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応接間に入ると、馴れたはずの薪と香の匂いが強く香った。
「ちょうど良い頃合いでした」
天鵞絨の椅子からゆったりと立ち上がったサイラーシュ侯が、イレイェンを出迎えた。
炉の近くで、琺瑯の薬鑵を沸かしていたらしい。しゅんしゅんと注ぎ口から湯気を出している。侯が厚布を慣れた様子で手に取るのを見て、イレイェンは咄嗟に言った。
「あ、わたくしが——」
「いいのですよ。お客さまをもてなすのは主人の役目だ」
老侯は言いながら、布越しに薬鑵を持ち上げて、茶器に注いだ。それから、水差しの乳を入れ、しまいに砂糖漬けを匙ですくうと、茶色い粉のようなものをぱらぱらと混ぜ入れた。
「さあ、召し上がれ」
差し出された茶からは、あたたかい湯気が甘い香りと共に立ち上がっている。
「いただきます」
イレイェンは椅子に腰を下ろして、茶器を受け取る。一口含むと、かぐわしい香りが舌を満たした。焦がした砂糖と林檎の味、乳のまろやかさ、ぴりっとする甘さが口のなかを満たして、喉を通って体全体をほっこりとあたたかくした。
自分自身の感覚で、味や香りを強く感じることに驚く。なんとも言えない懐かしさがこみ上げてきて、サイラーシュ侯を見た。
「おいしいですか?」
目尻を細くしたサイラーシュ侯が問うた。
「はい……! これは……」
「ミリェル姫が好きだった味ですよ」
「お母さまが……?」
「ええ。よろしければ、のちほど作り方をお教えしましょうか?」
「はい。これ……、この味は母が作っていたものと同じです」
「気に入った御母上に、私がお教えしたのですよ。乳と、桂皮という香辛料が入っているのです」
「桂皮、ですか?」
「はい。〈南の海〉を渡ってきたものなので、あまり馴染みがないかもしれませんが」
〈南の海〉を渡ってきたということは、船舶で運ばれてきたものだ。とても貴重なものにちがいない。
イレイェンが顔を曇らせてしまったのを見て、察したのだろう。サイラーシュ侯はやんわりと言った。
「使わなければ、もったいないですからね」
だから、遠慮しなくていいのだというのを示すように、老侯は茶器を口元に運んだ。イレイェンもまた同じように茶を飲む。
真冬の夜は冷え込む。この応接間だけは、薪と茶のあたたかい空気に満ちていた。
「——母のことをご存知なのですね」
「……ええ」
茶器を卓に戻してから、サイラーシュ侯は応えた。
「ミリェル姫は、私にとって娘のような存在でした」
サイラーシュ侯は、瞑目して続ける。
「私と亡くなった妻のあいだには子がいなかったものですから、本当に娘のように思っていたのです」
「……母とはどのように知り合ったのですか?」
尋ねると、サイラーシュ侯は思い出したように笑った。
「打算だと言われたんですよ」
「打算?」
「ええ。私たちが主催した夜会に、ミリェル姫が来た時です。挨拶に来た彼女に声をかけると、打算だと応えました。どうしても振り向かせたい殿方がいるから、親しくなりたいのだと。私も妻も驚きまして……臆面もなくそのようなことを口にする令嬢を初めて目にしたものですから、面白くて乗っかってみたのです」
どこか遠くを見ながら笑みを浮かべる老侯は、その当時のことを懐かしんでいるように見えた。
「母が……?」
「そうですよ。そうして、射止めた方は誰だったと思いますか?」
「……まさか、父ですか?」
「正解です」
楽しげにサイラーシュ侯は笑った。
「あれは、本当に面白かったですね。ミリェル姫に転がされているとは知らず、彼女に惹かれていって、最後にはルソーラに三度も行って、あの娘を口説いたのです。ミリェル姫は、リリエーシュ伯に種明かしをしたんでしょうか。なにか、知っていますか?」
