第一部 三百色のインク 第一話 濡れたページ
202X年六月十七日、火曜日。東京は朝から雨だった。
相葉悠人は、丸の内仲通りの街路樹の下を、鞄を抱えるようにして歩いていた。傘は差していたが、足元はとうに諦めている。革靴の中で靴下が水を吸って重い。
クライアント先での定例会は二時間押した。押した分の中身があったかというと、なかった。三月に本番稼働したはずのシステムが、いまだに毎週のように不具合報告を吐き出している。今日も一時間半、先方の担当者が「これは仕様ですか、バグですか」と繰り返すのを聞いていた。答えはどちらでもあった。要件定義の段階で誰も決めなかったことが、二年遅れて請求書のように届いているだけだ。
悠人はシステムエンジニアで、二十八歳だった。一月に大阪支社から本社へ異動になった。栄転だと言われた。実際、辞令の文面はそう読めた。だが東京で彼を待っていたのは、前任者が三人続けて体調を崩して抜けた案件の、その後始末だった。
鞄の中でスマートフォンが震えた。取り出す気力がわかない。どうせ課長からの、次の案件の顔合わせがいつになったという連絡だろう。
東京駅へ抜けようとして、悠人は丸の内の商業ビルの軒下に入った。雨脚が強くなっていた。傘を畳み、水を切る。ガラス張りの壁の向こうで、雨に濡れたビル群が互いの明かりを反射し合っていた。夜でもないのに、どのフロアにも蛍光灯がついている。きれいだと思う余裕はなかった。ただ、灰色の大きな塊がいくつも立っている、としか見えなかった。
視界の端で、傘がひっくり返った。
女性が一人、風にあおられた折り畳み傘の骨と格闘していた。左手にトートバッグ、右手に傘。バッグの口が開いていて、そこから何かが滑り落ちた。黒い、手のひらより少し大きい四角いもの。それが水たまりに落ちる音を、悠人は聞いた。
考えるより先に手が出ていた。
「大丈夫ですか」
悠人はしゃがんで、それを拾い上げた。手帳だった。革ではない、布張りの表紙。角が丸く擦り切れている。水を吸って、思ったより重かった。
「あ……すみません、ありがとうございます」
顔を上げた彼女と目が合って、悠人は言葉を止めた。
知っている顔だった。どこで、といくつかの引き出しを慌てて開ける。会社ではない。取引先でもない。もっと前だ。もっと明るい場所だ。
「……藤井?」
彼女のほうも、目を丸くしていた。傘を持つ手が下がっている。
「もしかして、相葉先輩ですか」
藤井葵だった。大学の写真部の、一つ下の後輩。最後に会ったのは、彼女の卒業式のあとの追いコンだったはずだ。四年半前になる。
「久しぶりだな」と悠人は言った。それ以上の言葉がすぐには出てこなかった。
「久しぶりです。びっくりした」
葵は笑った。笑ってから、悠人の手の中の手帳に目をやって、表情を曇らせた。
「あー……濡れちゃった」
悠人は手帳を差し出した。表紙の布地が黒く色を変えている。葵は受け取って、ためらってから、そっと開いた。
ページが波打っていた。青いインクの文字が、水を吸って輪郭を失い、隣の行に滲み出していた。何が書いてあったのかは、もう読めない。
「大事なやつか」
「大事、っていうか」葵は少し笑った。「三年くらい前から使ってるので。愛着があるだけです」
三年、と悠人は思った。手帳を三年使うという発想が彼にはなかった。予定はすべて社用のスケジューラに入っている。
「乾かせば読めるかもしれない。ドライヤーは近づけすぎると紙が縮むから、風だけ当てて、間にティッシュを挟んで、上から本を載せておくといい」
葵が顔を上げた。
「詳しいですね」
「いや」悠人は口ごもった。「前に、現場でノートPCに珈琲をこぼした奴がいて。その時に調べた」
葵が笑った。今度は喉の奥から出るような笑い方だった。
その笑い方に、記憶が一つ戻ってきた。
