さで公爵家を継ぎ、王国最強の魔法剣士として名を馳せる方だという。
もっとも、私が知っているのはその程度だ。
社交界にはほとんど姿を見せず、肖像画も出回っていないため、お顔すら拝見したことがない。しかも、結婚式の当日は魔物討伐の任務で不在だったため、代理人を立てて婚姻を結ぶことになった。
つまり私は、夫となった方と一度もお会いしないまま、今日から公爵夫人になるのである。
(せっかく夫婦になったのだから、いつかは一緒にお茶くらい飲める関係になりたいわね)
政略結婚に恋愛を期待するつもりはない。それでも、これから長い時間を共に過ごす相手なのだから、できれば仲良くしたいと思う。
そんなことを考えているうちに、馬車がゆっくりと速度を落とした。
「エミリアお嬢様、アルヴェルト公爵邸に到着いたしました」
「ありがとう。いよいよね」
御者の声に返事をして、私は窓の外へ目を向けた。
そこには、想像していた以上に立派な屋敷が建っていた。
白い石造りの建物は左右に大きく広がり、正面には美しく整えられた庭園がある。伯爵家の屋敷も決して小さくはなかったけれど、こちらは比べものにならないほどの規模だ。
馬車を降りると、玄関前には使用人たちが整列していた。
「ようこそお越しくださいました、エミリア様。私は当家の執事長を務めております、セドリックと申します」
先頭に立っていたのは、銀混じりの黒髪をきっちりと撫でつけた、品のよい男性だった。年齢は40代半ばくらいだろうか。背筋を伸ばした姿には、長年この屋敷を支えてきた人らしい落ち着きがある。
「エミリア・ヴェルナーです。本日からお世話になります。まだ不慣れなことも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。奥様をお迎えできましたこと、使用人一同、心より嬉しく思っております」
丁寧に頭を下げられ、私も微笑みを返す。
ただ、少し気になることがあった。
整列している使用人たちが、どこか緊張しているように見えるのだ。誰もが背筋を伸ばし、必要以上に表情を引き締めている。
公爵家ともなれば、礼儀作法も厳しいのかもしれない。
「あの、セドリックさん。リュシアン様はいらっしゃいますか? できれば、最初にご挨拶をしたいのですが」
「……申し訳ございません。公爵様は現在、公務のためお会いすることができません」
「そうなのですね。お忙しい方だとは伺っていましたけれど、本当に大変なお仕事なのですね」
少し残念ではあるけれど、王国のために働いている方なのだから仕方がない。
「それでは、お戻りになられた際にご挨拶させてください。それまでは、私もこちらでの生活に慣れるよう頑張りますね」
「……かしこまりました」
なぜかセドリックさんは、ほんの少しだけ困ったような表情を浮かべた。
けれど、すぐに元の穏やかな顔に戻り、私を屋敷の中へ案内してくれた。
案内された私室は、広々としていて、とても居心地がよさそうだった。
大きな窓からは庭園が見渡せるし、家具も上品なものばかり。何より、窓辺には小さな丸テーブルと椅子が2脚置かれている。
あそこでお茶を飲んだら、きっと気持ちがいいだろう。
荷物を片づけ終えた私は、窓の外を眺めながら小さく伸びをした。
(せっかくだし、お庭を散歩してみようかしら)
見知らぬ屋敷でじっとしているよりも、少し歩いたほうが気分転換になる。
そう考えた私は、さっそく部屋を出ることにした。
❀ ❀ ❀
公爵邸の庭園は、近くで見るとさらに素晴らしかった。
色とりどりの花が美しく植えられ、石畳の小道が庭の奥まで続いている。噴水の周囲には白いベンチが置かれていて、ゆっくり過ごすにはぴったりの場所だった。
実家でも庭の手入れを手伝うことがあったので、こうした場所を歩くのは大好きだ。
特に、季節ごとに違う花が咲く庭園には憧れがある。
「まあ、こちらには薔薇もあるのね。まだ蕾だけれど、咲いたら綺麗でしょうね」
思わず独り言をこぼしながら歩いていると、噴水の向こう側に人影が見えた。
白いベンチに、誰かが1人で腰掛けている。
銀色の短い髪が、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
小柄で華奢な身体つき。黒を基調とした上品な服を着ているけれど、装飾はほとんどなく、どこか中性的な印象を受ける。
そして、こちらに気づいて顔を上げた瞬間、私は思わず足を止めてしまった。
(まあ……! なんて可愛らしい子なのかしら!)
