第四話:変態?
ところで、フィギュアスケート選手がシーズンを闘う上で重要な位置を占めるのは、プログラムである。
フィギュアスケート競技会は、概ね二つの部分に分かれる。つまり、二分五十秒の間に既定の要素をこなすショートプログラムと、男子シングルであれば四分半の間に決められた範囲の中で要素を自由に構成して演技するフリースケーティングだ。
フィギュアスケートは技術以外にも、音楽をどれほど表現できているかが採点されるわけであり、つまりプログラムに使用される曲選び、そして、振り付けが重要になる。その出来如何により、五項目構成点とも言われる演技構成点の中の、例えば技と技のつなぎとか、振り付け、音楽の解釈・表現に大きな影響があるのだ。
だから、毎年選手たちは、プログラム作りにかなりの労力を費やす。増して、今シーズンはリョウヘイにとっては、特別なシーズンだ。
大学を卒業したら、選手を続けることは出来ないだろう。
だから、より思い入れの強いこのシーズン、納得の行くプログラムを作りたいというのは、当然のことなのだ、が。
「で、どうする」
「どうしよう」
尋ねるサガに、答えるリョウヘイ。煮え切らないのは、コーチ兼振付師(兼義父)が提示したフリーの候補曲が、どれもピンと来ないからである。
「どれもいい曲だろうが」
いや、それは否定はしないが。
「でもさあ、何かこう…」
「何だよ?」
言ってしまえば、ありきたり、である。いや、ありきたりが悪いわけではない。王道とは、つまり外れがないから王道なのだ。
ちなみに今回の候補曲は「リバーダンス」からのセレクション、ピアソラの「リベルタンゴ」、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の三つ。
どれも素晴らしい曲だ。誰もが耳にした事のある、馴染み深い曲とも言える。しかし。
「とりあえずもう少し考える」
「そうか…」
なぜかサガはどことなく残念そうだ。さすがに考えるのが面倒だからとかではないはずだが。
「あ、そういえば」
とここで、リョウヘイは、昨日からの流れですっかり忘れていたことを思い出した。
「昨日リンクにハマナ先生が来てたんだよ」
カチン。と固まるサガ。
「よろしくってさ」
…。
「聞いてる?」
「お、おう、分かった」
全く、このおっさんは。
「とにかく、フリーの曲はまた明日相談するから」
「…そうだな」
「じゃあ、練習してくるから」
「ああ。俺がいないからって手を抜くなよ。分かってんだろうな?」
サガはこの後別のリンクでジュニア選手の振付の依頼がある。リョウヘイ一人で練習だった。
「りょーかい」
そう返すと、サガは何やら心もとない足取りで部屋を後にした。
今日の夕食の当番もサガなのだが、恐らくこの調子だと今日もカップ麺と冷凍ご飯で決まりだ。焼きそば弁当はまだ残っていただろうか。本当に年の割りにどうしようもないおっさんである。
いや、そんなことはどうでも良い。問題はプログラムだ。
さっさと準備を済ませリンクに向かったリョウヘイだが、頭の中はそのことである。何となくリンクサイドから銀盤を眺めると、丁度別の女子選手――中等部のジュニア選手――が曲かけ練習を始めるところだった。
この曲は…確かミュージカルの「オペラ座の怪人」だ。言わずと知れた物語だが、もちろん、フィギュアスケートでも定番曲の一つである。ピンと来ない人でも壮大な主旋律と複雑なアルペジオとが絡まるパイプオルガンのイントロ部分を聞けば、あっと思うことだろう。
だが、このアレンジはその有名な冒頭部を使わず、主に「マスカレード」と「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」を使っているようだ。多分、二人の男の間で揺れるクリスティーヌを演じるのだろう。
こうしてぼんやり見ていると、中々良いプログラムだった。プログラムの最初に難しいジャンプを置き、軽やかな舞踏会のメロディーとともにステップを踏み、最後の盛り上がるシーンでジャンプ、続けてスピンで締めくくるという、それこそ基本を踏襲したプログラムだったが、良かった。
確か、今シーズンからジュニアグランプリシリーズに参戦するのだったか。ならば、王道で精一杯の勝負に出るのも悪くは無いのだろう。
やっぱり王道がいいんだろうか、とリョウヘイが首を捻っていると、
「変態?」
「ちがうわ!」
かけられた声への答えは最早反射である。振り返るとそこには腰に手を当てたアキノが立っていた。
「だってそんな熱心に女の子じっと見つめて思索に耽ってるなんて…」
