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第5話(最終話)

「――あ、すいません。本日、一般のお客様の受付はここまでとなっております」


カウンターの奥から顔を出した若いスタッフの言葉に、達也はピシリと凍りついた。

見上げれば、暖簾の横に『本日の定食は完売いたしました』という無情な札が掛けられている。ちょうど達也の目の前で、今日の営業は終了してしまったのだ。


「そんな……っ、頼む、一口だけでいいんだ! 残り物でもいい、お金ならいくらでも払うから……!」


すがるように引き戸に手をかけ、狂気的な声をあげる達也。その薄汚れたスーツと血走った目に、若いスタッフが怯えて身を引く。


「……何事ですか?」


厨房から、凛とした声とともに志穂が歩み出てきた。

その瞬間、店内に残っていた常連客や、入り口付近にいた人々が一斉に達也に冷たい視線を向ける。


「あ、店主さん、この人が無理に中に入ろうと……」

「志穂……! 志穂、お願いだ! 一口だけでいい、お前の料理を食べさせてくれ……! もう限界なんだ、お前の飯がないと、俺はもう生きていけないんだ……っ!」


周囲の目も構わず、達也は入り口の床に膝をつき、地べたに頭をこすりつけた。

大手商社のエリートだった面影は微塵もない。かつて志穂を「家事しかできない退屈な女」と見下していた男が、今やその女の料理を求めて、衆目の前で惨めに這いつくばっている。


周囲の客からは「うわぁ……」「あの噂の元夫?」と、蔑みと哀れみの混じったひそひそ話が漏れる。


志穂は、足元で震える元夫を、静かに見下ろした。

その瞳には、かつてのような激しい拒絶すらもうなかった。ただ、見知らぬ哀れな迷い人を見るような、絶対的な『無関心』だけがそこにあった。


「……達也さん。お立ちください。他のお客様の御迷惑です」


「志穂……っ!」


「今日はお客様が多すぎて、本当に食材が何も残っていないのです。……それに」


志穂は一歩、達也に近づき、彼にしか聞こえないほどの低い、しかし明確な声で告げた。


「私の料理は、私を大切にしてくれる人と、私が大切にしたい人のためにしか作りません。……あなたのための料理は、この世界に、もう一皿も残っていないんです」


「あ……」


達也の思考が、真っ白に染まった。


怒鳴られた方が、まだマシだった。

彼女の中で、自分はもう憎む対象にすらなっていない。完全に過去の、どうでもいい『他人』に成り下がってしまったのだと、その静かな言葉が冷酷に突きつけていた。


志穂はすっと達也から視線を外すと、店内に残る客たちへ向かって、いつもの眩しい、ひだまりのような笑顔を浮かべた。


「皆様、本日はありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


「ごちそうさま、店主さん! 今日も最高に美味しかったよ!」

「新メニューの冷や汁、夏にぴったりで感動しちゃった。また来週来ますね!」


客たちが口々に感謝を伝え、笑顔で店を後にしていく。

その輪の中に、達也の居場所は、どこを探してもなかった。かつて三年間、毎日無償で独り占めしていたはずのその温もりは、もう永遠に手の届かない、遥か彼方の世界の出来事だった。


達也は、自分が完全に「終わった」のだと理解した。

よろよろと立ち上がり、濁った涙を流しながら、誰に声をかけられるでもなく、熱を帯びた初夏の路地裏へと消えていく。もう二度と、この店の暖簾をくぐることはないだろう。



客を全員見送り、片付けを終えた『ごはん処 しほ』の店内。


「志穂さん、お疲れ様でした。今日も大盛況でしたね」


奥の事務スペースから、藤城が笑顔で資料を持って現れた。

志穂は深く息を吐き出し、それから、いたずらっぽく微笑んだ。


「はい! おかげさまで、今日も完売です」


「あの……さっきの彼、もう大丈夫そうですか?」


藤城の気遣わしげな言葉に、志穂は優しく首を振った。


「ええ。もう、私の心には何も残っていませんから。それより藤城さん、明日の仕込み、ちょっと新しい出汁の引き方を試してみたいんです。付き合っていただけますか?」


「もちろん。志穂さんの料理のためなら、いくらでも」


二人の明るい笑い声が、綺麗に片付いた厨房に響き渡る。


かつて誰かのために狭い世界で擦り減っていた日々は、もう遠い過去。

志穂は、自分の手で掴み取ったこの城で、大好きな料理とともに、新しい人生の道を真っ直ぐに歩み続けていく。


暖簾の隙間から差し込む初夏の青空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。――(完)

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