10−3
呼名係がその名を伝えた時、イレイェンは心の臓が大きくはねた。どくどくと打ったものが体の隅々にまで広がって、感情が伝播していくようだった。
入り口には誰もが注目していて、一瞬も影を捉えることができなかった。主催の次期当主の入場なのだから、当たり前だ。
少し前の自分であれば、その時点で消沈していたかもしれない。
——今のわたしは……
早打つ鼓動と共に、前を見据えていた。予感めいたものを感じていたからだろう。人垣が割れて、銀と白藍の姿が目に入った時、すでに覚悟ができていた。
「——イレイェン・ヤンヌ嬢、私と初春の踊りを共にできますでしょうか?」
「——喜んで、クラエス・イングヴァルさま」
イレイェンは、たおやかに一揖して見せて、差し出された手を取った。
クラエスに誘われる。
イレイェンは大広間の中心に立った。
始まる音の旋律に合わせて、衣装の裾を翻し、導かれるままに足を運ぶ。招待客の誰もが自分たちを見ていたけれど、視線も表情も仕草も気にならなかった。ただ、このあとに起こるであろうことを思い浮かべながら、踊りに集中を移した。
短い時間が終わりを告げ、舞踏会の始まりをマルヌーシュ公が宣言すると、花々の衣装が中央に集まる。その流れに逆らうようにして、イレイェンが歩みをはじめると、心得たようにクラエスがあとを追ってきた。
人波から外れた先は露台だった。
春の月が、夜空を照らしていた。空気は冷たい。だが、そのなかには春のぬくもりが残っている。芯から凍える冷たさは、花が息吹くと共に、北の海へと帰っていた。
「——凍傷には……、ならなかったか?」
口火を切ったのは、クラエスだった。
イレイェンは振り向いて、その氷の色の双眸を見る。
「……おかげさまで、なんともなかったわ」
冬に遭難しかけた件のことだ。連れて帰られてすぐに湯に入れてもらえたからだろう。凍傷にはならなかった。
「——……助けてくれて、ありがとう」
翌日、クラエスはすぐにサイラーシュを発ってしまった。だから、きちんとした礼を言いそびれてしまっていた。
イレイェンがクラエスと会ったら、まず言いたかったことだった。
クラエスは肯いてから、だがすぐに首を振った。
「イレイェンが栞を持っていてくれたから、すぐに見つけることができたんだ」
「栞?」
「あの栞には、運気に恵まれるようちょっとした魔法をかけておいたから。それが媒介になったのだろう」
イレイェンは胸元をぎゅっと掴む。今も、そこにある栞を。
「……知らなかった」
「伝えていなかったからな」
この栞があったから、山道から落ちて無事だったのかもしれない。そう思うと、あのできごとは偶然ではなかったのだろう。
「そうしたら、二重の意味でありがとう、ね」
「ああ。無事で、なにもなくて、ほんとうに良かった」
静かな空気がふたりのあいだを通っていった。背後に流れる舞踏会の調べが、静けさを際立たせた。
「——イレイェン、」
透明な声が、夜の風に余韻を残した。
「ずっと、君に伝えたいことがあった」
こくりと、イレイェンは肯く。
「わたしも」
どちらが先かを読み合う必要はなかった。
自然と、その流れが決まっていたかのように、彼のほうが言葉をつづけた。
「すまなかった」
ぴたりと風が止んだ。
「君を、傷付けてしまって、すまなかった」
「なぜ、謝るの……?」
不思議だった。
「……君の過去や気持ちを蔑ろにしてしまったから」
「それは……知らなかったのだから、仕方のないことだわ」
「知ろうとしていなかったんだ、俺は」
語るクラエスを、イレイェンは止めなかった。
「自分の見える視野のみで判断し、それを正しいと思い込んで、振るっていた。それを君にもやって……、傷付けてしまった」
「…………」
「許して欲しいとは思っていない。ただ、この半年……ずっと、謝りたかった」
すまなかった、とクラエスは今一度唱えて、それから銀色の頭を下げた。
結った銀の髪が流れ落ちるさまを目にすることは、あまりないことかもしれない。
イレイェンはゆっくりと赤金の頭を横に振る。
