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蒼穹に雲がたなびき、左右の山々は頂きに白く雪をのせ、尾根から下は深緑をだんだんに薄く、若緑へと姿を変え、丘陵を夏の色に染め上げる。雪スズメが空を舞い、ハチが宙に軌跡を描き、リスが野を駆ける。馬の蹄が野原に跡を残せば、草とあたたかな土のにおいが、立ち上がった。
夏風が草花を凪いでいく音が、馬上のイレイェンを心地よくさせる。小川の瀬音は、瞼の奥底に眠った郷愁を呼び起こす。掴もうとすると沈み、離れると浮かび上がり、ただ安らぎをもたらす。
「——お待ちになって!」
追ってくるエリエラの声に、イレイェンが振り返る。
「いやはや、お早い」
ダランの声もあとに続いて、馬の手綱を引いた。気持ちよさに任せていたら、いつの間にか置いてきてしまったらしい。フォンヌ家の兄妹は、驚いた様子で追いついてきた。
「ごめんなさい。もう少しゆっくり進みますわ」
「馬術がお上手なのですね。体のほうは大丈夫なんですの?」
「ええ。春頃からはとても調子がいいので」
出会った時に、体が丈夫ではないと説明したことを言っているのだろう。心配げに小首をかしげるエリエラに、イレイェンはきまりが悪かった。
「馬術の心得がおありに?」
「子どもの頃に。母に習ったんです」
不思議なものだ。もう随分と昔のことなのに、体が覚えている。あの頃は、小馬に乗っていた。母に教わりながら、馬との疎通法を体に馴染ませたことが懐かしい。
「イレイェンさまのお母上さまとなると、ミリェルさまのことですね」
「母をご存知なのですか?」
イレイェンの問いに、ダランは首を振った。
「父と母が言っていました。才気煥発な方だったと。人を惹き付けることに優れた魅力的な方だったと聞いております。リリエーシュ伯と婚約された時は、社交界で話題になったそうですよ」
「そうなのですね」
曖昧に肯いて、イレイェンは母に思いを巡らす。
十年前に死んだ母の記憶は、朧げだ。お伽噺を語ってもらったこと、馬の乗り方を教えてもらったこと、一緒に散歩をしたこと。
それから、何があっただろう。
大好きであったことは覚えている。けれど、顔は思い出そうとすると、霞がかってしまう。そういえば、あの頃はもう一人、使用人がいたのだった。名前は、なんと言っただろうか。
「——大恋愛だったんですってね」
エリエラの言葉が耳の中に飛び込んできて、イレイェンは「え?」と聞き返した。
「リリエーシュ伯とミリェルさまのことですわ! リリエーシュ伯は、伯爵位を継いだばかりだったそうですけど、当時から実務家として抜きん出ていて、ちょっとばかり真面目すぎるきらいがあったそうなの」
父キャンスの顔を思い出して、イレイェンはさもありなんと心のなかで何度も首を縦に振る。いかにも父は、融通の利かなそうな面白くない青年だっただろう。
「容姿はそれなりに素敵だったのに、性格は令嬢受けが良くなくて。けれど、そこに屈託なく声をかけたのがミリェルさまなのです。兄が言っていたように、悧発なミリェルさまは、リリエーシュ伯の難しい話にも付いていらっしゃって、それでいて社交上手。リリエーシュ伯は、あっという間に陥落したそうです」
「ミリェルさまに結婚の承諾をもらうのに、ルソーラ領まで三度も赴いたと聞きますよ」
兄妹は、楽しそうに言った。
ルソーラと言えば、リュメールでも最南部だ。リリエーシュからルソーラまでは、馬で駆けても二週間の距離だ。
母は、ルソーラ出身であったのか。イレイェンは、少なからず驚く。今の今まで知らずに過ごしていた自分に、強い違和感を覚えた。母の出身ということは、自分にとっては祖父母が暮らす場所ではないだろうか。なぜ、それを知らずにいたのだろう。
イレイェンは、しかし父の顔を思い出して、納得がいった。
おそらく、大事な娘であるミリェルをルソーラ男爵から奪ったことで、祖父母と上手くいかなかったに違いない。父は、口下手だから、きっと仲を悪くしてしまったのだろう。それで、今の今まで自分やソーニャに告げていなかったのだ。
やれやれ世話のかかる父親である、とイレイェンは内心で溜息をついて、エリエラとダランに注意を戻した。
「面白い話をありがとうございます」
「ぜひ、リリエーシュ伯に直接聞いてみてください」
「その結果をわたくしたちにも教えてくださいな」
悪戯をする前の子どものような笑みを浮かべて、ダランとエリエラは、イレイェンに言った。
「ええ、もちろん」
イレイェンは、にっこりと笑い返した。




