第一話:やる気無いんじゃないのか?
『やる気無いんじゃないのか?』
試合終了後に、あいつが言った。
何を言う、僕は真剣にやってる。言い返そうとしたが悔しさにまみれ言葉にならない。リョウヘイは練習のときから彼を見ていた。六分間練習終了間際、わざわざリョウヘイの横を滑りぬけてトリプルアクセルを決めて見せた、鼻持ちなら無いあの野郎。
あの野郎、などと、誰かの影響を受けすぎかもしれないが、それがリョウヘイの中での彼への評価であるのは間違いない。
ちなみに彼は実際に本番でトリプルアクセルを決めて見せたし、表彰台にも上って全日本選手権の出場を決めた。
そしてリョウヘイの演技について、こんなことをのたまった。
『はっきり言って、くだらないよ』
「なんだとぉう!」
叫びは、現実のリョウヘイの口から発せられた。呆然と周囲に目をやると、そこは自宅の、自室。どうやら、またあの日の夢を見てしまったようだ。
リョウヘイが東日本選手権で惨憺たる結果に終わってから、既に半年以上経つ。にもかかわらず未だに夢に見てしまうのは情けないというか何というか、自分の精神の脆弱さを如実に表しているようにも思えるが、それを認めるのも、少々癪である。
「何だ、朝っぱらから大声出して」
悶々としていると、ドアの向こうから低い声。
「あ…何でも、無い」
「そうか? だったら朝飯、早くしろよ」
そう、今日の朝食当番はリョウヘイなのだった。切り替えた途端、思い出したように漏れた欠伸を噛み殺し、リョウヘイはベッドから出る。時刻は午前七時。急がねば。
洗面所に向かい、顔を洗う。リョウヘイが目を前に向けると、そこにあるのは平凡な、とりたてて不細工とも、整っているとも評価されることのない、見慣れた自分自身の顔。ふう、と一息、活を入れる。
トントントン、コトコト。ジュー。
淡々と味噌汁と目玉焼き、ベーコンを用意する。昨晩のうちに仕掛けておいた白米は既に炊き上がっている。出来上がった朝食を、テーブルに並べる。リョウヘイの家は3LDKの普通のアパートだ。せっかくダイニングがあるのだから、そこで食事をしてもいいのだが、椅子に座って食べるのは居心地が悪いという父の我がままにより、大抵食事はリビングだ。確かに、父にはここの椅子は、少し狭すぎるかもしれない。
リビングに配膳される食器は二人分。リョウヘイは父との二人暮らしだった。
「「…いただきます」」
箸を取る。
「…」
「…」
「…」
「…」
黙々と、二人で朝食をとる。これは決して、仲が悪いわけではない。
「…」
「…」
美味い。
「…」
「…」
「…今日の練習は?」
「講義が終わったらすぐ行く」
「そうか」
断じて仲が悪いわけではない。単に朝だから眠いこと、さらに、こういう時話をするのが、お互いに苦手なだけだ。家でなければ普通に会話できるのに、おかしな話ではある。
テレビではキャスターが、眩い笑顔で天気予報を読み上げている。
「「ごちそうさまでした」」
朝食を終え、てきぱき片付け、先に父は仕事へ、リョウヘイは大学へ向かう。いつもの風景で、いつもの流れである。
「じゃあ、行って来る」
「行ってらっしゃい」
とりあえず父を見送り、少しだらけ、やっとの思いで身体を起こし、着替え、家を出る。いつもの朝。普通の朝。
バスに乗り、ぐらぐら揺られると、だらけていた思考もようやく目覚め始める。さて、今日もがんばるかな。
「あ、リョーヘイ」
「んあ?」
いや、あまり目は覚めていない。かけられた声にも上手く反応できていない。気付いたら、リョウヘイはバスからおり、黙々と歩き、大学のキャンパスに足を踏み入れていた。
「何? また寝ぼけてるの?」
「んあー」
またとは失礼な、と言い返そうとも思うが、それはそれで面倒なことになりそうなので、結局ぼけたような声が出る。
と、
「起きなさい」
「ぶぎゃっ」
わき腹に激痛。
「う、お、お…」
「目が覚めた? それとももう一回?」
「さ、覚めた、覚めました! この上なく爽快に!」
リョウヘイの涙目の先には、綺麗な黒髪。リョウヘイの顔より少し下で揺れるポニーテールは、スズのなるような軽やかな声の主のものだ。
「よろしい」
「暴力反対…」
「必要悪って、良い言葉よね」
「アキノの言うことはいつも意味が分からない」
如月明乃。リョウヘイの二つ下の少女だ。いや、悔しいが訂正しよう。美少女だ。はっきりとした目鼻立ちに、すらりとした手足、大きな黒い瞳は澄んでいて、オリエンタルな美しさを体現している。等と、とりあえず外見を褒めても、彼女に関して言えば、それ以外の面がすべてを台無しにしているのは明白である。
毒舌。すぐ手が出る。
台無しだ。本当に台無しだ。
幼馴染であるリョウヘイはそれを知っている。しかし、周りはそれを知らない。そして美少女だ。それが厄介なことこの上ない。
「ん? 何が台無しなのカナ?」
「何でもないです!」
この地獄耳めが。首傾げても似合ってるんだよ詐欺女!