「——謝るのは、わたしのほうよ」
一瞬の間ののち、そう言った。怪訝な顔でクラエスが顔を上げる。
「わたしは……ずっと、逃げていたの。現実から」
イレイェンは思い返すように目を瞑る。
「始まりは十年前。母が死んだことから逃げた」
「…………」
「わたしが殺したのだと囁かれていたから、自分の罪を分け合ってくれる双子の妹を生み出した。今度は、双子の伝承を言い訳にして、自分がいないはずの妹を作り出している事実から、目を背けた。そして……、それが偽りであると指摘してくれたあなたから、逃げたのよ」
「俺が君の気持ちを思いやらなかった結果だろう」
「いいえ。……わたしが弱かったの」
か細く苦笑が浮かんだ。
そう。弱かった。
少し前の自分は、あまりにも弱く、そして、脆かった。
「その弱さからも逃げたの。自分を罰しているようで、自分から逃げていた。見たくなかった。顔向けできなかったのは、自分を守るために嘘をついたことを見破られてしまって、こんなわたしをこれ以上見られたくなかった。——だから、逃げたのよ」
「追い詰めたんだから、逃げて当然だ。それに、お母上のことは、逃げたくなるくらい君にとってつらいできごとだった」
「……そうなのかもしれないわ」
エリエラからも、サイラーシュ侯からも、言われたことだった。それ以前に、父やスエラたちはずっと、イレイェンのつらい気持ちにずっと同情をして、大切に扱ってくれていた。
その想いは、イレイェンを救ってくれていた。
「でも、」
想起した優しさに心がゆるむと、唇に滲むものがあった。隠すように語気を強めた。
「もう逃げるのはやめようと思うの。ちゃんと向き合いたい」
「イレイェン……」
「逃げてしまって……、現実を見せようとしてくれていたのに、あなたを避けてしまって、ごめんなさい」
イレイェンが頭を下げる番だった。伏せた顔に滲みそうになるものを堪えて、唇を噛んだ。
自分の弱さを認めることは難しい。難しかった。
何度、救われただろう。ずぶりと瀝青の沼のなかに沈みこみそうになる自分を。数多くの人の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消え、けれど、強く向き合ってくれたのは、目の前にいる彼だ。
冬のあの夜、立ち上がったわたしを助けてくれたのも、クラエスだった。
「——いいんだ」
透き通った声は、ただそう言った。
「いいんだ、イレイェン。責めていない。だから、自分を許してやってくれ」
自分で自分を許せることが一番だろう。けれど、ためらいを覚えることがある。本当にわたしは、自分を許していいのだろうかと。
自分を許していいのだと言ってもらえたら、それは後押しになる。
「——……っ」
嗚咽が、結んだ唇から漏れ出た。結んで絡んでいたものが、ほどけていくようだった。
どうしようもなくなって、イレイェンはそのまま伏した。
大きな声を上げて、泣いたのはいつぶりだろう。目元の溢れる涙に翻弄されたのは、いつぶりだろう。
滂沱の雫は止まることを知らなかった。ずっと底に沈み、淀みと化し、濁って溜まっていたものを流し切るかのように、水は溢れ続けた。
彼はただ黙って、静かにそこにいた。
涸れた涙のあとを指で拭き取ると、イレイェンはクラエスに視線を合わせた。
「……ありがとう、ございます」
少し、照れてしまった。クラエスは笑ってかぶりを振った。
「大したことはない。俺がやったことに比べれば」
「……わたしは、初めからあなたを恨んでいないわ」
クラエスがまだ囚われていることに気が付いて、イレイェンは言った。
「あなたがわたしを責めていないように、わたしもクラエスのことを責めていないのよ」
一度だって、責めたことはない。
「むしろ、ずっと感謝をしていた。——ありがとう」
見開かれた白藍の双眸は、月の光に照らされて水晶のようであった。輝いていて、とても綺麗だった。かつて、自分の奥底で育っていた氷柱の光のようでもあった。
懐かしさがこみ上げてきて、けれど、そっと蓋をした。
