第八話:おひさしぶりぃ。
「今のルッツ、トウを突く場所が外にズレてたぞ」
「うん、自分でも分かった」
「タイミングをもう少し早くしろ。また足の振り上げ方が大きくなってる」
「うん」
青森県八戸市新井田。この新井田公園内にあるアイススケートリンクが、今回の東北・北海道ブロック大会の舞台である。このブロック大会とは、言わば全日本選手権の予選――の予選である。フィギュアスケートは他の人気スポーツ、例えば野球やサッカーと比べて競技人口が少ない。が、それでも日本全国合わせて数千人がスケート靴を履いて、日日練習に励んでいる。
そのため、まずは日本全国を五つの地域に分け最初の予選を行い、その後、上位選手が東日本と西日本に別れて再び予選を行い、全日本選手権の出場者を決めるわけだ。そして、リョウヘイは北海道の選手だから、東北・北海道ブロックの大会に出る。
日本の大部分の選手たちは、地方の小さな大会などに出場した後、このブロック大会から、正念場を迎えることになる。
リョウヘイは毎年この大会ではどうにか残れるのだが、大抵次の東日本選手権が鬼門となっている。
今は当日の公式練習の真っ最中である。まだ滑走順抽選は行なわれていないので、公式練習では所属クラブの順番で音楽がかかる。曲かけは既に終わっているため、今リョウヘイは他の練習する選手の合間を縫って、ジャンプのフォームの再確認を行なっていた。
「あっ」
「ううむ…」
そこで問題が起こっているのだ。緊張からなのかどうなのか、どうにもルッツジャンプが上手く決まらなくなってしまったのだ。
これは非常に大きな問題である。何故なら、ルッツジャンプは六種類あるジャンプの中でも特に基礎点の高いジャンプだからだ。トリプルの点数は六・〇〇。アクセルジャンプを除くと最も高い。そして、リョウヘイはフリップとループという、他の比較的基礎点の高いジャンプは苦手としているので、ルッツが入らないと、エレメンツの得点に大きな不安が生じる。
フリープログラムのジャンプの中で、同じ種類のジャンプは二度までしか跳べず、しかも二度跳べるのは二種類までしか許されていない。リョウヘイは二種類のうち片方は、最も得点の低いトウループを跳ぶ。もう片方に今季からルッツを入れる予定だったのだが、この分だと、一回でもおぼつかない状態だ。
焦っているのかな、とリョウヘイは内心で零している。
「緊張してんのか」
「分かんない」
サガへの返答にも覇気が無い。もうすぐ公式練習が終わる時間だ。
「とりあえず、一回サルコウ跳んで来い。悪くないようだったら、サルコウ二回にするぞ」
ルッツとサルコウでは助走の軌道が違うので、そう簡単に入れ替えられないが、こういう時のためにそっちでも練習はしているのだった。
スリーターンを二度いれてスピードとタイミングを合わせ、右足フォアインの助走から、モホークターンで向きと足を代える。左足のバックインサイド。さらに一瞬の間合いを計り、カーブを鋭くするようにエッジに体重をかけ、生じた勢いのまま右足を振り上げて、
跳び上がる。トリプルサルコウ。右足に感じた衝撃はすぐさま膝、股関節へ伝わり、両腕を伸ばしたチェックの姿勢で力を後ろに逃すと綺麗に流れた。
悪くない。
「サルコウは悪くねえ。今回はそれで行くしかねえかもな」
「…うん」
リンクサイドから声をかけられて、リョウヘイは不承不承にうなづいた。時にはこうした戦略的な変更も必要なのである。
特に近年東北や北海道でも随分競技人口が増えたので、予選を突破するのは難しくなる一方なのだ。クリーンに滑ることを優先させなければならないことも、ある。
もう一度、ルッツとサルコウを試し、ルッツでステップアウト、クリーンなサルコウで、やはり、サルコウで行くことにした。
はあ、とため息をつくも、本当に大事な試合はここではないと、どうにか自分を納得させる。
それでも、実は問題はこれだけではない。
フリースケーティングの前に、まずショートプログラムがあるのだ。
ショートプログラムに組み込むジャンプは三つ。ダブル、またはトリプルのアクセルジャンプ、コネクティングステップからのトリプルジャンプ、トリプルとダブル以上のものを組み合わせたコンビネーションジャンプ。
リョウヘイはトリプルルッツ-ダブルトウループのコンビネーション、ダブルアクセル、ステップからのトリプルサルコウという構成だ。
