5−3
その日の朝は、冷え込んだ。
イレイェンは、自分のくしゃみで目を覚ました。そうして、室内が冷えていることに気が付いた。
寒い。
寝具を首元まで引っ張って、体をぎゅっと縮める。昨夜までは涼しい程度の気温だったのに、王都は一晩でここまで冷えるのだろうか。秋暮れのような寒さだった。
「おはようございます、お嬢さま」
戸が開くやいなや、衣のかたまりを抱えたスエラが入室した。
「さきほど、炉に火を入れてきましたからね。半時ほどであたたまるはずです。そのあいだにこちらをお召しになっていてください」
「おはよう、スエラ。急に寒くなったわね」
身を起こすと、大判の羽織りものをかけられた。長年愛用しているものだった。母の使っていたものでもある。よく見れば、糸車と羊が文様として織られている。
スエラは寝具のなかからイレイェンの素足を取り出すと、てきばきと、もこもことした靴下を履かせた。
「本当に。どうやら北風が吹いたようですよ」
では、クラエスが言っていた〈冬の訪れの風〉が吹いたのだ。
ひと通り布を巻き付け終えると、スエラはイレイェンの掛具をかけ直した。
「ありがとう」
「半時したらまた参りますわね。朝餉には、ヌラットが湯汁を用意してくれるとのことです。久しぶりに炉で調理ができると張り切っておりましたわ」
スエラが姿を消すと、イレイェンは掛具のなかで丸くなる。寝衣を包む衣がぽかぽかと体をあたためる。羽織りに頬を寄せると、母のにおいがするように思う。ぬくもりを感じながら目を閉じる。エリエラやクラエスに言われたことが脳裡をかすめた。
タルーシャと、サロワへの誘い。
どちらも魅力的だった。もしかしたら、必要のない悩みなのかもしれなかったけれど、決断しがたかった。どちらも行くという選択はない。冬の旅は、準備だけでも相当かかるし、慣れていないものにとって命に関わる。
タルーシャか、サロワか、決める必要があった。
こうして悩んでいる時、いつも相談に乗ってくれるのは、ソーニャだった。もうひと月以上、妹とくだけた話をしていない。笑い合っていない。会えば、気まずさだけが互いのあいだを吹いていく。
そんな姉妹の様子を父もスエラたちも特に気に留めていないようであった。イレイェンとソーニャだけが、互いに互いを意識している。
話さねば。今までの家での扱いも。それに甘えてしまったことも。クラエスのことも。話さなければいけない。
いつの間にかうとうとしていたらしい。
スエラに揺すられて、はっとすると寝台から降りた。部屋のなかが半時前よりもあたたかい。
スエラに手伝ってもらうと、イレイェンは寝衣から室内着に着替えた。そのまま促されて、食堂へ向かう。入って、父キャンスの姿があって驚いた。
「お父さま?」
「おはよう、イレイェン。今日は寒いね」
驚きつつ、イレイェンはキャンスの斜め横に腰掛ける。卓上には、すでに焼きたてのガットとマーゼ、すりおろし林檎とマーラ、そして、根菜と干し肉の入った湯汁があたたかくたちこめていた。
食前の礼をしてから、湯汁を口にする。体のすみずみに沁みわたるほど、さっぱりとしておいしかった。干し肉の旨みがよくとけ込んでいる。
「今日は、お城に上がらないの?」
ひとしきりを味わってから、マーゼを乗せてガットをかじる。小麦の味が芳ばしい。
「陛下よりお達しがあった。〈冬の訪れの風〉が吹いたからね。〈王会〉は閉会となった。数日中に貴族たちは、所領に帰ることになるだろう」
「〈王会〉ってそんなに突然、閉会できるものなの?」
イレイェンの問いに、キャンスは笑った。
「イレイェンからすれば、そう見えるだろうね。
