月のない夜、名もなき夕べ
前話の続きです。
オルウェイの庁舎前で職員に見つかり、「仕事着で来ているということは仕事する気満々ですね!」と、また仕事に引き込まれたゴドランが領主邸に戻れたのは、相当遅い時間だった。
家宰のイリューシオは、帰ってきたゴドランを、なんとも不信感のこもった呆れた目で見た。
「随分ごゆっくりでしたね」
「……そういう理由で遅くなったわけではないぞ」
「奥様がお話があるそうです。執務室までご案内します」
明かりの灯る執務室では、エリオスとその奥方が何やら楽しそうに語らっていた。
「失礼する。ゴドラン、罷り越した。取り込み中なら明日にさせていただくが」
「あら、お疲れ様。気にしないで、どうぞこちらに座ってちょうだい」
いつも通りエリオスから遠征中のお話を聞かせてもらっていただけだから、と奥方は何やらびっしり書き込まれた紙とペンを脇に片付けた。
できれば退出して部屋に帰って寝たいのだが、と思いつつも、席を用意されてしまったのでやむを得ずゴドランはエリオスの隣に座った。
「それで?」
アトーラ南方全域を治めるアストリアス領主である奥方は、両肘を机について両手の指を組んだ状態で、ニッコリと笑みを浮かべた。
「真意を教えていただいても、よろしいかしら?」
思わず身を引きかけたゴドランを、隣のエリオスが肘で制した。ここで逃げるのは悪手らしい。
「真意と言われても、不調法者ゆえ意図を測りかねるが?」
「貴方が不調法だったら、世の大半の殿方は野蛮人ね。文明的な社交は嫌いではないけれど、今日は韜晦や建前を聞く気はないから直截に語っていただきたいの」
燭台の焔がゆらりと揺れた。
黒髪の女領主は笑みを消し、その黒い瞳で正面からゴドランを見据えた。
「ゴドラン。貴方にとってサハル・セレスタは、すでに縁の切れた他人?」
「いや、違う」
ゴドランは、女領主からの問いを真っ向から受け止めて、きっぱりと即答した。
「シャージャバルでは公的な契約に用いる名付けを行った者は、霊的な結びつきを持った後見役として、血族ではなくても精神的な代父として重要な責任を生涯持つ」
「思ったより重い話が出てきたわね」
彼女は困惑したように眉を寄せ、座り直した。
「アトーラでは違うのか?」
「命名は父親か、その上役……頼める範囲でなんだか権威のありそうな人に付けてもらうか、自分で考えた名前を承認してもらう感じだけれど、生涯責任を負うというところまで重いものではないわね」
戦場で功績を上げたときなど、名誉な祝い事で上官から名を賜ったりすることもあるから、アトーラでは公的な名前というのは生涯で何度も変わることがある。
自分の父親も若いころはガイウスという名で、戦勝記念でユステリアヌスの名を得たのだと彼女は説明した。
「後見という意味では同じで、後見人が出世と共に格上に引き継がれることがある感じかしら。エリオスも、ユステリアヌスの名をうちのお父様から貰っているわよね」
「ああ。あなたと結婚した時にその名を名乗ってよいと言われた」
「権威の押し付けよね。書面上わかりにくくなるから同名はよして欲しかったのだけれど」
誰の命令と責任で遠征が行われているかが一番わかりやすくなるからと言われてしまうと、それはそうだから仕方がないと納得したと語る奥方に、とうのエリオスは「そんなのは初耳だ」と目を丸くしていた。
「ユステリアヌスって、ユリアス皇帝が自分の名を元に付けた名だから、権威あるのよ。ユリアス様は皇帝に即位する前から一大派閥のトップだったから。この名前のおかげで公的資金から遠征費用を引き出すのがずいぶん楽だったわ」
「う……ううむ」
「あ、ユリウス様には折々に時候の挨拶とちょっとした品を都度送っているから大丈夫よ」
あなたが失踪した時にも、醜聞でご迷惑をおかけしないように、ちゃんと対応してあるからと言われて、西海の果てで神秘の島の王となっていたエリオスは身を縮め「すまない」と小声で謝った。
「そういうわけで、シャージャバルの風習のニュアンスは正確にはわからないけれど、後見人としての意識が強めにあるのはなんとなくわかったわ。だとしたら……」
脇道にそれていた話を本筋に戻して、アストリアスの女領主はゴドランに尋ねた。
「あのレオリオル大薬方院の総院主。オルウェイに取り込むのに一役買っていただけるわね?」
燭台の火に飛び込んだ虫の焦げる音が微かに聞こえた。
§§§
すっかり灯りも落ちている迎賓館の門前で、夜警の兵士に身元の確認を受けながら、ゴドランは内心でため息をついた。
