第二章 魔法の言葉 1
あの夜、桜の下で聞いた小さなくしゃみの音。
声を持たないはずの唇から生まれた音が、胸の奥で何度も反響している。
雨粒が窓を強く叩く。
最後に残った桜も、これですっかり散ってしまうだろう。
先週までの浮き足だった駅前の雰囲気は、花片が敷き詰められたピンクの絨毯と共に平常に戻りつつあった。
朝、通勤や通学の人が通り過ぎ、日中は園児たちの散歩や地元の人たちが行き交う。夕方には家路を急ぐ人たちが足早に歩いて行く。
バーチャルではない、確かな生活の手触り。
惣菜屋から漂う出汁の匂い、はしゃぐ子どもの声、葉ずれの音も吹き抜ける風も、すべてが世界を構成する欠片だと思いだせる場所。
あの駅の静かな空気が、生活の匂いを確かに感じさせる。その雰囲気が凪はとても気に入っていた。
この雨ではマイムをしには行けないと思いながら、ノートパソコンに視線を戻す。
画面に並ぶのは『心因性失声症』の検索結果だ。
『声を出そうとすると息が詰まる』
『咳やくしゃみなどの生理的、もしくは反射的発声は見られる』
スクロールする指先が止まる。
やはり、あれは偶然じゃなかった。
(彼女の沈黙は、声をなくすほどの痛みを知る証かもしれない)
肩で切り揃えられた髪に、透けるような白い肌。
華奢な手足のわりに、重そうな花桶をすいすいと店頭に並べていく彼女を認知したのは、広場でパフォーマンスをするようになってほどなくのことだった。
《どんな花をお探しですか?》と書かれた作り置きのパウチカードを手にした、理知的な瞳がこちらの小さな驚きを見逃さずに伏せられた時、彼女の痛みが透け見えた気がした。
凪の咲良に対する印象をひと言でいえば、『言葉』を丁寧に紡ぐ人だ。
それは声を使わないからこそ、反射的ではないからこそかもしれないし、元々の彼女の性分かもしれない。
指先でマグカップをなぞる。
ぬるい縁の感触に、言葉の温度を探している自分に気付く。
ふと、スマホの画面に映る自分の顔が、あの頃の驕りに満ちた表情に見えて、無意識に眉を寄せた。
言葉は人を繋ぎ、助けて、幸せにするもの。
そう信じていたけれど、その言葉が刃となって振り下ろされるのを幾度も見た。
それでも――咲良を見ていると、言葉のもつ力を、可能性をもう一度信じたくなる。
冷めたコーヒーを口に含む。
検索画面を閉じても、彼女の名前が消えない。
今日も営業しているはずの花屋が、そこに居るはずの咲良が、少しだけ気に掛かった。
雨音は一層強くなる。
その音の向こうに、彼女の声がある気がした。
凪は密やかに息をこぼすと、拝み倒されて引き受けたコードを書き始めた。