〈王会〉は、おおよそ開会から閉会の時期が決まっているのだ。春の終わりから秋のはじまりにかけてが基本になる」
「社交季に合わせてってことね?」
「そうだ。だから、貴族たちは理由がなければ、帝都に上がる。その短いあいだに〈王会〉が開かれるのだ」
イレイェンは、納得して相槌を打った。
〈王会〉は、帝王の諮問機関だが、爵位を持ったすべての貴族が参加を許されている。社交季のあいだ、父やクラエスが勤しんでいたのはこの〈王会〉だ。参加は、領主の義務でもある。父が十年ものあいだ参加せずにいたのは、異例中の異例だった。
それほどまで、母を愛していたということだろう。考えると、ちくりと左胸が痛みを覚えた。
娘のわたしは、父に愛されているのだろうか。
よぎった思いを振り払うと、マーラを口にしてから、言った。
「つまり、〈王会〉の閉会は、〈冬の訪れの風〉が合図ってことね」
「そういうことだ」
「それで、わたしたちはいつリリエーシュに帰る予定なの?」
訊き終えてすぐだった。食堂に開いた扉から、ソーニャが姿を見せた。すうっと現れたさまはあたかも物語のなかの幽霊のごとく。その姿に、どきっとする。イレイェンやキャンスとは反対側の食卓の端の椅子に腰かけた。
「ソーニャ……」
「ん? ああ、ソーニャ来たのか」
イレイェンがつぶやけば、父キャンスがその視線を追って、今気がついたかのように目を瞠る。
「おはようございます、姉さま、父さま」
「……おはよう、ソーニャ」
「おはよう。ちょうど良かった。お前にも、帰る頃合いを告げなければな」
心なしかソーニャの顔色が悪いように見えた。血の気がまるでなかった。
食べ終えたキャンスは、卓上で手を組んで前乗りになった。イレイェン、それからソーニャに視線を移して言った。
「——五日後に帰ろうと思う。それまでに、荷の準備をしておきなさい」
「五日後ね」
イレイェンがたしかめ、ソーニャは肯いた。
「それから、今回は、分かれずに帰ろう」
「え?」
声が食堂内に響いた。驚きを露わにするイレイェンに、あくまでキャンスは穏やかだった。
「帝都に来てわかっただろう? 双子の伝承を気にするものはおらんと」
「そうだけど……でも……」
不安なのだ。口にすると、キャンスはあやすように言う。
「お前をずっとさいなんできた不安だ。そう簡単に払拭できないのはわかっている」
「だったら、お父さま——」
「けれど、イレイェン。もう今のお前なら大丈夫なはずだ。ここに来た時のことを思い出してごらん。ちがうということが、自分でわかっているはずだ」
言われて、胸裏を氷柱の光がまたたいた。
何がちがうのか、どこかちがうのか、どうちがうのか。それらは判然としない。けれど、たしかに王都に上がる前の自分にないものが、胸の内の奥底にあった。伸びた氷柱が、水晶のように煌々としていた。
「……そうね」
ぽつりと、イレイェンは言った。
「いつまでも怖がっていちゃだめよね。別に双子だって言われたって、そんなの昔の話よって笑い飛ばせばいいのだわ」
本当に笑えているとは思えながったが、精いっぱいの笑みを浮かべて父に告げた。
「そうだな。お前がそう笑ったら、私も同じように笑い飛ばそう」
「お父さまが笑い飛ばすなんて、なんだか合ってないわ」
「そうかね?」
「そうよ」
こらえきれず、イレイェンは今度こそ破顔して笑った。キャンスもまた、楽しげに笑っていた。
ふとイレイェンがソーニャを見やると、そこには夕陽の瞳に哀しみの色を浮かべている姿があった。今にも黄昏へと変容しそうな双眸をそっと伏せると、妹は音を立てることなく食堂からたち消えた。
イレイェンのなかで、寂寞とした思いと決意が揺れていた。