七年前の十一月。写真部の部室。学園祭で配る部誌の入稿日の朝、印刷所への締切まであと四時間という時刻に、二年生の藤井葵は真っ赤な顔で部室に飛び込んできて、「すみません、写真の並び順、全部やり直させてください」と言った。四年生が二人、その場にいた。もう一人の四年生は止めた。悠人だけが「理由は」と聞いた。
葵は説明した。時系列に並べたら、最後のページが体育祭の写真になる。でもこの部誌を受け取った人が最後に見るのは、いちばん静かな写真であってほしい、と。
結局、悠人が組版の作業を巻き取って、二時間で並べ替えた。締切には四十分遅れた。印刷所には悠人が電話をかけて謝った。
あのとき彼女は、ちょうど今と同じ笑い方をした。
「藤井、部誌の並び順をやり直したことがあったな」
「え」葵が目を見開いた。「覚えてるんですか」
「印刷所に謝ったのが俺だからな」
「うわ。すみませんでした」
「七年経ってから謝られてもな」
雨が屋根を叩いていた。人の流れが二人を避けて通り過ぎていく。
「先輩、いま何してるんですか」
「システムエンジニア。会社は虎ノ門。……今日は、そこの銀行の打ち合わせの帰り」
「わ、想像通り」
「そうか」
「そうですよ。部室でパソコンばっかりいじってたじゃないですか」
悠人は口元を緩めた。そうだったかもしれない。暗室が苦手で、現像の当番をよく代わってもらっていた。
「藤井は」
「常磐文具っていう会社です。ノートとか手帳とか作ってるところの、商品企画部で」
悠人は手の中を見た。もう手帳はそこにない。
「じゃあ、それも」
「あ、はい」葵は手帳を軽く持ち上げた。「これ、うちの商品です。三年前に私が担当したシリーズの、試作品」
「へえ」
言ってから、何かもう一言あるべきだった気がしたが、思いつかなかった。悠人は雨脚を見た。葵も同じ方を見た。
沈黙が、予想より長くなった。近況を交換し終えてしまった二人の間に、次の話題を探す気配だけが残った。四年半ぶりの相手に何を聞けばいいのか、悠人にはわからなかった。元気か、は聞いた。仕事は、も聞いた。あとは、恋人がいるかどうかくらいしか残っていない。それは聞けなかった。
葵が腕時計を見た。
「私、そろそろ」
その仕草を見た瞬間、悠人は自分でも意外なくらい強く、それは困る、と思った。
理由ははっきりしていた。この五ヶ月、彼が話した相手は全員、彼を「相葉さん」と呼ぶか「ベンダーさん」と呼ぶかのどちらかだった。誰も彼を「先輩」とは呼ばなかった。
大阪にいたころは違った。同期が四人いて、金曜の夜になると誰かが必ず声をかけた。断ることも多かったが、断れる相手がいるというのは、そういうものが要らないということとは全然違う。東京に来て五ヶ月、悠人は自分の部屋と会社と客先の三点だけを往復していた。誰も彼を誘わなかった。誘われるほど、彼はまだ誰とも話していなかった。
人の流れが、二人の脇を通り過ぎていく。傘の先から落ちた水が、床に細い筋を作っていた。
「藤井」
葵が振り返る。
「よかったら、今度ゆっくり話さないか。積もる話もあるだろうし」
言ってから、これは営業の常套句だな、と悠人は思った。今度ぜひ、というのは、大抵実現しない。
葵は一瞬、目を見開いた。それから、雨音より少し小さい声で言った。
「はい。ぜひ」
連絡先を交換した。葵のアイコンは、白い机の上に並んだ万年筆の写真だった。
「じゃあ、また」
「はい。手帳、ありがとうございました」
葵は傘を差して、地下鉄の入口のほうへ歩いていった。悠人はその場に立って、それから東京駅の丸の内北口へ向かった。
空は変わらず鉛色だった。雨も止んでいなかった。ただ、改札を抜けるとき、悠人は自分がさっきまでよりいくらか軽く歩いていることに気づいた。
電車の中でスマートフォンを開いた。課長からの着信ではなかった。件名は「次期基幹系リプレース フェーズリーダー候補の件」だった。悠人は本文を開かずに閉じた。今日は、もう読みたくなかった。




