5−6
四半時したところにリリエーシュの街はある。林檎畑を横切って、ゆるやかな丘を越えればすぐだった。
収穫期真っ盛りの街は賑わっていた。
粉を扱う店、栗などの木の実を扱う店、酒屋、干し肉や燻製肉を売る肉屋、果実の砂糖漬け、野菜の酢漬けや塩漬けを売る漬け物屋が露店を広げている。毛織物店は、毛皮帽や手袋、襟巻を並べ、毛革屋は、外套や長靴を揃えている。
冬支度の光景だった。
「あの角を曲がります」
スエラに言われて、イレイェンは視線を移す。角のところまで来ると、馬から降りて手綱を引き、スエラのあとを追って小路に入った。
「ここです」
小脇に馬を止めると、フィシュレー診療院の看板があった。木製の看板になっていることに気付いて、不意にクラエスの顔がよぎった。
診療院の扉を開けると、薬草の匂いが鼻の奥をついた。
奥のほうで、がたがたという物音がしたかと思うと、上背のある肩幅の広い男がのっそりと現れた。
「スエラ!」
「ただいま、ランセス。今帰ったわ」
スエラの夫君の姿を見るのは、随分と久しぶりであった。婚儀の挨拶に屋敷まできて以来であろう。昔から、大男という印象があったが、やはり圧迫感のある姿だ。その心の度量が、姿と同じく大きいことをイレイェンは知っている。
ランセスは抱擁をすませてから、背後に気が付いたらしい。イレイェンの姿を見ると、目を大きく見開いた。
「もしや、お嬢さまでいらっしゃいますか?」
「夫婦の再会にごめんなさいね、ランセス。お邪魔しているわ」
ランセスは、亡霊でも見たと言わんばかりに驚いた。イレイェンとスエラを何度も交互に見てから、やっと落ち着いた。お義父さんを呼んでくると言って、奥の方に姿を消すと、スエラがやれやれと溜息をついた。
「騒がしくて申し訳ございません」
「いいのよ。引きこもりがいきなり姿を現したら、驚いちゃうわよね」
何せ、体が弱いということで、スエラの父——マシルラ・フィシュレー医師の訪問を受けていたくらいだ。
「お嬢さまがこの春から活動されていたことは伝えておいたはずなんですけどね」
「まさか自分の家に来るとは思っていなかったんでしょうね」
イレイェンが笑えば、スエラがもう一度溜息をつく。
ランセスに連れられたマシルラ医師は、相変わらずの鳥の巣のような頭に、薬草染みのついた格好で現れた。イレイェンを見ると、親しみのある笑顔を浮かべる。
「お久しぶりですな、イレイェンさま」
「お久しぶりです、おじさま」
マシルラに淑女の略式礼を取る。
「帝都はいかがでしたかね?」
「とても……とても有意義でしたわ。自分の見識が広がったと、そう思います」
「晴れやかなお嬢さまの顔を見れば、肯けるところさね」
屈託なくマシルラは言った。
不思議そうに首をかしげて問うたのはランセスだった。
「今日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」
「お礼を言いに来ました」
イレイェンは背中を伸ばすと、やわらかくお辞儀をした。
「おじさま、ランセス。屋敷を管理してくださって、ありがとうございました」
「これはこれは……とんでもございません。私たちはあくまでも覗いた程度ですから。礼なら、街長に申してくだされ」
イレイェンが頭を下げたことにランセスは恐縮した様子だったが、マシルラは落ち着いた様子で謙遜してみせた。
「いいえ。おかげさまで盗人など入らずに済みましたから。父も、お礼を言っていました」
「領主さまからお礼をいただくなど、恐れ入ることですなあ」
マシルラ医師はのんびりと言う。ほどよく礼を受けとめてもらえている様子に、イレイェンは少しほっとした。
「それから、長い間スエラをお借りしました。
——特にランセス、ごめんなさいね」
「お気になさらず!」
うわずった声が面白くて笑うと、スエラが目くじらを立てる。
「お気になさらずとはどういうことかしら、あなた」
「いや、それは……」
「せいせいしたということね。もう帰りませんから」
スエラがふんっと言えば、ランセスが手を振って慌てる。その夫の様子を見て、スエラがイレイェンに楽しそうに目配せをする。くすくすと笑ってから、イレイェンはマシルラに声をかけた。
「——そろそろお暇するわ」
「また定期検診にうかがわせていただきます」
こくりと肯いて 、イレイェンは診療院の外に出た。スエラがあとに続くので、イレイェンは少し驚く。
「長いあいだ、留守にしていたのだから、今日はこのまま帰って平気よ?」
「何をおっしゃいますか。お嬢さまをひとりにできるはずがありません。屋敷まで送り届けなければ、わたくしが落ち着きません」
頑と言い放ったスエラに、イレイェンは悪いわねと返して、同行をあらためて願った。
それからイレイェンは、スエラと共に街長の元を訪ねた。長の夫婦は、親しみのある様子で丁重に出迎えてくれた。領主の娘として、手土産を持参して礼を言えば、えらく恐縮された。
「われわれは領主さまに対して、当然のことをしたまでです」
「その当然のことを手抜かりなくやってくれたお礼です。受け取ってください」
つとめて優しく、けれどきっぱりと言うと、長の夫婦はおそるおそる受け取る。
「このようなものを……。ありがたく頂戴いたします」
「この街が滞りなく営みができているのは、ひとえにあなたがたの功績だと父からうかがっています。あいにく父から直接のお礼はできませんけれど、父に代わって、これからもどうぞよろしく」
「そんな。伯がいらっしゃるからです! お姿をお見せにならなくても、毎年きちんとわれわれの拙い運営書に目を通していただいております。
ミリェルさまが亡くなられた際にはどうしたものかと思いましたが、イレイェンさまのような立派なご息女をお育てになって、領主さまには感謝しかございません」
深々と礼をされて、イレイェンは首をかしげた。
「母に会ったことがあるのですか?」
「お嬢さまは、ほんのお小さい頃でしたから覚えていらっしゃらないかもしれませんが、ミリェルさまがご健勝の頃には、毎年必ず秋の頃合いにこうしてわれわれのもとを訪れてくださっていたのですよ」
「そうだったのね……」
知らなかった。自分が昔、この夫婦に会っていたとは不思議な心持ちだった。
「よろしければ、今度は領主さまとおいでくださいませ」
そう言って送り出されて、イレイェンとスエラは帰途についた。
道すがら、さまざまな事柄が脳裏をかすめていった。浮かんでは消え、ほんの少し残り、残ったものが絡んでいく。
はっきりと輪郭が残ったのは、自分自身に対する足場のようなものだった。今まで薄ぼんやりとしていた形が踏み場となって、足元を照らしている。かたわらには、氷柱が音を鳴らして転がっている。
話を、しよう。
今までおろそかにしていたことを。
目を伏せていたことを。
恐れていたことに、向き合おう。
イレイェンは馬上でリリエーシュの土地を見据える。静かに、心を思い定めた。




