22
「レン君!」
ユリエさんの声が聞こえた。
けれどぼやけた意識の中で、その響きは微かに揺れていた。
眩しい光が視界を覆う。
周囲から、いくつもの騒めきが聞こえてくる。
「しっかりして!私の声、聞こえる!?」
「……うっ……」
返事をしようとしたが、声にならなかった。
「聞こえてるのね?大丈夫。私が治すから……!」
ユリエさんはそう言いながら、治療の準備を始めていた。
僕はさらに目を開けようとした。
けれど、瞼が重い。
身体も、まるで自分のものではないようだった。
何かが身体に触れている。
服を脱がされているのかよくわからない。
ハサミの音がする。
布が裂ける感触。
やがて、胸元の服が大きく切り開かれていく。
「ひどい……こんな……!」
ユリエさんの声が震えた。
身体のあちこちに大型ジェミニやジェミニに噛まれた深い傷が刻まれていた。
いくつもの傷から血が流れ続けている。
「左肩、右脇腹、腕……!」
傷を確認するたびに、ユリエさんの表情が険しくなっていく。
「左肩の骨も砕けている……!それだけじゃない……肺まで損傷しているかもしれない……!」
彼女の言葉には、焦りが滲んでいた。
「ユリエちゃん、彼の状態は!?」
ヴァレンダが心配そうに尋ねた。
「傷が深すぎる……!出血量も多い……普通の治療じゃ間に合わない……!」
「っ……!」
彼女はヴァレンダに顔を向けた。
「携帯用生命維持装置は!?」
「使った。でも効かなかった……!」
「そんな……!」
彼女の顔から血の気が引いていく。
唇を嚙み、必死に考えを巡らせているようだった。
「どうすれば……このままじゃ……!」
「私達に手伝えることはある!?」
クローバーとジョンが、焦った様子で尋ねた。
「……とにかく、みんなで止血を!二人はそっちの傷口を強く押さえて!ヴァレンダさんはこっちをお願い!」
「分かった!」
三人はすぐに僕の傷口を押さえた。
ユリエさんも別の傷口を強く押さえる。
けれど、圧迫しても血は滲み続け、一向に止まる気配がない。
「どうして……!これだけ押さえているのに……!」
「ユリエ、こっちも止まらない!」
クローバーの声が響く。
もはや、通常の治療でどうにかできる状態ではなかった。
これだけの出血が続けば、いくら応急処置を施しても、このままでは助からない。
それでも僕がまだ生きていること自体が奇跡だった。
胸の奥で心臓が弱々しく脈打っている。
その鼓動は今にも途絶えてしまいそうだった。
ぼやけていく意識の中で、僕は微かに顔を動かした。
ユリエさんの声を頼りに、重い瞼を僅かに持ち上げる。
ぼんやりとした視界の中に、ユリエさんの姿が浮かんだ。
けれど、彼女の顔はまだはっきりとは見えない。
それでも、泣きそうな表情をしていることだけは、なぜか伝わってきた。
僕は残っていた力を振り絞り、震える右手を僅かに持ち上げた。
「ユリ……エ……さん……」
血で真っ赤に染まった手。
それを見つけたユリエさんがすぐに両手で包み込んだ。
「レン君!」
ユリエさんの目から涙が零れ落ちる。
「ごめ……ん……約束……」
「そんなことはいいから……お願い、死なないで!」
かすれた声が、耳元で震えた。
何かを伝えたかった。
けれど、僕はもう何も答えられない。
握られた手の温もりだけが遠ざかる意識の中に残っていた。
視界が再び暗くなっていく。
その時、遠くから慌ただしい足音が近づいてきた。
直後に医療室の扉が開く。
「ヴァレンダ!レンは!?」
キョウヘイの声だった。
そして彼はカユを連れて中へ入ってきた。
「っ……!」
治療台に横たわる僕を見て、キョウヘイの表情が険しくなる。
カユも僕の姿を見つめたまま、立ち尽くしていた。
小さな手をギュッと握りしめ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「お兄ちゃん……!」
カユの瞳に、みるみる涙が浮かんだ。
「……かなり危険な状態よ」
ヴァレンダが低い声で答えた。
「手を尽くしているけど、予断を許さない状況なんだ……」
ジョンが沈痛な面持ちで続けた。
「……助かるのか?」
ジョンはすぐには答えられなかった。
「くそっ……!」
その時だった。
『カチャッ──』
何かが床に落ちる音がした。
衣服を切り開いた際に留め具が外れ、レンの腰に着けていたポーチが床に落ちた。
その中から、黒い何かが転がり出る。
黒く輝く結晶。
大型ジェミニから取り出したブレイズだった。
ヴァレンダの視線が、その結晶に吸い寄せられた。
「……これは」
