9−1
肺が凍る。
鼻から通った空気が口腔や気道を抜けていく。あらゆる生き物の活動を停止させ、力を奪っていく厳寒のマノシュ老爺の来訪には、だれもが震撼とする。
さすがに、人はまばらか。
サイラーシュの城下街の目抜き通りには往来はあるものの、マノシュが訪れる前と比べれは雲泥の差だ。
細氷が舞い散るなか、パドイユの山麓を背景に聳立するサイラーシュの城館は、さながら芝居屋の描画のようだった。白く積もった玉葱屋根の尖塔が高らかに主張している。今の時世、敷地のなかに礼拝堂を備えている貴族は少ない。サイラーシュ侯のが信仰心が深い証拠だった。
ひと通り、城下街の視察を終えると、クラエスは獣丁に馬を返し、まっすぐ坂を上がって、そこを目指した。
礼拝堂の両扉の片側をゆっくりと開けて、なかに滑り込む。冷気に静謐さが混じっていた。拝廊で礼をし、身廊を進むと、内陣で祈る小柄な後ろ姿が目に入った。
「——サイラーシュ侯」
「お静かに。しばしお待ちを」
矍鑠とした声がそう言った。
まだ祈りの時間だったらしい。クラエスは一言詫びを入れると、大人しく側の腰掛けにかけた。
「——神々の加護はご存知ですか?」
幾許かの時間が経っただろう。振り返ったサイラーシュ侯は、身廊を挟んだ向かい側に並ぶようにして腰かけた。
「ええ」
横顔からはその顔色は窺い知れなかった。
「そのむかし、帝王の一族は、霊峰タルタリラの神域から来て、この地に国を築かれた。神域の力を借りることで、王族たちは国を治めたが……、それはかつてのことです」
「はい」
「今や、その治世には翳りが見えている。誰もが口にしてはならないと引き結ぶが、帝王の一族の力が弱っているのは明白です。一族の証である髪の色が、今や一子にしか引き継がれていないことが何よりの証左。なぜだと思いますか?」
「……血が薄まったからでしょうか?」
「否。それを言うものは多い。宮内でも論議されているのはその点です。だから、血を守るために身内で婚姻を結ぼうという恐ろしいことを俎上に載せるのです」
「…………」
「私の仮説はちがいます。祈りを、忘れたからです」
クラエスは、目をしばたいた。
「祈り?」
「なにを非現実的なことを、とおっしゃいますか? けれど、王族も貴族もみな祈りを忘れるようになってから、魔法の力が弱まっていったのは資料を見るとわかるものです」
「そんなことがあるのですか」
「帝都の資料室で確認すれば……、わかりますよ」
さて、とサイラーシュ侯は一息ついた。
「すみません、話しすぎました。お話が、あったのでしたね?」
「はい」
肯くと、目が合った。
「どのようなお話でしょうか?」
おそらくサイラーシュ侯は見当がはついているにちがいない。されど、尋ねてくる。そこになんらかの思惑を探りそうになったが、クラエスは内心で首を振った。
己のなかで境界を作るのは、やめたのだ。今やるのは、そうではない。
「灌漑農法導入の件について、です」
「ほう」
すうっと藍色の目が眇められた。
「王会で提出された件について、ですか?」
「そうです」
「その件について、私がお話しをすることはございませんよ」
にべもなく両断された。
舌が凍りつきそうになる。堪えてから、クラエスは尋ねた。
「なにゆえですか?」
「なにゆえ……愚問ですね。サロワ伯、貴方はご存知のはずだ」
柔和な形はひそめて、鋭い眼光が刺した。
「サイラーシュは、恨みを忘れない」
良い御仁だ、というシェレーヌの言葉がよぎった。訪れる者を歓待するどころか、今すぐ帰れと言わんばかりの眼光に、少し前のクラエスであれば、嘘をこけと頭のなかで罵っていたことだろう。
だが、
「——承知しております。ですから、私も誠意を見せねばならぬと思ったのです」
クラエスは立ち上がると、サイラーシュ侯の前に立った。
「なにを……?」
目元にしわを刻んだ藍色の目が怪訝に見上げる。
「——サイラーシュ侯、サイラーシュの領民を代表する侯に申し上げたい。かつての我が一族が犯した愚かな罪を、謝罪申し上げる」
膝を折ると、頭上にサイラーシュ侯の気配を感じた。時が止まったかのように、堂のなかの静けさが拡張していった。
「今更、なにをおっしゃるのでしょうか」
間を置いたのち、ぽつりと小さな声が空間に木霊した。
「はい……、今更というのは承知で申し上げております」
これまで、明確にマルヌーシュ公や連なるサロワ伯が謝罪をしたことがない。頑として、通行税と飢饉による餓死に因果関係を説明できない、と突っぱねて来ただけだ。祖父が間違ちがっていたと認識している現当主の父でさえ、してこなかった。
「サロワ伯、貴方はまだお若いからご忠告申し上げましょう。領主が謝罪をする意味をご存知ですか?」
「……重々わかっているつもりです」