この、顔だけは良い女が、実はリョウヘイの幼馴染であるというのは、人によっては非常な幸運と見るだろうが、本人にとっては厄災以外の何者でも無い事実である。
「あんた、今日どうするの?」
「…いつも通りだよ。講義終わったら直行」
「ふうん。じゃあ、私と同じくらいかしらね」
「そうかもね」
「先生は?」
「市内で仕事してから、戻ってくるって」
「そう、死なない程度に頑張って」
事も無げに言うアキノにリョウヘイは苦い顔になるが、そんなことは意に介さず、アキノは颯爽と歩いていった。
多分、後でまたリンクにて顔を合わせることになるだろう。
あれ、とリョウヘイは首をかしげる。
「あいつ、いつ帰ってきたんだろう」
出会い頭に暴挙に出た幼馴染は、確かカナダへ行っていたはずだったが、今日こうしているということは、いつの間に帰っていたということなのだろう。
そうして午後。正直、講義の内容は殆ど覚えておらず、単にBGMが右耳から左耳へ抜けて行っただけの感があったが、まあそれはいい。
そもそもリョウヘイが通う北城大学は、札幌市近郊の田園地帯にある、それなりに名の通った、普通ならリョウヘイの手には届かないはずの大学である。さらにはリョウヘイは札幌市内に住んでいるため、通うのに毎日往復で一時間半ほどかかる。
リョウヘイは、この大学の四年生。そんな、講義に付いて行くにしても酷く分不相応かつ利便性の高い場所にあるわけでもないこの大学にリョウヘイが四年も通っているのには、理由がある。
「リョウヘイ! ほら、さっさと行くわよ!」
「うい」
どこからともなく現れたアキノに引っ張られ、リョウヘイが向かうのは、スケートリンク。そう、この北城大学のキャンパス内には、フィギュアスケート専用のリンクがあるのだ。
リョウヘイは、フィギュアスケート選手である。大した成績は残せていないが、スポーツ推薦はどうにかしてもらえたので、あくせくと毎日この大学に通い、練習をしている。かくいうアキノもフィギュアスケート選手であるため、こうしてリョウヘイを下僕のごとく引き連れてリンクに向かっている。
「アキノはいつこっち戻ってきたの?」
「一昨日」
「へえ、意外と早かったんだね」
「思ったより曲選びもすぐ済んだし、先生も振り付けのアイデアが固まってたからね」
アキノがカナダに渡っていたのは、新しいフリースケーティング用のプログラムを作るためだ。リョウヘイはというと、海外の振付師に依頼するほどの大層な選手ではないのだった。
「さて、練習するかな…」
悲しい現実から逃避して言うと、
「あくせく練習なさい」
フン、と鼻を高々突き上げていうアキノにイラッと来るが、それでもアキノはリョウヘイよりずっと沢山の練習をこなしているので、それに関しては文句の一つも言えないリョウヘイであった。
ロッカールームで準備をする。スケート靴に刃が固定されているか確認し、軽くエッジに触る。少し前に研いだばかりだから、まだ滑らかだ。まあ、少しでも刃こぼれがあったりすると、途端に転倒してしまうのだが。
いそいそと靴を履いて、冷気の漂うアリーナに向かい、そっとリンクに降りた。
この北城大学アイスリンクは、北海道唯一の大学内にあるフィギュアスケート専用リンクである。壁には往年の名選手の垂れ幕がかかり、大勢の選手たちが、彼らに続こうと日々練習に励む。
リョウヘイはというと、正直に言えば、全日本選手権にすら出たことのない選手なので、少々諦めが混じっている。
それでも、リョウヘイは、今日も練習する。どうして、と聞かれると、どう答えればいいのだろうか。多分、今までずっと、そうしてきたからなのだが。
「はあ」
「何溜息ついてんだてめえ」




