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メルル菓子店で帝都の区画の話をすると、イレイェンはたいそう興味深げに耳を傾ける様子があった。説明をする度に質問が返ってくる。その問いは責められるというよりも、わからぬことを解き明かしたいという気に近いものを感じた。
話をしているうちに気分が高揚していくような感じを覚えながら、職人保護についてふれると、イレイェンは表情を曇らせた。
「そんなこと……わたしの前で話をしても、いいのですか?」
「というと?」
「今のは、次期マルヌーシュ公としてのお話でございましょう?」
「ああ……」
そういえば、以前も同じような会話をしたのだった。もう二月ほど前のことだと思うと、昔のできごとのような心地と、つい今しがたのできごとのような心地で、揺れるようであった。
「その点、俺は貴女を信頼している」
「…………ありがとう……ございます」
返された言葉はか細いものであったが、疑っていないということは伝わったようであった。
イレイェンであれば、ランスリー婦人に会わせてもいいかもしれない。この娘なら、ひらひらとした衣装に興味を惹かれるのではなく、婦人の技に目を向けてくれるような期待がもてる。
どう話をつけようと算段をつけながら、北区の説明をし、しまいには〈紙〉で文を送る約束をした。
どうやら魔術に心惹かれているイレイェンは、それからしばらく機嫌が良かった。
メルル菓子店から出ると馬車に戻り、中央区で再び馬車を降りると、市場のある通りに向かった。
市場は人がごった返していた。街道沿いの宿場街でも人の多さを感じたが、王都の市場はその比ではない。茶や亜麻、黒の間に、銀や金などの色が混ざりながら、委任領に関係なく人々が売り買いをしている。
皆、表情が明るく、心底短い夏を楽しもうという活気にあふれていた。
イレイェンもまた瞳を輝かせていたが、ややもせぬうちに顔色を青く変えていった。
「ごめんなさい。少し人酔いをしたかもしれません……」
「いや、すまぬ。気が回らなかった。今は夏の祝いだからな。向こうに広場があるから、そこで少し休もう」
こくりと肯くイレイェンを促して、広場のほうに足を向ける。
時計塔ノ鐘が、八ノ時を鳴らすと、わっと言いながら子どもが集まってきた。人の多さから逃れてきたのに、再び人が増えたことに、ぎょっとしてイレイェンの顔色を窺うと、驚いているだけで青みは見えなかった。
「何かしら」
「どうやら、芝居屋のようだ」
「芝居屋?」
「各地を渡り歩いて、芝居を披露することを生業にしている者たちだ。多くは読み書きが難しい領民向けだな。お伽噺や伝説などの物語がほとんどだが、まれに沙汰なども扱っている」
「じゃあ、芝居屋を通じて、情報などを得ることもあるのですね」
「そうだな。芝居の形式は様々だが、役者が演じるものもあれば、紙や影絵での芝居もある。今日は……影絵のようだ」
子どもの視線が集まっている場所には、小さな舞台が用意されていた。
イレイェンが引かれたように足を止めたので、その背をかばうようにクラエスもまた立ち止まる。
芝居屋が子どもたちの注目を集めてから、物語の題名を発表すると、びくりと大きくイレイェンの肩が揺れた。大きく見開かれた目にたたえられているのは、驚愕と、そして恐怖だった。
何を、そんなに。
物語の内容はたいしたことがない。よく語られている内容だった。愚かな双子の王子たちが争った話。直後は誤った解釈から、双子が忌まれて、捨てられることや秘されること、殺されることもあったというが、それも百年ほど前までのことだ。
今の解釈では、語りの端緒は当時の王族や貴族たちに対する権力争いへの戒めであったとされる。
あくまで史実を伝承する機能しか持たない語りに、怖れを感じる必要はないはずだ。
次第に青褪めていくイレイェンを訝しみながら、さっと周囲を見渡すと子どもや大人も食い入るように舞台を見つめて、顔を強張らせている。辺りに靄が立ち込めているような気配を感じて、クラエスは勘付いた。
〈呪い〉か。
芝居屋が意識しているか否かはわからない。けれど、その口元から発される語りと抑揚に、〈呪い〉の気が含まれていた。
弟の顔が脳裏にちらついて、内心で舌打ちをする。魔術師である弟であれば、もっと早く気配に気づいたはずだ。自分のわずかしかない力が腹立たしい。
芝居が終わった途端に濃厚になった靄を呑み込むようにして、イレイェンの震えが強くなった。辺りもまた禍々しい気配が充満しはじめたところで、クラエスは意図的に腹から声を出した。
「ばからしい」
〈呪い〉の力を込めて、続ける。
「こんな夏のいい日に、楽しませてもらえるかと思えば。所詮、昔日のできごと。昔の愚かな行いを繰り返さなければいい」
クラエスはあえて明るく言うと、イレイェンの手を取った。
「——さて。こんな辛気臭い芝居はやめにして、祭りでも楽しもう」
いやな気がすっと払われるのを感じながら、イレイェンの手を引いた。
おそらく無意識に〈呪い〉を使っていた類だろう。魔術が廃れて随分と経つが、たまに、〈呪い〉を行使するものに出会う。ほとんどが無意識のもので、およそ害のないものだが、こうして大勢の前で使われる力は、良くないものを呼び寄せる。
イレイェンの手が震えていた。
ちらりと見やると、その目尻に光るものが浮かんでいて、見てはいけないものを見た気がして、慌てて前を向いた。
何を怖れていたのか。
〈呪い〉の影響だろうか。まれに強く影響を受けるものがいるが、そうだとしても、彼女は始まった瞬間からすでに様子がおかしかった。
何か、あるのか。あの話に。
そう仮説を立てて、今は結論が出ないだろうと思考の隅に追いやる。
黙り込んでしまったイレイェンに気まずさを覚えながら、クラエスはその手を引きながら市場へと戻った。イレイェンの人酔いの可能性も視野にいれながら、露店をめぐっていると、土産物の店で木目の栞が気になった。
いい目だ。
良い木材が元になっているのだろう。おそらくカリカースの木材だ。
店主に金子を渡して、代わりにもらうと木目模様に沿って、運気に恵まれるよう〈呪い〉を込めた。
「土産だ」
そう言って渡すと、イレイェンが驚いたように顔をあげる。
「わたしに?」
「初めての市場での思い出に」
栞を受け取ったイレイェンは、目の前でひらひらとさせながら、ぎゅっとそれを抱き込んだ。
「ありがとうございます。大切に……します」
ようやく笑みを見せたイレイェンに、クラエスもまた笑みを返した。
馬車に戻ると肩の力が抜けたらしい。気づかぬうちに意識が断続的になって、馬車が止まる振動で目を覚ますと、イレイェンを馬車から下ろした。
礼を交わし合って、見送ろうとした彼女は、階段の途中で振り返った。
「手紙の約束、お忘れなく」
陽の光に赤金の髪を照らしながら、イレイェンが凛と言った。
その顔には、さきほどの影はちらついていなかった。ほっとした心地と、不意に胸からあふれたあたたかいものを感じながら、クラエスは返した。
「かしこまりました、お嬢さま」
わざとらしい紳士の礼をすると、同じくわざとらしい淑女の礼で受けたイレイェンは屋敷へと戻っていった。




