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時計塔の鐘が十二ノ時を告げる。窓硝子から月光が入り込み、隙間から夏の風が流れ込む。
硝子越しの夜空に、白片がちらちらと光るのを目にすると、イレイェンは窓硝子をそっと開けた。まもなくして、白鳩の形をした折り紙が、イレイェンの指先に止まる。美しい鳴き声を囀ると、ひとりでに形を崩して、一枚の紙片となって手の中に収まった。
イレイェン嬢へ、と綴られた手紙は、開け放たれるのを待っていたかのように、藍色の文字が浮かび上がって踊る。文字たちは愉快な円舞を披露すると、淡い光をまといながら並び競って、宙にクラエスの言葉を記した。
彼は〈紙〉と称する。用紙と墨に魔術がかけられている。墨は、モミの煤、雪スズメと羊の膠に、ラピスラズリの顔料を混ぜて作られているのだという。墨を生成する過程で呪文を囁くことで、文字として記された時に効力を持つ。用紙との相性があるとのことだが、紙もまた製紙の過程で呪文を施し、折った時に術が働くようになっているのだという。
用紙も墨も自分で作ったのか尋ねたところ、クラエスはそれくらいしかできないと答えた。魔術を一切使うことができないイレイェンからすれば、手放しで褒めるところであるが、クラエスからしてみれば、初歩であるとのことだった。
今でこそ魔術は廃れているが、依然として王族は、高位の魔術を使うという。高位の魔術というのがどの程度のものか想像がつかないが、三色変化の髪色を持つという噂から、何か得体の知れないものだけは感じ取ることができる。
王都を共に過ごした日の翌日、クラエスは約束を違えず、こうして〈紙〉を送って来てくれた。手紙と違って、人の手を介さない分、時間がかからずに直接やり取りをすることができるのは便利だった。
そして、なんとなく〈紙〉での文通が続いている。決まってクラエスから〈紙〉が届くのは、深更に近い頃合いだった。日中は、サロワ伯としての勤めがあるのだろう。あれから三度、昼食会や夜会で会ったが、ほとんどまともに会話することなく、終わっていた。だから、たとえなんとなくであっても、〈紙〉でやり取りできることに、イレイェンは小さな喜びとささやかな楽しみを感じていた。
今夜は何だろうと宙に浮かぶ言葉に目を走らせる。
そこには、明日の昼の予定を尋ねる旨が、綴られていた。
ぽかんとして、イレイェンはもう一度初めから読む。そこにはやはり明日の予定について尋ねられている。以前クラエスと話したことを思い浮かべる。そしてこれが、定型的に言えば、誘いであると合点がいって、さっと顔を赤らめた。
けれど、これは真実、誘いなのだろうか。
以前馬車の中で話したのは、ふつうの令嬢と定型文の話だ。クラエスの言動から考えれば、彼はふつうであることを好んでいない。ということは、ふつうに返すことを彼は望んではいないのではないだろうか。
もしここで、イレイェンがふつうの返答をしたら、彼は自分に幻滅するのではないだろうか。
なんと返せば良いのだろう。
あてどなく、空に浮遊する文字にふれると、文字のほうが身震いする。指先から腕まで歩いてくるので、イレイェンはくすぐったくて思わず小さく笑い声をあげた。
文字たちとそうして逡巡を過ごしていると、自ずと心が定まった。
返事は簡素にした。浮き上がった文字たちに言葉を囁く。彼らはかしこまったと言わんばかりにお辞儀をすると、一人一人形を崩して、イレイェンの言葉を成していく。そうして、できあがった言葉は紙に記されて、かさかさと音を立てながら白鳩に戻った。
窓から、紙鳩を放つ。そうすると、もと来た空へと羽ばたいていった。
届きますように。
どうか。届きますように。
白鳩が夜の闇にとけ込むのを見送って、イレイェンは就寝した。
翌朝、目を覚ますと、窓際に〈紙〉が止まっていた。
もしかして、届かなかったのだろうかと、どきりとする。イレイェンがふれると、文字たちは、「七の時にランスリー服飾店にて。」という言葉を表した。意味するところを知ると、寝衣のまま自室を飛び出し、階段を駆け下りた。
「スエラ!」
掃除に勤しんでいたスエラは、イレイェンの大きな声にびっくりして、手を止めた。
「お、おはようございます。……どうしたのです?」
「掃除中にごめんなさい。今日の、七の時なんだけど、時間がある?」
「ございますが……?」
「ランスリー服飾店に行きたいの」
まあ、と驚きをあらわにして、しかしスエラは何も問わなかった。
「わかりましたわ。その刻であれば、ジュラスさまがお戻りになっていますので、馬車を出せると思います。でなければ、わたくしとお嬢さまで歩いて行くところでした」
ラダムが領地に帰っていることを言っているのだろう。スエラが苦笑する。
イレイェンは同じように笑ってから、問うた。
「そしたら、お願いできる?」
「はい。承りましたわ、お嬢さま」
それからの時間は、あっという間にすぎた。一度湯浴みをし、衣裙に着替えて、髪を結わえてもらう。
途中、ソーニャを見た。妹は、目顔に含みをもたせてこちらを一瞥すると、自室へと消えていった。そのわずかなあいだ、イレイェンは緊張が走るのを感じた。ソーニャが目の前から姿を消した時に、ほっと息をついた自分に嫌悪が募る。
話し合わなければ、いけない。妹と。
七ノ時を告げる鐘が鳴り、イレイェンは急いで頭を切り替えた。戻って来ていたジュラスにお願いをし、スエラと共に馬車に乗車すると、東南区へと走らせてもらった。
ランスリー服飾店は、東南区の中ごろに店を構えていた。王都ではなじみとなっている釣り看板には、真珠の首飾りとリボンや襟留め、針が象られている。馬車から降りてジュラスに礼を告げる。
「また一時(約二時間)あとに、迎えに来てくれるとありがたいわ」
肯くとジュラスは馬車を走らせて行った。




