第一章 サクラとキツネ 4
八分咲きの桜が、街を少しだけ明るくしていた。
けれど咲良の胸の中には、まだ冬の冷たさが残っている。
季節は巡っても、心までは春にならない。
今週末は桜祭りだ。駅前の広場は毎年、屋台と笑い声であふれる。
この季節だけは、どんな花も桜の前では脇役だ。
狐面の人を見かけるのは、決まって平日の昼前か夕方。
土日の人混みの中では、一度も見たことがない。
きっと、もっと人が集まる場所でパフォーマンスをしているのだろう。
桜祭りには来るだろうか。たくさんの人の前でマイムをする彼の姿を想像すると、胸の奥が少しだけざわついた。
祭りを前に、商店会の会合で忙しそうな美弥を見送り、咲良は一人で閉店作業を終えた。店のシャッターをおろすと、ホッと肩の力がぬける心地だ。
駅前広場を抜けて帰路につく。自宅までは店から歩いて五分ほどだ。
まだ酔客もおらず、人も行き交う時間帯。なのに、賑やかな街の音が急に遠く感じた。ふと足を止める。
——彼が、いた。
広場のベンチに腰を下ろして、桜を見上げている。仮面をつけていない彼の横顔は、少し寂しそうに見えた。
彼の隣のデイバックからは、夕方買っていったリューココリーネの花が顔をのぞかせている。
前を通り過ぎようとして、咲良は少しだけ迷った。
(素通りで、いいかな)
迷っているうちにぱちりと視線が合った。
思わず会釈をすると、静かな声が届く。
「よかったら、少し一緒に桜を見ませんか?」
不意の誘いに胸が鳴る。
名前も知らない相手だ。
けれど、少しだけ、一緒に過ごしてみたかった。
咲良が頷くと、「よかった」とホッとしたように目を和ませて立ち上がる。自販機の方へ歩きかけて、小走りですぐに戻ってきた。
「きみの好みを訊くの、忘れてました。何を飲みますか?」
照れたように笑うその姿が、誠実で、どこか子どもっぽくも見えた。
咲良はスマホを開いて《自分で買うから大丈夫です》と表示する。
結局ふたりで並んで自販機まで歩いた。
選んだのは、ミルクティー。
普段の咲良ならジャスミン茶を買うところだけれど、ちょっとだけ疲れた今日は甘い物が飲みたい気分だった。
デイバッグを挟んでベンチに腰を下ろす。
ミルクティーが喉を通る音がいつもより大きい気がして、咲良はなんとなく緊張してしまう。
「……俺、ナギ、って言います」
《私の名前は伊藤咲良です。咲良←さくら》
スマホの画面を見せると「いとう、さくらさん」と口の中で呟いた凪は「良く咲くでさくらさん……花の名前、素敵ですね」と微笑んだ。
咲良は瞬きをする。
そんな風に誉められたのは初めてで、頬が熱くなった。
《ありがとうございます》
画面を見せると「どういたしまして」と穏やかな声が律儀に返った。
ナギは、ただ黙って桜を見上げている。
咲良も同じように、街灯に照らされ、白く見える桜を見つめた。
夜風に、桜の枝先が小さく揺れる。
桜は綺麗だけれど、意識はついついナギへと向いてしまう。
「今日」
ふいにナギが口を開いた。
「今日の夕方、高校生の子が花を買ってたでしょう?」
彼の言葉に、咲良はすぐに誰のことか思い至って頷いた。
今日の夕方のこと。
制服姿の男の子が、花を買いに来た。
高校が別々になってしまった彼女の誕生日プレゼントに、薔薇の花束を贈りたいのだと言う。
ただ、彼の提示した予算は薔薇一輪ならまだしも、花束にするにはあまりに少ない予算だった。
一緒に観に行った映画に、そういうシーンがあったのだという。
咲良は、彼女の好きな色を尋ねながら、彼の予算に見合った、最大限見栄えのする花束を組んだ。