「いえ、父からは……あまり母の話を聞かなかったので」
ついこのあいだまでは。イレイェンがソーニャの真実を知るまでは、一切母の話を聞くことはなかった。
「さようですか。では、今度の春に、私のほうからお父上にお話をしてみましょう」
サイラーシュ侯が悪戯っぽく笑うので、イレイェンはくすりと笑った。
「ええ、ぜひ」
不思議な間があった。
そのあいだに、二重窓を吹雪が叩きつけて、薪にひびが入り、茶が一口減った。
「——それで、」
再び口を開いたのは、サイラーシュ侯だった。
「私たち夫婦とミリェル姫、それからリリエーシュ伯とは親しい間柄だったのです。社交季には互いの街屋敷をよく行き交いましたし、冬季には文も交わしました。ミリェル姫にはよく笑わせてもらい、リリエーシュ伯とは政について語り合いました。同じリュメールの貴族のなかで、特に親しかった」
「…………」
「それも、十年前までの話です」
「十年前……」
母が死んだのが、ちょうど十年前の冬だ。
それから、サイラーシュ侯と自分たちのあいだに親交がなかったのは知っている。自分も父も、ずっと領地に引きこもっていたのだから。
「ミリェル姫の死が、私たちとリリエーシュ伯を分断してしまいました。……だから、知らなかったのです」
なにが、という疑問を覚えるのと同時に、イレイェンの両手はしわだらけの手に包まれていた。
「——私は、貴方に謝らなければいけないことがあります」
「謝る……とは?」
「サスエルのことです」
ひゅっと喉の奥が鳴った。どくどくと心の臓が鼓動を早く鳴らしはじめる。
「サスエルは……、私がリリエーシュ伯とミリェル姫に子ができると聞いて、紹介した我が家の使用人でした」
知らない事実に、イレイェンはまじまじと藍色の双眸を見た。
「サスエルばあやが……」
お嬢さま、とささやく声が耳の奥で聞こえる。
「とても信頼のおける者でした。リリエーシュ伯の家に行ける者を募ったのです。かつて自分で子を育てたが、育てきることができなかったからやらせて欲しいと志願をしてきたのがサスエルでした。彼女の子は……飢饉で亡くなりましたから」
「そう、だったのですか……」
もうほとんど顔を思い出せない。過去に聞く飢饉の被害を受けた人をイレイェンは今まで知らなかった。けれど、子どもの頃にすでに接していたのだ。
「私も、ずっと彼女の悲しみに報いてやりたいと思っていました。だから、リリエーシュ伯の家であれば、それが叶うであろうと、紹介したのです」
けれど、それは間違っていた、とサイラーシュ侯は続けた。
「……サスエルが、ミリェル姫に毒を盛ったのだと聞きました。そして、イレイェン。貴女の心を深く傷付けたのだと」
ばきっと音を立てて、薪が割れた。赤い火が明るくなり 、灰が少し散る。
イレイェンは茫然と、その光景を横目に流した。
「申しわけありません」
言葉を失っているあいだに、サイラーシュ侯が頭を下げた。
「貴女がた家族を傷付けてしまって、申しわけなかった」
「……ちが、ちがいます。あれは、わたくしが……」
イレイェンは言葉が続かない。
頭を上げたサイラーシュ侯が、首を振りながら包み込むように言った。
「——イレイェン。貴方はなにも悪くないのですよ」
『だれも、あなたを責めていないわ』
エリエラが言っていたことが思い出された。きゅっと胸の奥が締め付けられた。
わたしは、わたし自身が、わたしを許すことができない。
そう言った自分の言葉が深く喰い込む。自分を許していないのは、自分だけなのだろうか。
『それは、とってもつらいことよ』
イレイェンは、どうすれば良いのだろう。
気が付けば、茶はすっかり冷え切っていた。柱時計の重々しい音が、日付けが変わったことを告げていた。




