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銀盤奮闘記(改)  作者: 左藤
第一章:二〇一三年、夏
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第三話:サガ先生によろしく。

 リョウヘイは今、大学の最終学年だ。フィギュアスケートのトップ選手は、大抵そのまま大学を卒業して、大きな企業にスポンサーについてもらったり、もしくは院に残ってこれまで通り競技を続ける。


 しかし、その他の大多数の選手たちは、大学最後の年とは、つまり競技人生最後の一年間と言う意味になる。リョウヘイも、今年が現役最後のシーズンとなることが、既に分かっている。その後は、それでも恐らくリンクに残る。


 リョウヘイの父は、北城大学や、札幌市内のリンクでコーチや振り付けを行なっている。その実、それなりに多忙な生活を送っており、卒業後はその手伝いをすることになるはずだった。


 そもそも、今の時点で既に、サガの管理能力の低さに危機感を覚えたリョウヘイが、スケジュールの管理や依頼の整理など、リンクの上以外の大部分を一手に担っていたりするのだが。


 今日も、リョウヘイは北城大のリンクでせっせと練習に励む。いつもより早めに来たからか、リンクには珍しく、誰もいなかった。


「あら、リョウヘイ君じゃない」


 と思ったら、声をかけられた。振り向くと、


「あ、ハマナ先生」


 そこにいたのは、浜名(ハマナ)瑛子(エイコ)。フィギュアスケートコーチだ。


「今日は一人で練習?」

「ええ。父さ――コーチは市内のリンクで振付です。後から来ると思うんですけど」


 片眉を上げたハマナは、親子ほどに歳の離れているリョウヘイから見ても、実に美しい女性だ。スタイルもすらっとしているし、さばけた雰囲気だが、年齢を感じさせない。ピシッとコートを着こなし、隙を感じさせない服装もさすがと言わざるを得ない。


 確かもう四十代中ごろで、それこそサガと同世代のはずだが、少なくとも彼より十は若く見える。時々二人並んで会話している様子を見ていると、何だか父が憐れに思えるほどだったりする。


「そうなの。メニューは決まってるんでしょ?」


 言うハマナに、


「そうですね、今日は少しコンパルソリーをやって、その後ジャンプの練習をしようかと」

「あら、コンパルソリーなんて、珍しいわね」


 コンパルソリーとは、言うなれば滑りの練習だ。


「コーチの方針なんです。スケーティングの練習を怠るなと」

「そうね、それは大事よ。サガ先生も元はアイスダンスの選手だから、そこのところは痛感してるんでしょうね」

「はあ」


 正直、アイスダンスに興じる父を全く想像できないリョウヘイなので、気の抜けた返事しか返せない。何しろ写真も動画も、サガによってことごとく隠されているので、情報が無いのだ。


 見るも恐ろしい怪物が美女をさらっていくような往年のハリウッド映画的シーンしか想像できないが、言ったら多分、本人に殺されるだろうから口に出したことはない。


「ハマナ先生は今日は?」

「ん? 私はちょっとリンクの様子見に寄っただけ。アキノも帰ってきてから忙しかったし、今日はお休みだからね」

「そうですか」


 じゃ、サガ先生によろしく。


 そう言って軽やかに去るハマナコーチの背を見送ったリョウヘイは、そもそもの話、どうしてアキノのコーチはあのような麗しい女性で、自分のコーチはあのようなおっさんなのかと、その不公平を噛み締めた。


「さて」


 靴の紐を締め終わり――スケート靴の紐は地味に締めるのが大変だ――リンクに降りる。


 少し、リンクの外周を滑って身体を慣らす。陸上でも軽くアップはするのだが、やはり氷の上でもある程度身体を動かしてから練習に入るのが、リョウヘイの日課である。


 そうこうしていると、段々と他のスケーターも集まり始める。リョウヘイはサイドのボードに寄って、練習を始める。


 まず、エッジの感触を確認する。スケート靴というものには、実は一つのブレードに二つの刃がある。傍目には分からないが、ブレードを真っ二つに切断して断面を見ると、一つに見える刃が、実は中心がへこんでいて、(イン)側と(アウト)側が鋭くなっているのが分かる。これがインエッジ、アウトエッジである。


 滑るのが上手い選手ほど、エッジを傾ける、つまり片方のエッジにだけ乗るのが上手い。その分、刃が氷に接する部分が減り、滑りに無駄がなくなる上、正確なターンを踏むことが出来る。


 つい先日、リョウヘイは靴を研ぎに持って行ったばかりだった。問題なく氷に食い込んでいるのが分かると、一息ついて、練習を始めた。


 ゆっくり、滑りながら、氷の表面に模様を描く。最初は単純な、徐々に複雑な模様を、その足先のみで描き出す。


 ゆっくり、バック(後向き)アウトで円を描き、途中でターンして、フォア(前向き)アウト、さらに逆回転にターンし、バックインへ。


 バックアウトの円に乗り、段々カーブを急にして、くるっと一回点。


 小さなコーンを置いて、その合間を縫うようにして、途中で止まらぬよう、重心を常にコントロールしながら、ターンを踏んでいく。地味で大変だが、この動作一つ一つが、ステップの基礎であり、滑らかな演技の元である。