透き通るような青い瞳に、白く滑らかな肌。すっと通った鼻筋と、形のよい小さな唇。
まるで精巧な人形のような美しさだった。
年齢は15歳か16歳くらいだろうか。私よりもずいぶん小柄で、座っている姿だけでも華奢なのがわかる。
こんなに可愛らしい女の子が、このお屋敷にいたなんて。
「あの、こんにちは。少しお話ししてもよろしいかしら?」
声をかけると、その子はわずかに眉をひそめた。
「……誰だ、お前は」
思っていたよりも低く、落ち着いた声だった。
けれど、少女のような顔立ちに凛とした声がよく似合っている。少し警戒されているようだけれど、知らない人間に突然話しかけられたのだから当然だろう。
「突然ごめんなさい。私はエミリア・ヴェルナーと申します。今日からこちらのお屋敷で暮らすことになったの」
「……エミリア?」
「ええ。リュシアン・アルヴェルト様と結婚したのよ。だから、今日からこちらの家族の一員になるの」
そう説明すると、その子は青い瞳をわずかに見開いた。
私の顔をじっと見つめたまま、何かを考えているようだった。
その反応を見て、ふと思いつく。
このお屋敷にいるということは、もしかして……。
「まあ! もしかして、あなたはリュシアン様の妹さんかしら?」
「……は?」
「そうよね! こんなに可愛らしい子がいらっしゃるなんて、聞いていなかったわ。ということは、私たちは今日から義理の姉妹になるのね!」
「…………」
その子は、なぜか完全に固まってしまった。
あら、いけない。
初対面なのに、少し馴れ馴れしかったかしら。
私には弟も妹もいないので、つい嬉しくなってしまったのだ。
「ごめんなさい。急にお姉さんみたいなことを言われても、困ってしまうわよね。もちろん、すぐに仲良くしてほしいなんて言わないわ」
「……いや、そういう問題では……」
「あっ、そうだわ。まだお名前も聞いていなかったわね。なんてお呼びすればいいかしら?」
その子は何かを言いかけ、口を閉じた。
そして、少しの間だけ視線を泳がせたあと、小さく答える。
「……ルシア」
「ルシアちゃんね! ふふっ、とっても可愛らしいお名前!」
「……ちゃん?」
「ええ。あっ、嫌だったかしら? もし嫌なら、別の呼び方にするけれど」
「……いや。好きにしろ」
「ありがとう、ルシアちゃん!」
思わず笑顔になると、ルシアちゃんは困惑したように私を見つめた。
どうやら、あまり人付き合いが得意な子ではないらしい。
けれど、無理に話を合わせようとせず、嫌なことは嫌だと言ってくれそうなところに、少し安心した。
これから家族になるのだから、お互いに気を遣いすぎない関係になれたら嬉しい。
「ねえ、ルシアちゃん。もしよかったら、お庭を案内してもらえないかしら? 私、今日来たばかりで、まだどこに何があるのかわからなくて」
「……庭を?」
「ええ。でも、何か用事があるなら無理にとは言わないわ。私もお散歩したかっただけだから」
ルシアちゃんはしばらく私を見つめていたけれど、やがて静かに立ち上がった。
「……別に、構わない」
「本当? ありがとう!」
並んで歩き始めると、改めて彼女の小柄さがよくわかった。
私の身長は170cmあるので、女性としては少し高いほうだ。ルシアちゃんは私より15cmほど低く、隣に並ぶと、まるで本当の姉妹のように思えてくる。
こんな可愛い妹がいたら、きっと毎日が楽しいだろう。
❀ ❀ ❀
「私ね、実家ではよくお菓子を作っていたの。特に焼き菓子が得意で、家族にも喜んでもらっていたのよ」
「……貴族の令嬢が、自分で菓子を作るのか?」
「ええ。最初は料理人に教えてもらっていたのだけれど、作っているうちに楽しくなってしまって。自分で作ったものを誰かが美味しいと言ってくれると、とっても嬉しいの」
庭園を歩きながら、私は実家での暮らしについて話した。
ルシアちゃんは自分から話題を振ることこそ少ないけれど、私の話をきちんと聞いてくれている。
時折、不思議そうな顔をして質問してくれるのも嬉しかった。
「ルシアちゃんは、甘いものは好き?」
「……嫌いではない」
「それならよかった! 今度、何か作ってあげたいわ。クッキーやパウンドケーキなんかはどうかしら?」
「……どちらも、食べたことはある」
「ふふっ、そうよね。じゃあ、今度は私の作ったものも食べてみて。気に入ってもらえるように頑張るわ」
そう言うと、ルシアちゃんはほんの少しだけ目を伏せた。
表情はあまり変わらないけれど、なんとなく嬉しそうに見える。
無口な子だからこそ、小さな反応を見つけると、こちらまで嬉しくなってしまう。