それはもう忘れなければいけないものだった。
「……話は、終わりよ」
イレイェンは微笑む。
「今まで、ありがとう」
色々なことが思い出された。
出会った時のこと。宿場街でのこと。帝都でのこと。想いを交わした時のこと。そして、己の秘密が暴かれた時のこと。
昨年の春の頃からの思い出が走馬灯のように巡って、淋しさが訪れる。
イレイェンは、その気持ちを払拭するようにほっそりと笑った。
——さようなら。お元気で。
頭のなかで何度も練習した言葉を口にしようとする。思い出と、自らの心の動きを覆って。
「——もうひとつ話がある」
力強い声が遮った。心の動きが、ぴたりと止まった。
真摯な透明な声は、いつかの王宮でのできごとを彷彿とさせた。
戸惑いに足が縫われたようにもつれそうなる。ゆらりと上体が傾きそうになったところで手を支えられる。
イレイェンが息を詰めたすぐ上に、綺麗と思った瞳があった。
白藍の瞳と真正面でぶつかった。
「——君と、もう一度やり直したい」
言い知れない気持ちに、涸れたはずの涙が浮かんだ。
「わたしは……」
いけない。
こんなことがあっては。
イレイェンは、ゆるゆると首を振る。
「……もし、君が、俺のことを嫌いになったのなら、諦める」
掴まれた手が一瞬ゆるんだ。だが、すぐに強い力が伝わってくる。
「そうでないのであれば、もう一度、やり直したい。……イレイェン、君と」
なにを言えばいいのかわからなかった。止まったはずの雫がまた浮かんできて、首を振り続ける。
「……そんなこといけない」
「いけない……?」
「だって、あまりにも——」
都合が良すぎる。
あれだけのことをした。クラエスにひどい態度を取った。いくら許されようとも、これではあまりにも自分にとって、都合が良すぎてしまう。
「クラエスが嫌いになるなんて、そんなことないわ」
今でもどうしようもないくらい好きだった。
「むしろ、わたしは——」
声が震えた。
言いたい。こんなこと口に出してはいけない。想いに応えたい。潔く別れればいいのに。
感情が巡って、巡って、回って、そして押し込めようとしたところで、
『いいのよ。自分の気持ちに素直になって』
視界の隅に、赤金の光を見た。
イレイェンは、はっとする。見つめる。
光の粉が舞っていた。月光に輝いて夕陽色に見えるのは―—。
自分と瓜二つの、分け目だけちがう、彼女。
——妹が、微笑んだ。
大丈夫だと。姉さまの味方よ、と背中を押してくれている。ゆるやかに赤金の髪を波立たせて、夕陽色の瞳を輝かせて。どんなことがあっても、味方だと言った妹が。
——そっか。そうだったのか。
妹が、わたしのことを初めから押してくれたのは——。
「——わたしは、」
イレイェンは息を吸い込んだ。反らしていた白藍の瞳を見定めた。
「……今も、あなたのことが好きです、クラエス」
見開かれた氷の瞳に、イレイェンは微笑んだ。
「あなたがそう言ってくれるのであれば、……わたしも、やり直したい」
いいでしょうか、と確認すれば、力強い腕に抱きしめられていた。
「……いいに決まっている」
余韻を残しながら、クラエスはそう言った。
「……良かった」
瞼を閉じれば、冷たい。夜の風が、心地よい。
耳朶に、クラエスの息遣いを感じられた。
長い長い、ぬくもりのある時間。冷えて、凍えていた心が、春の光にとかされていく。サユールの川の流れとなって、
「……冷えてきた。会場に戻ろう」
抱擁を解くと、クラエスが手を引いて、イレイェンを導く。
そっと、イレイェンは後ろを顧みた。
そこには、未だ光が舞っていた。妹が、一言、つぶやく。
イレイェンは、肯く。それから、つぶやきと共に微笑みを返した。
ソーニャもまた微笑んで、そうして、光の粉と共に夜の空に溶けていった。
「——イレイェン?」
不審がったクラエスが、イレイェンを呼び止める。
「——なんでもないわ」
イレイェンは応えて、クラエスと共に煌々とした光のなかに戻っていった。
『さようなら、姉さま』
『ありがとう、ソーニャ』
―完ー




