5−7
イレイェンから何か連絡をしたい時もあるだろう。
そんな時のために、クラエスから備えの〈紙〉と〈墨〉をもらっていた。墨壺にそっと筆先を差し入れる。染みたのを確認してから、〈紙〉に文字を記していった。
建前などがあまり好きではない人だ。用件だけを短く端的に綴った。
『親愛なるクラエス。
会って、お話をしたいことがあります。
リリエーシュのイレイェン』
雪スズメの形に折った〈紙〉は、返信を伴って翌日戻ってきた。
『親愛なるイレイェン。
一週後に訪問させていただく。
サロワのクラエス』
やはり短い内容で、断定とした応えだった。
イレイェンは、ふうっと息を吐き出して、自室の椅子にもたれかかった。
一週後。心の準備をするまでに時間がある。今すぐに言ってしまえたら楽になれるだろうに、あと一週先だと思うともどかしい。けれど、考えを整理する時間は十分にある。そう思えば、ほっとした。
体の力を息と共にゆるめていく。宵闇のなかに引き込まれる感覚が満ちていって瞼を下ろしたところで、控えめな扉を叩く音がした。
「はい」
「——姉さま、わたくしよ」
ソーニャの声に、イレイェンは椅子から体を起こして、すぐに扉を開いた。
寝衣に身を包んだ妹が、立っていた。
「入って」
イレイェンが招き寄せれば、ソーニャが室内にするりと入った。
扉を閉めれば、窓から差し込む月の光だけが部屋を照らしている。久しぶりに顔を合わせた妹は、どこか悄然とした空気を漂わせていた。窓辺まで足を運んで、夜空を見上げていると、月光にその姿が浮かび上がる。白く浮かんでいる様子は、ともすれば光のなかに消えていってしまうような危うさがあった。
どうして、そんな顔をしているのか。
定めた心がぐらぐらと揺れるような気がして、イレイェンはぐっとこらえる。
上辺だけの問いや話をするために、この機会を設けたわけではないのだ。
「——こうやって、ふたりで話すのは久しぶりね」
イレイェンが言えば、ソーニャがゆっくりと振り返った。じっと検めるように見つめたかと思えば、ふと視線をそらして、
「そうね」
と答える。
「ちゃんと話したのは、舞踏会の前が最後だったかしら」
これにも、ソーニャは一言で答えた。
夕陽色の双眸には、何も浮かんでいない。やり取りが飽きてしまったように、再び月を見上げた。
「今日は、きちんと話をしようと思ったの」
ソーニャは無言だ。折れそうになる心を叱咤して、イレイェンは言う。
「ずっと……わたしが目を逸らしていたことに決着をつけようと思う」
「何に?」
振り向かずに、問われる。
「ソーニャ。あなたの思いに」
言えば、妹は再び振り返って、イレイェンを見つめた。
「……聞くわ」
ソーニャは寝台まで歩んで腰を下ろす。瞳が、イレイェンの次の言葉を待っていた。
「わたしは、あなたに甘えていたわ」
甘えていた。妹の優しい態度に。
「初めから。ずっと。もう半年近く前だけれど、マルヌーシュからの招待状が来てから、ずっとソーニャに甘えていたわ」
続けてと、自分と同じ声が促す。
「最初は、罪悪感を感じていたわ。ソーニャが家で留守をしていることを思い出して、申し訳ないと思っていた。けれど……、帝都に上がった頃くらいから、あなたが留守を預かるのは当たり前になっていた。それが、ふつうなのだと」
「そうね。姉さまがそう思っているって、わたくしも感じていた」
同意されると、苦い思いが喉の奥から腹のなかに広がった。己の不甲斐なさに、腹をかきむしりたくなる。言葉を続けることに抵抗を覚えながら、イレイェンは吐き出すように言った。
「だから、ほんとにあの夜……、あなたが外に出てみたいと言った時、愕然とした。そして、また言ったわね。クラエスさまが好きだと」
思い出せば、あの時の感情がよみがえってくる。現実を否定してたまらなくなった時の気持ちを。
「……ええ。言ったわ」
「どうすればいいかわからなかった。どうして、あなたが……姉思いのあなたが……そんなことをって。
でも、それこそが本当にソーニャ。あなたを蔑ろにしていた。蔑ろにしていたことに気付いたのよ」
人の好い妹を利用していたのは、自分だった。
都合のいいように妹の言葉を解釈し、捻じ曲げていた。
見て見ぬふりをしていた。
「——ごめんなさい、ソーニャ」
目のなかに浮かびそうなものを隠すように、イレイェンは頭を下げた。雫が、ぽたりと床に落ちた。
「ほんとうに、ごめんなさい」
夜のしじまが、部屋に立ち込める。
話していた時には聞こえなかった音が、耳をかすめる。
虫たちの鳴く声や、梟の声、草花が夜風に揺れる音。
「——いいのよ」
ソーニャが言った。顔を上げれば、妹は微笑みを浮かべていた。
「いいのよ、姉さま。ありがとう。謝ってくれて」
どこかほっそりとした声音だった。そのやわらかさが、イレイェンのなかで誰かと重なる。額で、影がゆらゆらと揺れる。
「わたくしもね、謝らなければいけない」
何をと問うた。今いる自分と違和を感じている自分が剥離していくような感覚と戦いながら、問うた。
「外に出てみたいという気持ち。それに、クラエスさまのことを好きだって話。あれは、嘘よ」
「嘘……?」
「王都に上がってから、姉さまがどんどん遠くなっていくような気がして……。まるで必要とされていないようで……だから、嘘をついたの」
妹の言葉をひとつひとつ拾っていくと、違和感は急速になりを潜めた。そこには、ただ妹だけがいる。
「クラエスさまのことを好きって言えば、きっと姉さまは、わたくしのことを見てくれるって。そうすれば、気にかけてくれると思った。
——でも、姉さまを傷付けてしまった。そんなつもりじゃ、なかった」
それから妹は語る。ますます姉の態度がよそよそしくなったこと。まるで、腫れ物を扱うかのようで、妹自身も苦しくなったと。
「ごめんなさい、姉さま」
「ソーニャ……。ちがうわ。わたしがはきちがえたから、あなたが……」
「でも、ごめんなさい。わたくしのやり方は間ちがっていた」
ごめんなさいともう一度言うソーニャを、イレイェンは突き動かされるように抱きしめた。
「姉さま?」
「もう謝らないで、ソーニャ。謝らないで」
妹の体にぎゅっと力を込めれば、おずおずと腕を回してきた。小さな声が言う。
「わたくしを……許してくれる?」
「もちろんよ。むしろ、許しを請うのはわたしのほう」
ほんの少し体を離して、イレイェンは自分と同じ姿に尋ねる。
「許して、くれる?」
「……もちろん」
今度こそ目に浮かんだものを隠さずに、イレイェンは笑った。ソーニャもまた、笑う。
互いが落ち着くまで、もう一度抱きしめあった。
いくばくか経っただろう。涙が引くと、イレイェンは腕をほどいて、ソーニャから自然な距離を取る。そして、その目を見て言った。
「クラエスに話すわ」
「……何を?」
首をかしげる妹に、イレイェンは決然と言った。
「わたしたちのことを。双子だってこと、話すわ」