最後に、渡す時に使えそうな花言葉もいくつか添えて渡すと、男の子は一刻も早く彼女に渡したいと目を輝かせながら「ありがとうございます!」と声を弾ませた。
その背後で、いつから居たのか、店の入口にはこちらを眩しそうに見るナギが佇んでいた。
「誕生日プレゼントって言ってましたね」
《はい。彼女も喜んでくれてるといいんですけど》
スマホの画面を見たナギが、穏やかに目を細める。
膝の間で手を組んだ彼は、少しだけ考えてから口を開いた。
「伊藤さんが文字を書く時の息づかいも、文字そのものも、それがきみの言葉だと思ってました。でも……花もそうなんですね。花もきみの言葉だ。それで人を笑顔にできるって、すごいことだと思いました」
人を笑顔にできるってすごい。
それはいつも、咲良がナギに感じていることだ。
『声』がないのに、彼の周りに人が集まる。笑顔が生まれる。
咲良はいつも店の中から、羨んで見つめていた。
咲良の心の奥に、静かに波が広がる。
その波紋は、咲良の深くに沈んだ何かを確かに揺らした。
花も、私の言葉。
そうだろうか。
《あれは花がそうしてくれてるだけです》と打つと、ナギは首を振った。
「でも、その花を選んだのはきみでしょう? あの子が彼女に花束を渡す時、きみの気持ちも一緒に届く。それって、もう立派な言葉じゃないですか」
当たり前のことを言うような顔で微笑むナギを、咲良はじっと見つめ返す。
声を失ってからずっと、「伝わらない」と諦めていた。
その心の奥で、なにかが砕ける音がした。
同時に、思ってしまうのだ。
(声のある人に言われてもな)
自嘲を隠すように目を逸らそうとした、その時。
小さなくしゃみがこぼれた。
ナギが驚いたように目を瞠る。
そんなに驚かせてしまっただろうか。
不安になって見つめると、ただ、柔らかく微笑んだ。
「寒いですか?」
桜の季節とはいえ、夜になると少しだけ空気がひんやりとする。
ほんの五分ほどの距離、と上着もなしに来た上に、冷たい飲み物を飲んで少しだけ寒い。
でも、はいと頷けばこの時間が終わってしまいそうで、咲良は首を振った。
《寒くないです》
「そう?」
ナギはデイバックを開くと、ライトブルーのジップアップパーカーを引っ張り出す。
「寒くなくても、膝掛け代わりに」
そう言って、さっと咲良の膝にパーカーを広げた。
着古したように見えるパーカーからは、石けんの香りがする。そう体格は変わらないように見えるのに、広げたパーカーは大きくて咲良は少しどぎまぎしてしまう。
ぺこりと頭をさげる視界の端に、狐面が映った。
《狐が好きなんですか?》
咲良の視線の先に面があるのに気付いたナギは、狐面を手に取って弄ぶように膝で動かす。
僅かな沈黙のあと、ナギはふっと苦笑した。
「言葉で人を化かしてきた俺には、ちょうどいい気がして」
化かしてきた。
今、私は化かされている? そんなはずない。
彼はきっと、そういう人じゃない。
化かすという言葉が、小さな棘のように心を引っ掻く。
意味を測りかねたまま、咲良はひとつ瞬いた。
——無言のマイムをする彼が『言葉で化かす』ってどういうことなんだろう。
踏み込んでは、いけない気がする。
でも、気になる。
咲良は自身の中に生まれた好奇心から目を逸らすように、曖昧に頷いて樹上を見上げた。
彼の肩に、桜の花びらがとまった。
のばしかけた指先を、慌てて握りこむ。
立ち上がったナギの肩に止まった春は、帰る時もそのまま彼についていった。
明日も、彼は広場に来るだろうか。
来るといいな。
明日が楽しみ。
その言葉が胸に浮かんだ時、桜の枝がかすかに揺れた。
春のはじまり、咲良の世界がほんの少し広がった気がした。




