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「——ひとつ、よろしいでしょうか」
落ち着いた様子で、すっと手を挙げた男を見て、クラエスは、こめかみに緊張が走るのを感じた。
きたか。
宮宰フェルメが肯きを返すと 、サイラーシュ侯は静かに立ち上がった。
齢は七十と少し。ひょろりとした体つきで、背丈は一セイル(約一・五メートル)ほどの老爺であったが、その背筋は板を入れたかのように伸びている。 老いてもなお明敏な光を宿す、眼鏡の奥の藍色の瞳が議場を俯瞰していた。
「本件は、サユール川の治水と利水という観点で述べられているかと存じますが、もとより治水は必要なのでございましょうか」
座席を引けば、その音が大きく響くだろう。水を打ったかのような静けさだった。
「——そちは、不要と申すか?」
議場の最上座におわす帝王が、眉をひそめる。
さきほどまで活発だった議論は、およそ議案を通すことを前提に進められていた。リュメール、マルヌーシュ双方に利のある話であり、否決する必要性を感じられないという了解が、すでに場を占めていたからだ。むしろ、大事業となることから、資金の捻出に紛糾していたのが、つい今しがたまで起こっていたことであった。
「恐れながら、陛下。不要だと決めつけているわけではございません」
「では、何と申すか?」
今上帝には、早急に物事を白黒のみで判断するきらいがある。はっきりとしないことを好まず、曖昧なものに対してすぐに苛立ってしまうところが、この王の欠点だった。
「治水が必要か否か、判断が難しいのではないかと申し上げます」
「何が言いたいのだ。サイラーシュ侯」
イリギールのじじい、とイセルが嘲弄する本人が、濁った声で荒々しく言った。
その姿にちらりと視線をやったサイラーシュ侯は、あくまでも淡々と述べる。
「サユールは、毎年氾濫をいたします。雪どけの……ちょうど今時分、支流も含め、至るところで氾濫が起きていることでしょう。これによって、サユール流域は人が住むことが困難でございます」
「そんなことはここにいる全員が承知している!」
いらいらとした様子を隠さずにイリギール侯が言った。
この老爺は、帝王と気質が似ているところがある。話し方や考え方からして、イリギール侯とサイラーシュ侯は合わない。だが、帝王は、イリギール候と似通っていても、泰然と構えている様子があった。
「しかし、人が住めない代わりに、サユールは小麦の農耕に適した豊かな土壌をその流域に築いてくれるのも確かでございます。では、これを治水すると、どうなるのでございましょうか」
「豊かな土壌が築けなくなり、小麦を育てることが難しくなるということか」
帝王がつぶやくと、リュメールの特にサユール流域の領主たちは顔を曇らせて、互いに顔を見合わせた。
——まずい。
おそらく、サイラーシュ侯のねらいはこれだろう。
旗色が変わる気配を感じて、クラエスは咄嗟に立ち上がった。
「陛下、発言をお許しいただきたく」
「良い」
帝王の許諾が下りると、クラエスはまっすぐにサイラーシュ侯の藍色を見た。
「侯のご懸念はたしかに。それであれば、リュメールにとっては利にはならぬということですね」
「そうです、サロワ伯」
「これは、私の説明不足でございましたが……、今回の治水は、サユール流域の一切の氾濫をなくすというものではございません。今までは自然になし得ていたものを、計画的に行っていくことで、土壌を安定的な農地にしていくことが可能かと思われます」
「その技術がある、と?」
「はい。それは、メルニー伯が発表した灌漑技術を応用すれば、できることです」
「さようですか……」
相槌を打つと、サイラーシュ候は藍の目を閉じる。
クラエスが、シェレーヌに顔を向ければ、彼女は美しい顔を不敵に微笑ませた。任せろと言わんばかりの表情に、クラエスは少し肩の力が抜ける。正念場を抜けたと思ったところで、再びサイラーシュ候が口を開いた。
「サロワ伯のおっしゃることよくわかりました。——ただ、この老骨はいささか不安でございます」
視界の隅で、イリギール候が身じろぎした。じれったいという形相で、ほとんど年の変わらぬサイラーシュ候を睨み付けている。
クラエスは、じっと待った。
「……自然とは、そのように技術で統べることができるものなのでしょうか」
「と申しますと?」
「人が、ああなるだろうこうなるだろうと予想するものとは別の理を、自然は持っております。人工的に行えば、今までよりも住む場所を確保できるかもしれません。けれど、今回導入する技術を超えた大きな氾濫が起きたら? あるいは、人間の生では考えられないような視野で考えた際に、今までのような豊かな土壌を維持できるという保障は、どこにあるのでしょうか?」