「もし、私が帝王陛下にサロワ伯、いえマルヌーシュ公に、責任を取れと奏上申し上げれば、謝罪の印として、見合った賠償金を支払わなければならない、ということですよ」
「理解しております」
「マルヌーシュにそのような余裕がありますか?」
通行税を取らなければいけないほどだったのに、というのが暗に込められる。
「ある、と言えば嘘になります。ないとも言い切れませんが……。もし、ないとしくても、時間をかけて償う覚悟がございます」
深い溜息が振ってきた。体の奥から吐き出された息は、ともすればそのまま終わってしまうのではないかと思えるほど、やつれたものだった。
「……そこまでして、灌漑施策への賛同を受けたいということでしょうか?」
「いいえ、ちがいます」
クラエスは首を少し振ってから、考え直して止めた。
「……いえ。まったくちがうと言うわけではありません。ですが……」
「…………」
「ですが、それだけではありませぬ」
クラエスは下げていた頭を持ち上げた。明敏な光が、見定めていた。
「もうこれ以上、不幸の連鎖を広げたくないのです。……心から、解放したい人がいるのです」
「だれか、と聞いても?」
「それは……」
イレイェンのことを話されるのはためらわれた。リリエーシュ伯が秘匿していた事情を、関係のない他者に話すことが良いとは思えなかった。
そのためらいを断ち切るように、サイラーシュ侯は言う。
「謝罪を受ける私には知る権利がありましょう。知っている相手であれ、知らない相手であれ、貴方が私に話した内容は他言いたしません」
ですから教えてください、と促されれば、クラエスは話すほかなかった。
「…………イレイェン嬢です」
伝えれば、鋭い目が見開かれた。
「……聞きましょうか」
収束するように幾分やわらいだ目元は、クラエスに詳細を語るよう言っていた。
クラエスは、イレイェンとの関係について語った。彼女が母の死に傷付いていること、サイラーシュ出身の使用人から受けた心的虐待が、深く傷を残していることを。
聴き終えたあと、老侯はしばらく緘黙した。それから、喉から引きしぼるように嗄声を出した。
「まさか、サスエルが……」
「ご存知なのですか?」
「あの者は……私が、リリエーシュ伯に斡旋した者なのです……」
なんということだ、とつぶやくと、サイラーシュ侯は片手で顔を覆った。
サイラーシュ侯がうろたえることを予想していなかっただけに、クラエスは一瞬言葉を詰まらせたが、おそるおそる問いかけた。
「侯……?」
「……ミリェル姫とリリエーシュ伯に申しわけが立ちません。ああ……、私はなんということを……」
膝に肘をついたサイラーシュ侯が、あまりにも小さく見えた。すうっと板を入れたようにまっすぐ伸びている背筋から、その小ささをあまり感じなかったが、そこにいるのは老いた男ひとりだった。
このまま冷気がこの男を氷漬けにしてしまうのではないかと思えるほど、長い時間が経ったあと、サイラーシュ侯はおもむろに顔を上げた。
「サロワ伯」
「……はい」
「事情はわかりました。貴方の謝罪をお受けしましょう。そのうえで、灌漑農法の件も考慮しましょう」
「え?」
クラエスはそこまで期待をしていなかった。
たしかに、当初の用件は灌漑農法導入への説得であったが、今となっては謝罪の重要性のほうがはるかに高い。受け入れてもらえれば上々という心づもりでいたのである。
もの問いたげな目をしていたらしい。サイラーシュ侯が苦く笑った。
「なぜか、でしょうか。……そうですね。老いてもなお、気付かされることがあるのです……。灌漑施策の提案はとても素晴らしいものだった。是としなかったのは、年老いた身として、熱くなっている若者には客観的な意見を述べなければいけないという義務もあったでしょう。だが、個人的な怨嗟がなかったかと問われれば、否めませぬ」
「それは……、候からすれば当然のことです」
「いいえ。気付かないうちに意固地になっていたのでしょう。貴方の言に気付かされました」
「俺は……」
そんなたいそうなものではない。
「いやなものです。歳年を取ると、頭が堅くなる……。知らぬうちに大事な友人の家族を追いやっているとは……」
嘆息したサイラーシュ侯は、次の瞬間にはクラエスを見据えていた。
「——立ってください、サロワ伯。貴方の誠意は受け取りました」
「サイラーシュ侯……ありがたくお礼申し上げます」
「居館のほうへ移りましょうか。ここは落ち着くが骨に沁みます。あちらへ行って、メルニー伯も呼んで、次期王会での立ち回りについてお話をしましょう」
「はい」
「——メルニー伯が来るまでのあいだ、もしよろしければ、この老骨のむかし話を聞いていただけますかな?」
サイラーシュ侯がやわらかく笑った。




