06.夜のランニング前、家にて
「機嫌いいじゃん」
「え?」
冷蔵庫の牛乳をコップに注いでいたら、姉ちゃんに声をかけられた。
「何かあったの?」
「何もないよ」
姉ちゃんはニヤニヤと口元をゆるませる。ふつうに聞いてくれなら答えたのに言いづらくなった。
今日は楽しかったけど、姉ちゃんが期待する展開は起きていない。
「部活の先輩となんかあったでしょ」
「し、しつこいな」
とはいいつつ、異性の先輩とふたりで遊んで特別な気分を味わっている自覚はあった。それを見透かされたことが気に食わない。
「ねえ、どうだったのさ? ねえ?」
「本当に何もないって。いつもどおり、先輩と一緒にゲームで遊んでいただけ。あと、エクスアーツをやってみたよ」
「あ、どうだった?」
「結構白熱してさ、面白かったよ。だから機嫌いいように見えたかもね。姉ちゃん、おすすめしてくれてありがとう」
姉ちゃんがじっとこちらの目をのぞく。
「ふーん……。まあ、いいか。今度はもっと面白い話して」
「はいはい」
変な方向に話題をもっていかれそうだった。恋バナを求められても、ぼくにはどうにもできない。ひとまず、姉ちゃんにお礼をいえたことだし、良しとしよう。
ぼくは部屋に戻ってスマートフォンでエクスアーツについて調べ、何本か動画を再生していく。
動画のほとんどはエクスアーツを実際にプレイしている一般人が撮影した映像だ。今日のぼくと先輩みたいに屋外でプレイしていたり、室内でオンライン対戦していたり、あとはeスポーツ大会の映像もあった。会場を貸し切り、中央で2人のプレイヤーが戦っている。
カメラはプレイヤーを映していたが、もうひとつ別に会場のモニターにゲーム画面が映っていた。ゲーム画面は2人のキャラクターが表示されていた。プレイヤー同士は直接攻撃を当てていないが、ゲーム画面ではキャラクターに攻撃がヒットして、ライフが削れている。展開が進むと会場が湧く。
「すごい……」
動画を眺めているだけで血が湧いてくる。スマートフォンには既にエクスアーツはダウンロードしてあり、いつでもプレイできる。
「痛っ」
額に傷をなぞる。痛みが起こった。
気持ちが高ぶると、ぼくの額の傷がうずく。
痛みと共に過去の記憶が蘇り、急速に体温が下がり冷静になる。なんでもできそうな全能感を失う。
ぼくの悪い癖だ。感情が高ぶったり、夢心地のいい妄想を思い浮かべると、過去の記憶を思い出して冷静になろうとする。自分が正しいという間違いを修正しようとする。ときに楽しい記憶さえ戒めようとする。
「ダメだダメだ」
せっかく気分のいい日なのに。頭を動かすとこうなる。こういうときは、
「散歩してくる」
家族に一言伝えて、ぼくはジャージを着て、玄関でシューズを履く。ランニング用のアプリを起動させ、外に出た。
住宅地を抜けて河川敷方面を目指す。夜の河川敷は人の通りが少なく、自動車も通らない。不審者でも出ない限り、走りやすい。
アプリを使うと、夜間でも視界不良にならないよう、自動補正で明度が上がり、道だったり通行人がはっきり見えるようになる。それだけでなく、ランニングコースに沿って白い線が表示され、ナビゲーションしてくれた。
ぼくは走り出す。身体を動かしているときだけ頭を空っぽにできる。
じっとしていると、過去が追いかけられる。