後の二つは良い。問題はコンビネーションのルッツだ。不安定になってしまったルッツ。決められた要素をこなさなければならないショートプログラムではミスは許されない。規定の要素を満たせないと、それだけで出来栄え点でマイナスになる。例えばルッツが単発になり、その後のサルコウにもコンビネーションが付けられないとなると、たとえジャンプ自体が決まっていても、それは既定を満たせていないわけであり、失敗として減点されてしまうのだ。
しかし、ルッツは要素の数が少ないショートでは大きな得点源である。ここでルッツをトウループに変えてしまうと、やはり、基礎点が心もとない。その差は二点に満たないが、勝負ではそれが物を言うことも多々ある。また、やはり難しいジャンプ構成の方が、ジャッジにも好印象を与えるため、演技構成点の方でも評価してもらえるかもしれない。
出来れば構成を落とすことはしたくなかった。ショートプログラムに関してはサガにも直前の六分間練習まで見極めると言われた。
でも、この分だと、やはり難しいかもしれない。そこでちょっとリョウヘイは考えたのだった。
そういう流れで、二十五分間の公式練習が終わる。この後も開会式と滑走順抽選までは、別のカテゴリの公式練習が続くので、さっさとトイレに行こうとリンクを出たところで、
「あら、リョウちゃん」
どこぞの派出所の警官みたいだな、と内心げんなりしつつ、呼び止めた声に振り向くと、
「おひさしぶりぃ」
何やら頑張ってふくよかな体でシナを作っている(?)、かなり化粧の濃い中年の女性がいた。
「…お久しぶりです、ミカさん」
漂う香水の臭い、いや匂いからくるめまいを堪えて言うと、
「うふふ、覚えていてくれてうれしいわぁ」
この強烈なキャラクターを忘れられるなら忘れたい。
「毎年声かけて下さる方を忘れたりしませんって」
「それでもうれしいわぁ。一ファンとしてはねぇ」
この女性、笹嶋美香さん――正直どこにも美が香ってるとは思えないが――は、熱烈なスケートオタク、いわゆるスケオタであり、しかも、なぜかリョウヘイのファンを公言している。
多分年齢は、五十歳を超えていると思われる。もちろん、女性に年齢を聞くなどと言う暴挙を犯したわけではないが、少なくともリョウヘイが高校生の頃には、それなりの年齢のように見えていたわけで、となると、あれから五年ほどたった今も、中々の年齢であるだろうという、それは予想である。
「今回は時間取れたから、ブロック大会から見に来ちゃったのよぅ」
「…それはどうも」
そこで、ミカの肩越しに、リンクの入り口あたりにサガが立っているのが見えたので視線を送ったが、サガはミカに視線を移すや否や、厳つい顔をすーっと青くして足をもつれさせて転がるように立ち去った。
「…」
「調子はどんな感じかしらぁ? 公式練習は見られなかったけれど、サガ先生の新しいプログラムも楽しみなのよねぇ」
サガは全く彼女との逢瀬を楽しみにしていないのが残念である。というか怯えるにも程がある。過去に何をされたのだろう。今度ハマナにでも聞いてみよう。そんなリョウヘイの内心は露知らず、ミカはキャピキャピと楽しそうである。
「今年こそ全日本に行けると良いわねぇ。東日本は行けないのが残念だわぁ」
日程を勘違いして、ハワイ旅行の予定を入れてしまったらしい。うらやましい。リョウヘイが行ったことがあるのは、ノービスの頃に試合で行ったフィンランドであるが、日程がカツカツで観光どころではなかった。
「去年作ったバナーも使わなかったし、今年は絶対使いたいわぁ」
ほら、去年はフリーで三回も転んじゃって全日本行けなかったしねぇ、とナチュラルにリョウヘイの心を抉ると、ミカは朗らかな笑顔で、「じゃあ、今夜頑張ってねぇ」と立ち去った。リョウヘイは並々ならぬ疲れを隠した笑顔でそれを見送り、ぷはっと息をついた。
「…疲れた」
そりゃあもう、練習よりずっと。確かに応援はありがたい。しかし、なぜか彼女を相手にするとドッと疲れが出てしまうのだ。しかもあれで悪気が全く無いというのが、色々と残念すぎた。だがしかし、ショートプログラムの本番は今夜であるわけで、そんなことも言っていられない。
それに、応援と言うのは、確かに選手の後押しにもなるのだ。ミカの応援は、その強烈な個性は別として、リョウヘイの背を押してきてくれたことには間違いない。それは良く分かっている。もしかすると、それが勝敗を左右することもある。それが、スポーツと言うものなのである。
自分の応援バナーとやらがどんなデザインなのかも気になるが、あの口ぶりだと全日本まで封印ということらしい。何だかんだ言いつつ、地味に期待してしまっているリョウヘイだった。
そういうわけで、ショートプログラムである。
よ、よんかげちゅぶり…(土下座)。




