生きているから。
「グルルルラァッ!!」
「ぎゃ……ぎゃあああああッ!?」
黒煙の虎にのしかかられ、俺は絶叫した。黒光りする虎の牙が、爪が、今にも俺の皮膚を突き破らんと俺の目と鼻の先に迫ってきた。
「ひぃいッ!?」
虎の形をした『生体エネルギー』は重く力強く、意思を持った生物のように、鋭い眼光で俺を睨んでいた。
「だから気をつけてって言ったのに……」
俺が危うくミンチになろうとしているというのに、隣にいたイオは突っ立ったままその様子を眺めていた。
「オォイ!? 見てないで助けろよ!?」
「あれ? 篠崎さん、死にたいんじゃなかったですか?」
「そりゃ死にたいけど……痛いのはイヤだよ! 俺ァできるだけ苦しまず、急がず慌てず……天から差す光と多幸感に包まれながら、優雅に死にたいんだ!」
「贅沢な人だなぁ」
イオが急に死神らしいことを言い始めたので、俺は虎に馬乗りにされながら、慌てて泣き叫んだ。その間にも黒虎は唸り声を上げ、俺の顔に荒い鼻息を吹きかけていた。
「ちょ、喰われる! 喰われるゥッ!!」
「篠崎さん。それは本物の虎じゃありません」
パニックを起こす俺に、遠くから、イオののんびりとした声が微かに聞こえてきた。
「『生体エネルギー』なんです。相手の『死に体』を退治するには……篠崎さん、あなたも自分の『死に体』を! 死にたい者同士、魂と魂を、ぶつけ合うしかないでしょう!」
「はぁ!?」
黒く染まりつつある視界の向こうで、イオがにっこりと笑っているのが見えた。
「あのチビ、急に現れたと思ったら、勝手なことばかり言いやがって……!」
「何か言いました?」
「いや何にも!」
イオが鎌を光らせたので、俺は急いで地べたを確かめた。
俺の『死に体』は……自分の魂を、『死に体』などと呼ぶのは癪だが……道路沿いの溝の方で、コッチを避けて脇をうろちょろとしていた。
「オイ!? なんか俺の『死に体』、溝に流されてってるんだけど!?」
「それが篠崎さんの、魂から出た行動なんですよ!」
「クソッ! さっきから全然、戦おうという意志さえ見せねえじゃねえか! コイツは俺か!」
「その通りです」
俺は死にたくなった。イオが小首をかしげた。
「おかしいですねえ。もしかしたら、篠崎さんの『死にたい』という気持ちが、足りないのかもしれません」
「何だと!?」
「だってそうでしょう? より『死にたい』気持ちが強い方がマウントをとる。それが死人同士の戦いですから」
「死人って何だよ!? 急に新しい専門用語出してくんじゃねえ! 死人って俺のことか!? 俺のこと言ってんのか!?」
「このままじゃ篠崎さん、相手の『死に体』にマウントを取られて、飲み込まれてしまいますよ?」
「ちくしょう……『死にたい』者同士の、マウントの取り合いだなんて! なんて嫌な戦いなんだ……!」
「グルルルルッ!!」
「うおおおッ!?」
黒い虎の『死に体』が、俺を丸呑みにしようと大口を開けた。
「篠崎さんっ!」
イオが叫んだ。
「もっと死にたくなって!! 強い気持ちを持って、相手より自分の方が死にたいんだと願って!」
「うるせええええええ!!」
俺は最後の力を振り絞り、『死にたい』気持ちを全集中させた。
「死にたいって気持ちで……俺が他の奴に負けるかあああああッ!!」
すると。
俺の叫びに呼応するように、溝で小さく縮こまっていた俺の『死に体』が……ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「グルルルラァッ!!」
「うおおおおお……!!」
ザザ。
ザザ、ザ。
ザザザザザザ……。
溝から溢れ出てきた俺の『死に体』が音を立て、一箇所に集まり始めた。初めはチョロチョロとした水だった俺の『死に体』は、徐々に水かさを増して行き、塀を超え木々を超え、ついには巨大な龍の姿となって虎の前に立ちはだかった。
「あれは……!」
見上げるほどに大きくなった俺の『死に体』を前に、イオが驚いたように叫んだ。
「あれは伝説の……『死に体=ドラゴン』!!」
「弱そうなドラゴンだな」
「真に『死にたい』者……真の死者の魂に宿ると言われる、伝説の龍ですよ!」
「死者って言っちゃったよ。俺死んでねーし。死人はどうした?」
「グラルルルラァッ!!」
「ギャガガガガゥッ!!」
黒い虎は、現れた俺の『死に体=ドラゴン』と睨み合った。やがて二匹の『死に体』は唸り声を上げながら、お互いを食い破らんと絡み合って行った。イオが興奮気味に目を輝かせた。
「すごい……!」
「そうか?」
慌てて道路脇に避難しながら、俺は首をかしげた。
魂と魂のぶつかり合い、と言えば聞こえは良いが……やっているのは、死にたい者同士の『傷の擦り付け合い』に他ならない。大体、相手より『死にたい』気持ちで上回って、マウントを取り勝ったところで、虚しさしか残らないだろう。かつてこれほどまでに、後ろ向きな理由の龍虎激突があっただろうか? 戦いを見つめながら、俺は急に死にたくなった。イオが俺を見上げて朗らかに笑った。