「入場目的は?」
「要人警護だ。今夜から専属で付く」
女領主の直筆の命令書を提示する。
あの後、やたらに筆の早い彼女はゴドランの目の前で、執務机の上にあった手のひらほどの大きさの紙にサラサラと用件を書きつけて指輪で印を押した。
ゴドランは門をくぐり、迎賓館の立派な建屋の外周をぐるりと回って奥の宿泊施設に向かいながら、執務室で言われたことを思い返した。
「公式には護衛にしておくわね。歓待役が常時一緒にいるのは不自然だから」
彼女は有無を言わせぬ調子でゴドランに命令書を差し出した。
常時一緒にいるとはどういうことだ、と問いただすと、文字通り、大薬方院の総院主がこちらに滞在中、ずっとその脇にいろという意味だと言われた。
「大薬方院というのは、今のオルウェイにとってものすごく重要なところなのよ。その総院主があんなに若い女性で、しかもあれほどの美人だなんて。とんだ誤算だわ」
あんな特大の火種、リスクでしかない、と女領主は大げさに嘆くそぶりをしてみせた。
「これまで書簡のやりとりしかしていなかったから、普通に男性だと思っていたのよ」
文書の書き方が理知的で飲み込みも早いので、できる相手だとは思っていたが、まさかそれが自分と同性で10歳近く年下の子供だとは思いもしなかったと、自身も十分にまだ若い女領主はこめかみを揉んだ。
「完全に貴方の命名方法に騙されたわ」
サハルというのはアトーラ的ではない名前で、アトーラ人の感覚ではあまり女性には思えないのだという。シャージャバルでは普通にある女性名なので、謀る気で付けたわけではないとゴドランは抗弁した。
「だとしても、年齢や境遇を伏せたでしょう」
「通常の申請で必要なことは全部報告したはずだ。コイツの承認も得た」
突然、責任の一端を振られて、傍観者を決め込んでいたエリオスが動揺する。
気が緩んでいるにもほどがある、とゴドランは軽い苛立ちを覚えた。
だがこの件に関しては、エリオスは共犯者というよりは騙された被害者だった。当時のエリオスはまだ公文書仕事が苦手で、特にゴタゴタが多かったオリオル戦後の報告資料は書記官に丸投げも同然だった。それをいいことにゴドランは、簡潔な口頭報告で「わかった」と言わせて、用意した文書一式をオルウェイへの提出書簡の袋に突っ込んだのだ。
「問題があったとは思えんな」
「アトーラでは女が公文書に名を記して主権利者になることは極めて稀で、独身の若い女性となるとほぼあり得ないことなのよ。注釈も付記もなしでそんな案件が来るとは誰も思わないわ」
「それは知らなかった」
ゴドランは、いけしゃあしゃあと涼しい顔で言ってのけた。
「エリオスもアトーラの公文書の慣習などにはそこまで詳しくなかったのだから、やむを得ない事態だったのではないか」
「あぁ、うん。そのとおりだ」
すかさず結託した男達を、奥方は胡散臭そうに眺めた。
「まあ、この際、経緯は問わないわ。長年、気づかなかった私が一番マヌケだったのだし」
「女であることや若いことがそれほど問題になるのか」
ゴドランは、自分よりも十は若いはずなのに、アストリアス全域どころか、世界の経済の手綱を握っている若い女に、いぶかし気な視線を送った。
「若い女が要職に就くのは、オルウェイでは普通だろう」
「オルウェイは例外中の例外よ」
自分が任命できる内々の職務でしか女性管理職の登用はやっていないし、自身も公式の政治の場に出るようになったのは、皇帝の権威で強引にアストリアス領主の地位に任命されてからだと彼女は語った。
「それまで曲がりなりにもオルウェイを切り盛りできたのは、太守が英雄エリオス・ユステリアヌスでその妻という座にいたからなのよ」
行事や外交の公式の席では、押し出しのいい壮年のダンダリウス行政官に立ってもらっていたという。
署名も、国の公式文書には"ユステリアヌスの娘"、オルウェイの公式文書には"ユステリアヌスの妻"の名で署名するか、もっと簡潔に"太守代理"で済ませてきた、と彼女は肩をすくめた。
「今はアストリアスの女領主か、オルウェイの女主人で地名そのままだからどちらにせよ面白みには欠けるわね」
お父様は命名のセンスがないと彼女は嘆いた。
「まあ、公文書用の名前なんてどうでもいいんだけれど、結局のところアトーラでの政治的な女の地位ってのはそういう感じでね。そういうところですら自主性ってものを認められないのが普通なの」
あなた達、世界の果てまで遠征してきて、オルウェイより北西で若い女性の自由意志が尊重されるところはあった?
