第五話:むしろ無機物。
如月明乃、二十歳。北城大学アイススケート部所属。
五歳の頃、札幌ホワイトランドフィギュアスケートクラブで、浜名瑛子コーチのもと、スケートを始める。
八歳でトリプルジャンプを初めて跳ぶ。十二歳になると、二種類のトリプル-トリプルのコンビネーションジャンプを成功させて全日本ノービス選手権Aクラスで優勝。同年、特例で出場した全日本ジュニア選手権で二位。
翌シーズンにはISUジュニアグランプリシリーズのルーマニア大会で優勝、イギリス大会でも表彰台に乗り、ジュニアグランプリファイナルに進出、三位となる。全日本ジュニア選手権で優勝。全日本選手権にも出場し、七位入賞を果たし、新人賞を受賞。初出場した世界ジュニア選手権では会心の演技で優勝。
さらに次のシーズン、シニアクラスのグランプリシリーズに参戦、初戦のスケートカナダはケガで欠場するも、二試合目のNHK杯で三位となる。全日本ジュニア選手権、世界ジュニア選手権を共に連覇。
この辺りでリョウヘイは段々と心が痛くなってきている。
翌シーズン、初めてシニアのグランプリファイナルに参戦。ショートプログラムで出遅れるも、フリー二位、総合四位となる。全日本選手権では連戦の疲れからか四位となり、オリンピック出場権を逃すも、世界選手権の代表に選出。世界選手権は銅メダルを獲得。
次のシーズンも前年と同様の活躍をし、世界選手権で銀メダル。昨シーズンはついに、グランプリファイナルおよび、世界チャンピオンの座に就いた。
そして、今シーズン。再び訪れた五輪シーズン。もちろん、アキノに期待されるのは、表彰台の頂点、金メダルである。実際、彼女にはその力がある。本人も当然、目指しているはずなのだ。
と、ここまでの話の中で、何が言いたかったのかと言うと。
アキノは、今、日本でも有名な、特に有名な、女性アスリートなのである。それこそ、リョウヘイとは天と地、月とスッポンほどにも差があるキャリアを持つ、日本フィギュアスケート界の星である。
それなのに。
「ど、どうしてこうなった…」
日曜日の午前。リョウヘイは、JR札幌駅に隣接する、JRタワーにいた。
「あんたどこ見てんの?」
「…ああ、思わず現実逃避してたよ…」
「やっぱりバカなんだな、お前」
「バカなのよ、こいつ」
「うるさい…」
という言葉のやり取りから分かるように、今この場には、リョウヘイともう二人の人物がいる。
さてなぜ今、この場にリョウヘイがいるのかと言うと、それには深いようで全く深くない事情がある。 昨夜遅く。
『明日十時にJRタワーのいつものとこね。来なかったら○×△☆(自主規制)だから』
という色気もへったくれも無いメールがアキノから送られてきたためである。そんなわけでため息をつきつつ待ち合わせの場所に向かうと。そこには、アキノのほかに、もう一人、厄介なことこの上ない人物が待っていたのだった。
松下翔太。リョウヘイが嫌いな男ランキングベストワンの常連だ。
「まったく、せっかく久々の北海道だというのに、変なものが視界に入るんだけど。ちょうどそこにゴミ箱があるから捨てていいかな?」
「捨てるな」
「な、口答えした、だって? まさか人語を操るとは…」
「お前の中の僕は一体のどんな生物なんだ…」
「むしろ無機物」
「…」
「相変わらず仲良いのね」
「「良くない」」
「シンクロナイズドつっこみレベル4! アイスダンサーも目指せそうね」
リョウヘイとしては、こんな男とパートナーを組むなど願い下げである。むしろ男同士のカップルなんてまともな人間には目と精神の毒でしかない。
僕の周りには口が悪い人間が多すぎる…と嘆息すれば、
「「気のせいだ(よ)」」
コレこそアイスダンスばりのシンクロである。
「…で、なんでここにいるのさ」
「北城のリンクにトレーニングと振付。アカシ先生にね」