「それは……」
ない。そんな視野で、考えたことはない。
「今は良くても後世のものが苦労する可能性があることに、同意することは難しく思います。
——かつて、帝国全土の飢饉を予想し得なかったように」
ざわりと、議場が揺れた。
やられた。
リュメールの貴族たちは、完全に不安を煽られている。騒ぐイリギール候の周囲では、マルヌーシュの貴族がひそひそと言葉を交わしている。カリカースの者たちは、ルダール川流域にも同じ技術の導入を検討していただけに、腕を組んで討論をはじめた。
「——静粛に!」
宮宰フェルメの声が轟いた。一斉に、静まり返る。
「陛下の御前であるぞ。わきまえたまえ。
本案の決議については、次週に持ち越しといたす。本日の会はこれにて終了とする」
フェルメの司会にあわせて、全員が最高座に礼を取ると、解散となった。
*
「どうする、クラエス?」
男装の麗人ことシェレーヌは、タルスの杯を傾けながら尋ねた。
「リュメール領主たちの不安を拭わないと、議決されないぞ」
同じく杯を傾けながら、イセルが言う。
そうだなと肯いてから、クラエスは麦酒をごくりと呷った。
事実を突き詰めてくるだろうというのが自分たちの予想であった。だから、計測と観測を入念に行い、既往最大水位を突き止め、その客観的な値をもとに分水路の計画を立てたのだ。
まさかサイラーシュ侯が事実ではなく、推測や予測でもなく、憶測から扇動をするとは考えていなかった。
あの時、サイラーシュ侯は落ち着いていた。冷静に、淡々と、不安を煽ったのだ。
青く燃ゆる恨みと怒りを、橇に曳かせ、御するのは、並々ならぬ精神が必要だろう。
——恨みがなければ……。
何かちがったのだろうか。
気持ちとは、なんと面倒なのだろう。感じたくないと思っていても、付きまとってくる。考えがあるかぎり、気持ちもまた生じてくる。
あの男は、制しながらも呑まれている。感情に支配されず、けれど感情に従って、道のりを歩んでいるのだろう。それは達観とした、自分には見えない曳き方だ。
「シェレーヌ、算術師の知り合いはいるか?」
「ん? まあ、塔の偏屈なやつなら」
「可能なら、その人につないでくれ。百年先の予測値を算出してもらう」
「了解」
シェレーヌに頼むと、ゲイシュ伯イセルに向き直った。
「イセルは、引き続きイリギール侯と南部領主の取り持ちを。自領のことでさらにややこしくされたらたまらない」
「おうよ。そこは任せとけ」
歯を見せて笑うゲイシュ伯が心強かった。
「あら、若い皆さまは、楽しんでいらっしゃる?」
銀の大波を揺らす貴婦人であった。
カルメル侯。美しいものに目がなく、流行の船頭と社交界では言われるが、その実は名領主だ。マルヌーシュの中央を与る彼女は、南北街道のみならず、カリカースとリュメールの東西を結ぶ街道の利権を持っている。
流行の旗振りを行っているのは、あくまで街道利権の副産物でしかない。領主としての手腕は、マルヌーシュで一、二を争う。
「今宵はご招待いただき、誠にありがたく。えも言われぬ品々の数でこざいます」
「ありがとう、サロワ伯。
——メルニー伯、今日は殿方の装いではないの?」
ほほ笑むと若く見えるが、カルメル侯はおそらく四十を超えている。王会で目にする時は笑うことが稀ゆえに、中年の女性として目に映る。だが、夜会や茶会などの社交の場で会うと、十は若く映る 。
「わたくしが夜会で男装すると、痴情沙汰を引き起こす可能性がありますので」
「まあ……! そうね。あなたは美しいもの」
カルメル侯の言葉は褒めているが、わずかな妬みが含まれている気がした。シェレーヌを横目で見ると、彼女は嫣然としていた。
「恐れ入りますわ」
赤い口角を上げているさまにクラエスはそら恐ろしいものを感じて、見ぬふりをした。
「ゲイシュ伯は相変わらずそうね」
シェレーヌへの拘泥はなく、あっさりと向き直ったカルメル候は、イセルに対してそう言った。
「ええ。楽しく過ごさせていただいておりますとも」
「……そう。それは良かったわ。また、南方のことをお聞かせちょうだいね」
妙な間があった。
領民出身のイセルと根っからの貴族であるカルメル候。二人の双眸のあいだに、言葉にならぬ応酬を感じた。
よもや、という疑念が頭をよぎり、その可能性を意識する。兄や友人とも言える間柄のイセルと、叔母といっても差し支えないカルメル候。とやかく言う立場ではないが、胸骨をざらりと撫でられたような不快を覚えた。
もれそうになった嘆息をうちで呑みくだすと、額の裏で、陽炎がゆらゆらとした。
イレイェン嬢。
彼女は、元気にしているだろうか。そういえば、約束をまだ果たしていなかった。屋敷に戻ったら、〈紙〉を送らねば。
考えていると、不快感がふっとやわらいだ。