「そこまで」


 地味ながら、思ったよりも熱中してしまっていたリョウヘイは、途中かけられた声に顔を上げた。


「珍しいな、お前がそんなに真剣なんてのは」


 いつの間にか靴を履き氷に乗っていたサガの、あまりといえばあまりに失礼な言葉に、リョウヘイは苦い顔をして、


「僕はいつも真剣だよ」

「ふん」


 鼻を鳴らされてしまった。


「だがまあ、熱心なのは良い事だ」


 空回りしなきゃな。


 全くその通りである点が、反論の口を封じる。実際、リョウヘイは熱心さがアダとなって、負のスパイラルにはまり込んでしまうことも少なくないのだった。


「じゃ、やるぞ。落ち着いてな」

「うん」


 今日のサガの指示は、ステップ、スピンの練習もそこそこ、ジャンプの練習に早々と移った。


 目下、リョウヘイのジャンプの課題は、いくつかある。


 ジャンプは全部で六種類ある。そのうち、リョウヘイは三つのジャンプを苦手としていた。


 今日は、そのうちの一つ、アクセルジャンプを中心に練習していく。アクセルジャンプは、六種類のジャンプのうち、唯一前向きに踏み切るジャンプである。降りるときは必ず後ろ向きなので、必然、他のジャンプより半回転多く回ることになる。


 この半回転が、トップを目指すスケーターにとっての、一つの目安となるのだ。


 半回転多い分、そこにあるのは別世界。単純に得点だけ言っても、トリプルジャンプの中でも一番簡単なトウループの基礎点と、トリプルアクセルの基礎点とでは、二倍もの差がある。


 トリプルアクセルというジャンプが有名なのは、それだけ難しいからだ。


 ということは、つまり、リョウヘイも非常に苦手にしているのだった。


 でも、やはり、シングルスケーターとしては、トリプルアクセルは跳びたい。そう思っている選手は多いし、リョウヘイだってそうだ。だから長年練習はしている。そして肝心のその成果は、


「いてっ」

「…ダメだな。てんでダメだ」


 また転んだ。


「ほら立て」


 リョウヘイとて、毎日毎日練習している。トリプルアクセルが、全く跳べない、わけではない。


 ただ、非常に、確率が低いだけなのだ。そう、それだけだ。それが最大の問題なのだが。


 サガに首根っこを引っつかまれ、半ばぶら下がるように立たされたリョウヘイは、はあ、と一つため息を零す。


「ったく、こんな軽くて、何で跳べねえんだよ。軽くて細いってのは武器なんだぞ。俺がぶん投げたらそのまま三回転半回っちまうんじゃねえのか」


 いやいやスロージャンプじゃないんだから。むしろそんな練習で跳べるようになるなら、いくらでも投げてもらって構わない。


「ま、今日はもう遅ぇし、帰るぞ。ダメなときは幾ら練習してもとことんダメってこともあるしな」

「うーん…」

「いいから。自分を追い込むことと無茶ってのは違うんだぞ」


 ブラブラとサガの腕に揺られながらも、確かに言われたとおり、あまりにも失敗し続けるとその悪いイメージが身体に染み付いてしまったりと、逆にマイナスになる可能性もある。おとなしく従うことにする。


 というか、


「ねえ」


 掴んでいる腕をどうにか外し、


「何だ」


 着氷。


「この腕力は元スケーターとして何か間違ってると思う」

「アイスダンサーは腕力も要るんだよ。人一人持ち上げるんだぞ」

「その見た目でダンサーって…。どう見てもプロレスラーだよ」

「あ゛?」

「パートナーを持ち上げるってより、むしろ千切っては投げ千切っては投げって感じでさ」


 そうじゃなければ、演技の様子くらい見せてくれてもいいでしょ?


 身の程知らずの挑発にぎろりとサガの睨みが飛んだときには、リョウヘイは踵を返してさっさと逃げ出していた。


「ほう、良い度胸だ」


 しかし腐っても(失礼)自称アイスダンサーである。鬼の形相のサガはその鍛えられたスケーティングスキルをここぞとばかりに発揮し、必死の抵抗虚しくリョウヘイは捕らえられ、与えられた制裁に涙目になった。


「痛い痛い痛いっ」

「ほら謝れ、潔く謝りやがれ」

「ごめ、ごめん、ごべんなじゃい」


 ギリギリと関節をキメられ、これじゃ本当にプロレスラーだとリョウヘイは思ったが、当然自分の命は大切なので、黙っていた。


 やっぱりあまりからかうもんじゃないな、とも思った。


「罰として今日の晩飯当番はお前だ」

「自分が面倒なだけじゃないか」

「うるせえ、黙って作れ。牛丼な」

「ええ、牛肉あったかなあ」

「無ぇなら帰りにスーパー寄るぞ」


 やれやれ。だがまあ、仕方ないか。これもいつものことなので、リョウヘイは早々に諦め、サガのリクエストに応えるべくさっさと買出しに行くことにした。


 ところが。


 牛丼には半熟卵を乗せろとか玉ねぎは小さく切れとかやかましくさえずるサガに生返事しつつリンクを出ようとしたら、他のコーチや選手たちに目だけが笑っていない笑顔で呼び止められた。


 二人で背筋に冷たいものを感じながら、容疑者よろしく連行される。リンク二階の会議室に放り込まれ、椅子に座らされ、周囲にそびえる凍えた影にビクつく。


 そんなわけで二人は、年甲斐もなくリンクメイトへの迷惑も考えずに縦横無尽にリンクで追いかけっことプロレスごっこをしてしまった事について、延々と、それはもうこっぴどく叱られたのだった。


 結局時間が無くなり、二人でカップ麺にお湯を注ぐことになった。

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