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出立の日の前日、イレイェンはフォンヌ家に挨拶に行き、続いてマルヌーシュ家を訪れた。
フォンヌでは同じく帰郷の支度を整えているエリエラとダランにまた手紙を書くことを告げるだけになった。待っているわと返された時に、こみ上げる嬉しさからエリエラを抱きしめると、仰天したエリエラがひっくり返りそうになった。
「イレイェンさまったら、どうなさったの?」
「ちょっとその……つい」
「ついって何ですの?」
秘密よと言うと、エリエラが小首をかしげた。
はたから見ていたダランだけが、今の行動の意味をわかっていた。
「それではまた秋の夕暮れにお手紙を」
「待っているわ、イレイェン」
手を振って別れる姿は一向に令嬢らしからぬ姿であったが、誰も見ていなければ問題なかった。
そして、訪れたマルヌーシュの邸宅はやはり立派な外観の街屋敷だった。
フレムを贅沢に使った屋敷は煉瓦色で、窓枠や支柱に白が塗装されている。門戸を叩けば、お仕着せをきっちりと着こなした女中頭が現れた。
「ごきげんよう、お嬢さま。当家にご用でしょうか?」
「ごきげんよう。先触れもなく失礼いたします。ヤンヌ家のイレイェンと申します。クラエスさまに帰途のご挨拶を」
「誠に残念ながら、クラエスさまは出仕しております」
にべもなく女中頭が告げた。
「出仕……ですか」
「次期さまでございますから」
だからなんなんだという言葉は引っ込めた。理由として納得できずとも、とにかくクラエスには会えないのだ。
「……そうですか。わかりました。では、イレイェンが挨拶に来たことだけお伝え願えますか?」
「承知いたしました。お伝えいたします」
では、と頭を下げると女中頭は屋敷のなかに戻っていった。
会えなかった。
ぼんやりと思った。湧き水のような虚しさが底を濡らしていく。
静々と馬車に戻ると、ラタムに言って走らせてもらった。
クラエスが忙しいのはわかっていたつもりだった。約束もなく会えることのほうが珍しい。
けれど、どこかで輪のような結ばれた何かで会えるのではないかと望みがあった。
現実は厳しい。
手元にある栞を持て余して、イレイェンはそっと息をついた。
*
翌朝はやくから、スエラたち使用人は慌ただしく馬車に荷を積んだ。二輌の馬車には、車輌が下がって見えるほど荷が積められていて、馬たちが哀れだった。ごめんねと唱えながら首を撫でてやれば、鼻でくいくいと押してきた。
準備を終えると、一輛目に父とイレイェン、二輛目にソーニャとスエラが乗り込んだ。御者席にはジュラス、ラタムとヌラットがそれぞれ座り、社交季を過ごした夕陽色の街屋敷に別れを告げた。
いくらも走らせない頃合だろう。
通りすぎる王都の街並みを硝子窓から眺めていると、ふと名前を呼ばれた気がした。車内には反対の窓に腕を預ける父がいるだけである。
「呼んだ?」
「ん? いや?」
今度こそ鋭く透明な声が、木霊した。
「——イレイェン!」
その声の主が誰なのか分かった瞬間、御者席のジュラスに止めてと叫んでいた。
転げ落ちるように馬車から降りると、息を切らせたクラエスが、青鹿毛の馬から降りるところであった。
なんと言えばいいのか分からず、旅装の襟元を利き手でつかむ。
「クラエス」
「帰るのだと……聞いた」
肩で息をするその様子から、とても急いできてくれたのだという事実がわかって、胸の辺りがぎゅっと絞られる。
「会いに来てくれたとも」
「……ええ」
「間に合って、良かった」
目元を和らげるクラエスに、こみ上げるものがあった。
どうしようもない奔流を持て余しながら、イレイェンはただ一言返した。
「送りに来てくれてありがとう」
クラエスが肯いた。
「また紙を送る」
「待っているわ」
目顔で喜びを伝えると、イレイェンは軽く礼をした。
受け取ったクラエスは、再び青鹿毛の馬へと跨る。そうして、軽く手を上げてから元来た坂道を登っていった。
その姿が見えなくなるまで、イレイェンは石畳の上で見送った。