彼女は床に落ちた黒い結晶を拾い上げた。
禍々しく光を放つそれはまるで生き物の心臓のように微かに脈打っている。
「大型ジェミニの……ブレイズ!?」
キョウヘイが息を呑んだ。
「まさか……この少年が大型ジェミニを倒したのか!?」
ヴァレンダは答えなかった。
ただ、血まみれの僕に目を留めていた。
「……なるほどね」
彼女の表情がわずかに変わった。
僕がマツダに見捨てられた理由。
これほどの傷を負いながら、まだ生きていること。
そして、大型ジェミニを倒したこと。
すべてが頭の中で繋がっていく。
「……この少年、ブレイズ適合率が高いのかもしれない」
ヴァレンダの言葉にユリエさんは僕の手を握りしめたまま顔を上げた。
「……適合率?」
初めて耳にする言葉だった。
その声はまだ涙に震えていた。
「ブレイズの力をどれだけ身体に受け入れられるかってこと。適合率が高ければ、ブレイズの能力を強く引き出せる」
ヴァレンダはさらに続けた。
「でも、その分だけ危険も大きい。ブレイズに侵食されてジェミニ化する可能性が高くなる」
その言葉に、医療室の空気が重くなった。
「ジェミニ化……」
ユリエさんが小さく呟く。
そしてヴァレンダは僕に目を向ける。
「彼を救う方法は一つだけある……」
ヴァレンダは、血に濡れた掌を開いた。
「こいつを取り込ませる」
彼女は手の中の黒い結晶に目を落とす。
「大型ジェミニのブレイズが持つ、自己再生能力を利用するしかない」
ヴァレンダは一瞬、言葉を切る。
「だけど……侵食が進めば自我を失う。最悪の場合、完全にジェミニになる」
大型ジェミニのブレイズを人間に取り込ませるなど、これまで一度も前例がない。
「どうなるか、正直あたしにもわからない……」
ユリエさんは唇を噛みしめていた。
「つまり、助かる可能性がある代わりに──」
「ジェミニになる危険もある」
ヴァレンダは静かに答えた。
部屋の空気が凍りついた。
「それは……!」
クローバーの声が強張る。
「ヴァレンダ、それ本気……!?」
ジョンも驚きを隠せなかった。
「わかってる。危険だけど……このままじゃ彼は確実に死ぬ」
ヴァレンダの言葉に誰も反論できなかった。
その中で、クローバーの顔から血の気が引いていく。
「……ヴァレンダ」
「……何?」
「また……あの時みたいになるかもしれないんだよ……?」
クローバーの声が震えていた。
ヴァレンダの手が止まり、静かに目を閉じた。
クローバーの言葉が、彼女の胸に突き刺さる。
一瞬だけ、彼女の脳裏にあの日の光景が蘇る。
暴走する兄。
何度呼びかけても、届かない声。
すべてが終わる直前。
『……ヴァレンダ……』
そして、自分の手で振り下ろした刀。
「……分かってる……」
その声は、僅かに震えていた。
けれど、彼女は一歩も引かなかった。
「助かる保証はない。むしろ、地獄を見るかもしれない。それでも、生きたいなら──」
ヴァレンダは僕を見つめた。
「やるしかない」
「でも、侵食が起きたら……!」
クローバーは戸惑いを隠せなかった。
「この人はどうなるかわからない……!しかも……大型ジェミニのブレイズなんて……!」
クローバーはそれ以上言葉を続けられなかった。
「……」
ヴァレンダは何も言わなかった。
その傍らで、ユリエさんは血に染まった手で僕の頬にそっと触れた。
頬に血が移る。
彼女は苦しそうに顔を歪め、手に僅かに力を込めた。
数秒。
あるいはもっと長く感じる沈黙のあと、ユリエさんはゆっくり顔を上げた。
その横顔には、恐怖が色濃く表れていた。
それでも、まっすぐにヴァレンダを見つめた。
「……助けられる可能性があるなら──」
彼女は一度、僕に目を向ける。
「やってください」
その目には、まだ迷いが残っていた。
でも、それ以上に──。
このまま僕を見捨てたくない。
そんな思いが、強く滲んでいた。
医療室の隅で、カユは不安げに僕の様子を伺っていた。
何が起ころうとしているのか、彼女にはわからない。
ただ、僕が苦しんでいることだけはわかっていた。
何か言いたくても、言葉が出てこない。
カユは唇をキュッと結び、じっとその場に立っていた。
クローバーとジョンは互いに顔を見合わせた。
不安は消えていない。
それでも、二人は黙って見守っていた。
「……決まりだな」
キョウヘイが複雑な表情で告げる。
「……分かった」
ヴァレンダは短く答えるとブレイズを手にしたまま僕が横たわる治療台へと歩み寄る。
次回に続く。
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