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屋敷に戻ると、噂の父キャンスが、近頃では珍しく応接間でゆったりとくつろいでいた。
「あら、お父さま。どうかしたの?」
「少し時間ができたからね。ちょっと休んでいたところだ」
「そう」
相槌を打ってから、イレイェンはちらりと階上へと視線を向けて、つとめてさりげなく尋ねた。
「——ソーニャは?」
「さあ。見ていないね。二階で本でも読んでいるんじゃないかな?」
「そう……」
あの日から、イレイェンとソーニャの間には、気まずさだけが横たわっている。父をはじめ、スエラたちも気付いていないが、二人の間にはれっきとした溝ができていた。深掘ってはいけないと思い、いつも通りに接しようとするイレイェンに、ソーニャが無言で非難の目を向けてくる。それが、胸のあいだにひびを入れる。鈍色の光が、中心を貫いてくるのだ。
二階にいるソーニャのことを考えると、暗澹とした思いが去来するのだった。
気持ちを振り払うようにかぶりを振ると、イレイェンはキャンスに向き直った。
「お父さまは、最近お忙しいのね」
「……そうだね。やることはたくさんある」
肘掛け椅子にもたれていたキャンスは、居住まいを正すとイレイェンを振り仰いだ。
「お前は、最近よく外に出ているね」
「ええ。エリエラさまやダランさまとお会いすることが多いわ。この間は、エリエラさまたちの屋敷で開かれたお茶会に参加したのだけど、二人のお友達を紹介していただいたの。とても、楽しかったわ」
「そうか。それは良かった。マルヌーシュのご子息ともお会いしているね?」
「ええ……」
途端にどくどくと鼓動が早くなるのがわかった。自分の気持ちを自覚してからは、クラエスの名前を聞くと心ノ臓が強く鐘を打つ。
この想いは、誰にも言っていない。自分で抱えていなければならない想いだ。けれど、父キャンスはその心を見透かしているかのように、イレイェンから視線を外さなかった。
「クラエス殿は、どうだい?」
「どう、って?」
「いい青年であろう?」
「……そうね」
じいっと父と見つめ合う時間が、とても長く感じられた。ふっと目元を和らげると、卓上の茶を手に取りながら、キャンスは言った。
「私は、お前が親しい者たちを持つようになって、嬉しく思っているよ」
「それは……」
「可能性を潰したくないと言った言葉を覚えているかい? リリエーシュにいるだけでは、見えないことがあると言ったことを」
「覚えているわ」
「今、それについてどう思う?」
リリエーシュにいた頃の自分と、今の自分。まだ、ふた月経つか経たないかの頃合だが、何かが変わっただろうか。
変わっているとイレイェンは思う。
あの頃のイレイェンは、整えられた庭しか知らなかった。庭の外に広大な土地があること、土地によって咲く花々が違うことを知らなかった。今は違う。イレイェンは、それらを知っている。塀の外に広がる大地を知っている。
もう双子の伝承に囚われている前の自分とは違うのだ。
「お父さまのおっしゃった通りだったと思うわ。わたしは何も知らない幼子だった。今は、ここに来て本当に良かったって思っている。あの時、お父さまに言われて一歩を踏み出してみて、良かった」
「お前がそう思っているようなら何よりだ」
父は満足げに肯いた。その様子に、イレイェンはさきほどエリエラたちと話したことを思いついて、児戯のような笑みを浮かべた。
「お父さまは、お母さまと大恋愛だったんですってね」
イレイェンが尋ねると、キャンスはぎょっとして目を丸くした。
「ミリェルのことを聞いたのか……?」
「うん、そうよ。エリエラさまたちに教えてもらったの」
言うと、父は黙って考え込んでしまった。さきほどまでの柔らかい空気から一転、かたい空気が辺りを満たす。
もしかして、まずいことを口にしたのかもしれない。父から母の話はほとんど聞かされたことがなかった。けれど、周囲の人間が言っていたではないか。父は、十年前から変わってしまったと。それは、母が死んでからということだ。娘の前では話さなかっただけで、父は真実母を愛していて、言葉にするのもつらく感じることだったのかもしれない。ならば、今イレイェンが言ったことは、父の傷を抉ることだ。
「ごめんなさい、お父さま。わたし、無神経なことを言ったかも」
怪訝そうにキャンスが眉根をしかめる。
「お父さまは、お母さまのことはあまりお話になりたくないものね……」
傷付いて、領地にこもりたくなるほどに。
「お前は……」
ひねり出したような声に、今度はイレイェンのほうが訝しむ番だった。父を見ると、困惑したように言った。
「どう思っているのだ、イレイェン」
「どう、って?」
さきほどと同じやり取りに、イレイェンは奇妙な塊を呑み込んだような心地を覚える。
「ミリェルの死について、今はどう……思っているのだ?」
「どうって、そりゃあ……」
悲しいと思っているわよと返そうとして、鼻の奥がつんとした。不意に眦に涙が浮かんで、ぽろぽろと頬を伝った。強い感情に突き動かされたわけではないのに、まるで自然とそれが当たり前であるかのように、水で視界がいっぱいになった。
混乱したイレイェンはうろたえる。なんだろう。これは。何が起きているのだろう。
ふと懐かしい匂いに包まれて、イレイェンは胸がぎゅうっと縮むのがわかった。久しぶりに感じた父のぬくもりに、あとから心がついてきたかのように、悲しみと苦しみと痛みが、全身に伝播していく。
「すまぬ、イレイェン」
すまぬと繰り返される父の言葉に、イレイェンは泣きつく。
自分の体と心と思考がばらばらと分かれてしまったかのように、ただ感情に支配される体と心を、どこか遠くで思考が眺めていた。自分で自分がわからぬまま、涙が涸れるまで親と子の時間が続いた。