そう聞かれて、男達は口をつぐんだ。
「南の王国はまだ昔、女王がいた歴史がある分、マシなのかもしれないけれど、残りは絶望的ね」
そういうところで、土地と資産付きの若い女がいると噂が広がったら、周囲の男どもは自分のための貢ぎ物だとしか思わないから大変なことになるのだと、彼女は目の前の男達にせつせつと説いた。
「私は、容姿や性格が悪いだのなんだのと悪評を適当に撒いて虫よけにしたけれど、煩わしかったわ」
特にエリオスが失踪してからは、世界一の都市付き未亡人だ。
周囲がどういう扱いをしたかは想像に難くなかった。
「よく……待っていてくれた」
「待ってはいなかったわ」
「え……」
ぎょっとしたエリオスに、奥方は女領主のそれではない笑みを向けた。
「あなたが帰ってこなくても、私はずっとあなたの妻だもの」
エリオスは言葉を詰まらせた。
ゴドランは、自分がいるのに二人の世界に入られてはたまらないので、一つ咳払いをした。
「あ~、でも貴女はそのつもりでも、周りはうるさかっただろう?」
「そうね……そういえば今も南の国王……ほらあの時の第三王子がね。帝国から寝返ったら第二夫人にしてやるって言ってきているんだけど」
「あ゛あ゛ん?!」
気色ばんで二人揃って立ち上がった男達を、アストリアスの女領主は笑顔でなだめた。
「そういうわけでね。レオリオルなんて言うところに、あんな美人を置いておくのはよろしくないの」
すぐにでも南の王国に攻め込みに行きそうなエリオスをなんとか椅子に座らせながら、彼女はゴドランの方をちらりと見て「だから頼むわね」と言った。
「彼女の滞在予定は次の満月まで。それまでに彼女の意思をレオリオルではなくこちらに向かせて。手段は貴方に選ばせてあげる」
個人の自由意志と選択権というものの捉え方が、つくづく支配階級だ。
こういう相手と手駒不利で板戦遊戯をするものではない。
かつては己も支配者側であったゴドランは、大人しく命令書を手に執務室を退出するしかなかった。
§§§
月のない夜の迎賓館の外庭を、足音を立てずに歩いていく。長期滞在者用の宿泊棟の二階にはいくつか人の気配がある部屋があり、わずかながら灯りの洩れている窓もあった。
ゴドランは闇の隙間を縫うように、庭園の植栽の影に滑り込み、そこにいる見張り役の背後を取った。
「交代だ。専属の護衛を拝命した。そっちは人数を減らしてよい」
暗がりで読めるわけがない命令書を気休めで目の前にかざしてやると、見張り役の男は紙の端を指先で擦って「承知した」と応えた。紙質か何かでわかるのだろうか? 大したものだと感心しながら、ゴドランは誰か一人、対象の部屋まで案内してくれと低い声で脇の茂みに声をかけた。
苦り切った様子で藪から出てきた男は、最初にゴドランが確保したリーダー格の指示で、ゴドランを宿泊棟の中に案内してくれた。
「どうしてわかった。黒龍の目は闇でも見えるのか」
「どこぞの鷹と一緒にするな」
「では気配か?」
「そんなもので伏兵の居場所を正確に当てられるのは、それこそ奴だけだ」
鷹はできるのかよ、と言いたそうな顔をした男に、ゴドランは「定石だ」と教えた。
「オルウェイの裏方は優秀だ。優秀だから定石どおりに最適策を取っている。だから読みやすい」
「覚えておく」
「ああ、勘違いするなよ。定石は最適策だから定石なのだ。変に外そうとすると隙を作るだけだからな」
「どうすればいいんだ」
「一流を相手にするときはよく考えるんだ」
ゴドランは自分の頭をトントンと指先で叩いて見せてにやりと笑った。
「この突き当りの部屋だ」
「わかった。さがってよい」
うっすらと灯りが漏れる女性用の賓客室に足を向けながら、ゴドランは「超一流を相手にするときはもう考えるのがばかばかしくなるんだよな」と独り言ちた。
なお、ゴドランここまで徹夜明けからお休みなし。
次回。お疲れゴドランとサハルのお話!
「白い結婚……」の感想欄時代からの宿題シーンをやっと書けました。
……で、これだけ名前の話をして、結局、奥様の名前ちゃんと出せず(笑)
(今回出たのは名前というより役職名?)
行き当たりばったりで書いているからこういうことになる~。
エ「精神的な結びつきを作る名付けというのは良いな……」
奥「では、あなたが私に付けてよ」
エ「え?」
奥「私より出世してね」
エ「ええっ?!」
……奥様、それアトーラ皇帝になるしかないんや。