しばらく歩いていると、庭の手入れをしていた男性がこちらに気づいた。
男性はルシアちゃんの姿を見た途端、慌てたように姿勢を正す。
「あっ、こ、これは……!」
けれど、男性が何か言うより早く、ルシアちゃんがそちらへ視線を向けた。
すると、男性は口を閉じ、深々と頭を下げる。
私は慌てて会釈を返した。
「こんにちは。お庭、とっても綺麗ですね。いつもお手入れしてくださっているのですか?」
「は、はい! ありがとうございます、奥様!」
男性は少し緊張した様子で返事をすると、そそくさと作業に戻っていった。
公爵家の使用人さんたちは、みんな真面目なのね。
少し緊張しすぎているようにも思えるけれど、私が早く屋敷に慣れれば、きっと向こうも自然に接してくれるだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか最初の噴水まで戻ってきていた。
「ありがとう、ルシアちゃん。おかげで、とっても楽しかったわ」
「……そうか」
「ええ! あのね、よかったら明日も一緒に過ごさない?」
ルシアちゃんが、こちらへ顔を向ける。
「……明日も?」
「ええ。明日は一緒にお茶を飲みましょうよ。私、お菓子を作ってみたいの。ルシアちゃんの好きなものを用意したいのだけれど、何か希望はある?」
少し考えるような沈黙があった。
それから、ルシアちゃんは小さな声で答える。
「……甘いものなら、何でもいい」
「まあ! それなら腕によりをかけなくちゃね。ふふっ、楽しみにしていて!」
私がそう言うと、ルシアちゃんの口元がほんの少しだけ緩んだ。
それは、見逃してしまいそうなほど小さな変化だった。
けれど、確かに笑ってくれたのだ。
(ああ、やっぱり可愛い……!)
こんなに愛らしい笑顔を見せてくれるなんて、嬉しくなってしまう。
明日のお茶会では、もっとたくさん笑ってもらえたらいいな。
「それじゃあ、また明日ね。ルシアちゃん!」
「……ああ。また明日」
最後に小さく手を振ると、ルシアちゃんは少し迷ったあと、控えめに手を上げてくれた。
その仕草まで可愛らしくて、私はすっかり頬が緩んでしまった。
❀ ❀ ❀
屋敷へ戻る途中、廊下でセドリックさんと出会った。
「おや、奥様。お庭を散策されていたのですか?」
「ええ! とっても素敵なお庭でした。それに、嬉しいことがあったんですよ」
「嬉しいこと、でございますか?」
「はい! 実は、可愛らしい女の子と仲良くなれたんです。ルシアちゃんという子なのですが、ご存じですか?」
「……ルシア、ちゃん?」
セドリックさんの表情が、ぴたりと止まった。
あら、どうしたのかしら。
「ええ。銀色の髪に、綺麗な青い瞳をした子です。リュシアン様の妹さんですよね? 私、兄弟姉妹がいなかったので、可愛い義妹ができて本当に嬉しくて!」
「…………」
「明日は一緒にお茶をする約束もしたんです。あの子、少し人見知りみたいですけれど、とってもいい子ですね!」
セドリックさんは、なぜか額に手を当てた。
それから、何かを言おうとして口を開き、再び閉じる。
少し心配になってしまう。
「あの、セドリックさん? どうかなさいましたか?」
「……いえ。何でもございません。奥様が楽しくお過ごしになれたのでしたら、何よりでございます」
「ふふっ、ありがとうございます。明日はお菓子を作りたいので、厨房をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。料理長にも、そのように伝えておきましょう」
「ありがとうございます!」
なんて親切な方なのだろう。
私は改めてお礼を伝えると、明日のお茶会で何を作ろうか考えながら、自分の部屋へ向かった。
廊下の角を曲がる直前、背後からセドリックさんの小さな呟きが聞こえてきた。
「……まさか、あの方を『ちゃん』付けで呼ぶ方が現れるとは……」
あの方?
もしかして、ルシアちゃんのことかしら。
確かに、あんなに可愛い子なら、使用人さんたちからも大切にされているのだろう。
けれど、少し人見知りなところがあるから、みんな遠慮しているのかもしれない。
(だったら、私がもっと仲良くなってあげなくちゃ!)
せっかくできた、初めての義妹なのだから。
夫であるリュシアン様には、まだ一度もお会いできていない。
それでも、このお屋敷での暮らしは、思っていたよりずっと楽しいものになりそうだ。
こうして私は、顔も知らない夫の代わりに、とびきり可愛い義妹と出会ったのだった。