大体合ってるけど何かが決定的に間違っている。
「ち、違うよ。良いプログラムだなって見てただけだから」
「あー、あれ、サガ先生の振り付けみたいよ」
なんだと。
「そういえば先月あの子と二人っきりで熱心に色々…」
「…アンタの言い方も大概誤解を招きそうね」
いや、実際に振付けている様子を見ていたら、いたいけな少女に手を出すおっさんにしか見えずに笑いが止まらなかったのだから、あながち間違いでもない。
どちらかと言うと間違いであって欲しいものだが。
「ところで、アキノは今期のプログラム何にしたの?」
「何? アンタまだ決まってないの?」
「だって…」
今年は特別だから。と言おうとしたら、
「ま、いつものことよね」
バッサリやられてしまった。
「ちなみに私はね、ショートはプッチーニの『トスカ』ね」
「おお…」
オペラじゃないか。しかも思いっきり重々しい荘厳な雰囲気の。アキノにしては珍しい選曲だといえる。
「ま、一番好きなオペラだったから。好きな曲で滑りたかったし」
しれっとアキノは言うが、リョウヘイはその裏の本音に気付いていた。たぶんこれも嘘ではないのだろうが、それより何より主な理由は、あの選手が五輪で使っていたからに違いない。
ちなみにアキノ憧れのあの選手とは、カウガールではなく、金パンツである。
「あとは?」
「んー、フリーはガーシュウィンの『パリのアメリカ人』」
「ああ、日本人がロシアで演じる『パリのアメリカ人』って良く分からんな」
「絶対言うと思った」
ビュゥオウ! と飛来する拳。間一髪。これって反射神経のトレーニングになるだろうか。
しかし、女子選手で『パリのアメリカ人』というのも、それはそれで珍しい選曲だった。
「エキシビションは?」
「二つ作ったけど」
「へえ」
普通作るとしてもエキシビションは一つだ。ちなみにリョウヘイは作る予定は無い。エキシビションを滑る予定が無いのだから当然である。
「片方は『美女と野獣』のピアノアレンジね」
「おおう…」
「何その反応?」
見た目は別にして中身はむしろ野獣? などという感想が脳裏を過ぎった。
「ごめん、燃やすわ。まるごと」
「ひぃ、すみませんすみませんごめんなさいすみません」
平に謝る。そこでふと気付く。二つ作ったということは、もう一つは、
「秘密」
「秘密って…あ」
そこでリョウヘイはピンと来た。今シーズンは、何を隠そう、四年に一度のシーズンだ。アスリートなら誰もがあこがれる夢の舞台、オリンピックのシーズン。
「まあ、願掛けかしらね」
恐らく、彼女は狙っている。出場ではなく、さらに上を。オリンピックのエキシビションは、地元の選手と、上位五人しか滑ることが許されない。そしてアキノは、その舞台のためだけのプログラムを用意しているのだ。
必ずそこで、それを滑ると誓って。
並の決意ではないと思う。それはつまり、彼女が入賞ではなく、たった一つの栄冠を目指していることの表れでもあった。
かなわないな、とリョウヘイは思う。こんなところで毎日転がっている自分とは、大違いだった。
リョウヘイが目指して、でも到底届かなかった場所に、彼女は到達しようとしている。何だか、とても、虚しくもある。
何となく、リョウヘイはそんなことを思ってしまった。アキノが変な顔をして見ていたが、リョウヘイにはアキノが何を思ってそんな顔をしているのかは分からない。
「…とりあえず、あんたはあんたの目標へがんばりなさい」
「うーん」
リョウヘイ自身の目標なんて、小さなものだ。
明乃はあきれたように、
「いいから、そこはとりあえず分かったって言いなさいよ」
「うい」
まったくもう、とため息を残して明乃は肩をすくめていた。良く分からなかったリョウヘイも、同じくため息を漏らした。
…とにかく練習はしよう。氷に乗れば、面倒なことは忘れられるかもしれないし。
プログラムについては今夜寝ながらでも考えればいい。
ところで。
「何?」
「昨日ハマナ先生、何だか妙に気合入ったおめかしでリンクに来たけど…」
「…どうだった?」
「いや、僕前半は一人で練習してたから…」
「ああ…それで、今日は何か雰囲気暗かったのね…」
そうなのか。サガの先ほどの様子を思い出し、リョウヘイも微妙な気分に陥る。
「ねえ、アキノ」
「…何?」
「あの二人って、面倒くさいよね…」
「…そうね」
このときばかりは二人の心中は一致していた。
この日の夕飯も、リョウヘイは居心地悪そうにするサガに冷めた視線を送りながら、カップ麺を啜った。
アスリートは栄養管理もきちんとしないとだめだよ!




