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銀盤奮闘記(改)  作者: 左藤
第一章:二〇一三年、夏
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第二話:褒めても何も出ないぜ。

 リンクに降りた途端溜息をついたリョウヘイに浴びせられた、ドスの効いた声。


 ギ、ギ、ギ、とヤシガニを屠る勢いのぎこちなさで振り向くと、そこに仁王立ちしている男がいた。


「せ、先生」

「遅かったじゃねえかよ」


 リョウヘイを睨むその男、口調もさることながら、まず、見た目がごついし、さらにはでかい。顔も怖いし、全体的に無駄に質量がある。どう見ても、先生などと呼ばれる人種というよりは、どこかの企業舎弟の親分である。


 そんな、スケート靴を履いてリンクに立っているのが何かの間違いとしか思えない男が、リョウヘイのコーチ。しかも、意外なことにコーチとしての実績はそこそこであり、過去に国際大会で入賞した教え子もいる。リョウヘイにしてみれば、何だか騙されているような気がしなくもないが、誰にといわれると、それも分からない。


 ちなみにリョウヘイは昔、その国際大会で入賞したというかつての教え子にも会ったが、哀れむ目と「めげるなよ」というありがたいお言葉を頂戴してしまい、何だか色々と折れかけたのは、懐かしい思い出である。


 などと思索に耽っていると、リョウヘイはコーチに尻をはたかれ、練習を始める。


 フィギュアスケーターは、ほぼ練習漬けの毎日である。


 リョウヘイの場合は講義が終わった後、午後四時ごろから八時過ぎまでのおおよそ四時間、試合が近づくと講義を休みさらに二時間ほど練習する。休みは日曜日のみで、それがシーズンオフのわずかな休暇期間を除いて、一年間ずっと続くわけだ。


 もちろん練習と言っても、ただ滑って跳ぶわけではない。ランニング、筋トレ、無酸素運動など、死にたくなるような陸トレメニューがひしめく。


 人間やれば出来るものなのだ。


 でもまあ、これは一番大変な時期であって、今日の練習は普通の氷の上で滑ること。


 しかし一口に氷の上を滑る…と言っても、さらにその中で色々とやることがある。


 エレメンツと呼ばれる、つまり、スピン、ステップ、ジャンプといった技。しかも、それぞれがまた色々分かれる。


 例えばスピン。ただ単にスピンと言っても、膝を折って座ったような姿勢になるシットスピン、上体と片足を氷と水平に伸ばした状態で回るキャメルスピン、立ち上がった体勢のアップライトスピン、さらにそのバリエーションが、まさに目が回るほどある。競技で使うには、試行錯誤して様々な組み合わせを練習しなければならない。スピンが得意ではないリョウヘイは、練習しすぎると本当に目が回ったりする。


 ステップ。もうこれに関しては言い切れない。ロッカー、カウンター、チョクトー、シャッセ、ツイズル、トウステップ…気が変になりそうなくらいのターン、フットワークの数々。競技会ではそれらを複雑に組み合わせ、しかも音に合わせつつ踏みながら、さらに上半身は大きく動かして音楽を表現する。油断するとステップだけでヘロヘロになる。


 最後は何と言ってもジャンプ。リョウヘイが競技で取り組んでいるのは六種類ある三回転(トリプル)ジャンプを全て入れることだ。もちろん全て練習するし、コンビネーションの組み合わせ方も無数にある。世界レベルの選手になるとこの他に複数種類の四回転(クワドラプル)まで入ってくる。


 それにトリプル以上のジャンプになると、耳元で風を切る音が聞こえるくらいの速度でジャンプに入っていくものだから、転んだときの衝撃も並じゃない。とても痛い。場合によっては骨がボッキリとイッてしまうこともある。リョウヘイも中学時代に転んで左手の指を強打し、骨折したことがある。練習を三日休んだ。


 優雅に見えるフィギュアスケートだが、内実はなかなかに過酷なものだ。


 そしてフィギュアスケートを語る上で欠かすことの出来ないのは、コーチの存在。一人で練習していると気づかない点というものが多々ある。スピンのレベルが取れているかどうか、深いエッジでステップを踏めているか、ジャンプのタイミングや軸がずれていないか。そういう諸々の要素について、選手を見守り、改善点を指摘し、どうすれば良いのか指示を与える。それがコーチ。


 リョウヘイのコーチは北城大のリンクを拠点に指導しているので、ほぼ毎日コーチの指示の元に練習に励むことが出来る。


「違う! お前、耳付いてんのか? 俺の話聞いてたのか? 何なら頭かち割って直接脳みそに書き込んでやるぞ」


 …やはり折れそうだ。本当に、何でこんな男がコーチなんかやっているんだろう。


「そんなところに転がってないで、とっとと体を動かせ」


 内心疑問に思っても誰も答えるわけがない。


 ステップでけっつまづいて大の字になったリョウヘイに容赦なく叱責が跳ぶ。


「…鬼」

「あ? 何か言ったか?」

「な、何も言ってないよ?」


 ビクンと肩が跳ねたが、頑張って取り繕う。まさに鬼の形相のコーチの後ろで、アキノが指差して笑っていたのが、非常に癪に障る。


「ほう、本当か?」

「本当だけど」


 コーチはニッと笑うと、


「じゃあ、もう一度やれ」


 ひぃい。


「もっと膝と足首使え! スピード出ねえだろうが!」

「そこで右肩を引き寄せろ! 足元に身体が遅れるからエッジが浅くなるんだ!」

「ああ、ったく、そうじゃねえ!」

「そこで少しタメろ! そうだ、それで体重が左に乗る!」


 疲れた。


 という言葉をひり出す元気もなくなるほどのハードなトレーニングをこなし、日が沈む頃には既にリョウヘイは疲労困憊である。コーチの方はざまあ見ろといった様子でニヤニヤ笑っていたりする。どこの小学生だ。


「もっとまじめに練習することだな」

「その笑顔、どういうわけか凄く腹立つんですけど」

「んなこたぁ分かってる」

「最低だ」

「褒めても何も出ないぜ」


 憎まれ口を叩き合う。端から見ると、師弟にはとても見えないだろう。


 リョウヘイとしても変わった関係の師弟ではあると思うが、いつの間にかこうなってしまったのだから仕方が無い。信頼の一つの変化形ということにしておこうと思っている。


 よぼよぼした足取りでロッカールームに向かうリョウヘイ。足腰立たず、まだ学生なんだけどなあ、と一言。


「おい、ちょっと待て亮平」


 そこでえらく真面目な顔のコーチに呼び止められた。何だ、まだ何かあるのか。げんなりしたリョウヘイに、コーチは神妙な顔で、当たり前のように言った。


「今日の晩飯は、カレーが食いてえな」


 リョウヘイはため息をついて「リョーカイ」とつぶやくと、フラフラとロッカールームに消えた。


 これがリョウヘイのコーチかつ義理の父でもある嵯峨洋次郎(サガ ヨウジロウ)であり、リョウヘイの日常なのだった。

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