アカシ先生とは北城大学で活動しているベテラン、明石浩正のことだ。
ひょろりとして眼鏡をかけた、年齢の割りにとても爽やかな御仁だ。ごろつきのようなリョウヘイの父とは犬猿の仲、というよりサガが一方的に嫌っている。やはり小学生である。
そして、今目の前に立って、ふん、と鼻を鳴らしているこの男。
松下翔太、北陸の円霞大学四年生。
リョウヘイが嫌いな男だ。サガとアカシとの違いは、互いに嫌いあっているというところか。
そう、この男こそ、昨年の東日本選手権でリョウヘイにあれこれとのたまってくれた、忌々しい男なのだ。
「そもそも何で僕がいなきゃいけないのさ」
「そりゃあ、男共は私の荷物持ちに決まってるじゃないの」
「だそうだ」
「…」
いや、まあ、分かってたことだが。どうせ――
「久々に帰ってきたんだから時間あるうちにショッピングとか色々楽しんでおかないと!」
あまりに予想通り過ぎる理由に頭痛がする。
「俺は別に構わないよ。久々に来たし、少しは出かけようと思ってたから。ハエが一匹付いてきてるのが微妙だけど」
「素晴らしい例えだわ」
「ハエ…」
むしろこの男こそ頭にハエがたかっているのではなかろうかと、密かにリョウヘイは疑っている。
それはさておき、今彼らがいるJRタワー。JR札幌駅に隣接しているこのビルディングは、様々な店舗がひしめく大型商業施設だ。ただ様々な、とは言っても、二百万都市に迫ろうというこの札幌では、とりたてて珍しいというほどでもない。
だが駅に隣接しているだけあって、交通の便がよく、行きやすい。それにアキノのように中々時間の取れない人間にとっては、一つの建物で大概のものが揃うJRタワーのような場所は、とても都合が良い。
というわけでアキノからの呼び出しのほぼ二回に一回はこのJRタワーの正面玄関前になるのだ。
まあ、それは別にいい。だが。
「…おい、あれ…」
ざわ…。
「…ねえ、あの娘もしかして…」
ざわ…ざわ…。
「…ああ、フィギュアスケートの…」
ざわ…ざわ…ざわ…。
分かっていた。
こうなることくらい分かっていた。毎度のことである。
「それにしても、やっぱり凄いな」
ショータが言う。
「は? 何が? とにかく買い物行くわよ、荷物持ちたち」
「…これに気付かないのも凄いな」
「…確かに」
これは同意せざるを得ない。
ここで、前述のアキノの来歴を思い出していただきたい。昨今のフィギュアスケートブームは、誰もが知るところだが、そんな中、まさに彗星のように登場し、世界のトップスケーターに躍り出たアキノ。その人気はとどまるところを知らず、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでキャリアを積み上げ続ける少女は、もはや知らぬものはいないと言われつつある。
そんな、世界のAkino KISARAGI。その知名度は、当然街中を歩いていても、どこに行くときでも、人々の視線を集めずにはおかない。しかし、何と驚くべきことにアキノは、これだけ衆目の視線を集めながらも、それに気付いたためしが全く無いのだ。
その分、リョウヘイの胃袋のほうは毎度毎度キリキリとダメージが蓄積され続けている。
穴が開かないといいなあ、と本気で心配するリョウヘイである。
「だから何がよ?」
というか、本人だけ気付いていないというこの状況は、いささか不公平ではなかろうか。いや、明乃が悪いわけじゃないのは分かっているのだ。
しかし鈍感力全開で鼻歌なんか歌いながら歩き出すアキノに、リョウヘイが何とも言えない残念な気持ちになるのは、まったくもって仕方の無いことだと思う。
リョウヘイはもう癖になってしまったため息をつき、スキップで天まで昇っていきそうなアキノの後を追うことにした。
今日からグランプリファイナル!