「やっぱりイオの見込んだ通り……篠崎さんは死にたい気持ちなら、誰にも負けない!」
「負けてえよ」
「篠崎さんなら真の死者……きっとこの星で一番の死者になれますよ!」
「もう死にてえよ。何だよ真の死者って」
「見てください、あれ!」
イオが絡み合う二匹の虎と龍を指差した。
俺の『死に体=ドラゴン』が、水でできた体を利用して、『死に体=タイガー』を自らの体内に取り入れようとしていた。長い龍の体に巻きつかれた『死にタイガー』は、抵抗虚しく龍の中に吸い込まれて行った。
「篠崎さんの『死に体』が、マウントを取ったっ!」
「そんな嬉しそうに言うなよ」
「うっ……!」
すると今度は、さっきまで電柱に頭を打ち付けていた男が、急に呻き声を上げてその場に崩れ落ちた。『死に体=ドラゴン』の方は、『死にタイガー』をすっかり飲み込んでしまうと、口から『ぽんっ!』と白い「ふわふわ」を吐き出した。
「何だありゃ?」
「きっとあの人の、『生体エネルギー』ですよ。篠崎さんの『ドラゴン』に『死にたい』気持ちを吸い取られ、浄化され元の姿に戻ったんです」
イオが呟いた。
白い「ふわふわ」は、急いで倒れた男のそばに近づくと、額の傷から彼の中へと吸い込まれて行った。
俺たちは急いで『生体エネルギー』を取り戻した男に駆け寄った。
「あの……大丈夫ですか?」
「う、うぅ……ここは?」
意識を取り戻した男は、俺たちの顔を見上げると、ぽかんと口を開けた。
「不思議だ……。僕ぁさっきまで、あれほど死にたかったのに……」
「えぇ。おかげで俺も殺されかけました」
俺は頷いた。男はボリボリと頭を掻いた。
「ずっとミィちゃんが見つからなくて……」
「ミィちゃん?」
「もう死んでしまおうと思っていたのに。起きたらすっかり心が晴れやかだ……」
俺とイオは顔を見合わせた。
「きっと子猫か何かが迷子になって、それで彼の『死に体』を生んでたんですね。かわいそうに……」
「ありゃ、子猫ってレベルじゃねえだろ。害獣だよもう」
俺は虎の爪でボロボロに破けたTシャツを見ながら毒づいた。
かくして『死に体』がとれた男は颯爽と立ち上がり、膝の土を払った。男は俺たちに頭を下げた。
「君たち、何だか知らないがありがとう。家に帰って……近所の『猫の集会場』とか探してみるよ。ミィちゃんがいるかもしれない。そうだよな。生きている限り、飼い主の僕が諦める必要はないよな。何だか知らないが……今は何故か、そんな風な気持ちでいっぱいなんだ」
「良かったです。これでイオも、死神界で面倒な書類手続きをせずにすみました」
「何の話?」
「こっちの話なので、お気になさらず」
ニッコリと笑う死神少女と、手を振って別れを告げるサラリーマンを見つめながら、俺はようやく肩の荷を下ろした。
「やれやれ……一時はどうなることかと思ったが……」
「まだですよ! 篠崎さん、自分の『死に体』を回収しないと!」
「あぁ、そうだった」
俺は辺りを見渡した。
いつの間にか『死に体=ドラゴン』は姿を消し、俺の魂は、また元の血のような濁った水に戻っていた。排水路に流されて行きそうになる俺の魂を何とか堰き止め、俺はやっと自分の体の中に『生体エネルギー』を取り戻した。
「あれ……?」
「どうしました?」
ドロッドロの水を飲み込んだ俺は、吐きそうになりながら首をかしげた。
「何だか前より、体が重くなったような……」
「そりゃそうでしょう。篠崎さんの『死に体=ドラゴン』は、さっきの男の人の『死に体』を吸収して、より強固な『死に体』になりましたから!」
「あぁ……」
イオが笑った。理屈はよく分からんが、とにかく俺は死にたくなった。
「それにしてもすごいですよ、篠崎さん!」
イオが楽しそうにその場でくるくる回った。
「イオも初めて見ました。魂をぶつけ合い壊すのではなく、吸収してしまうだなんて! 相手の『死にたい』気持ちすら我が物にしてしまう、篠崎さんこそ正に真の『死」
「『死者』じゃねーっての。もういいわ、帰ろうぜ。死にたくなってきたわ……」
それから俺たちは、トボトボと夕日に照らされた通学路を歩き、家路へと急いだ。
「見てください、篠崎さん」
帰り際、一際高い丘の上で、死神少女が俺に声をかけた。
振り返ると、俺の生まれ育った街が映っていた。
「あれは……」
目を凝らすと、夕日に照らされたビルや公園の彼方此方に、黒い「もやもや」のようなものがうっすらと蠢いていた。昨日までは見えなかったものだ。
「『死に体』ですね」
死神のイオが頷いた。
街中を、様々な形をした魑魅魍魎が蠢いている。中には鬼のような姿をした『死に体』や、山よりも巨大な『死に体』もいた。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。他人の『死に体』が急に見えるようになったのは、この少女との出会いが原因だろうか。夕日に照らされたイオは赤い目を細め、うっすらと笑みを浮かべて呟いた。
「篠崎さんを筆頭に、この街は……いえこの世界は、死にたい人で溢れている」
「嫌な話だな……」
「篠崎さん。これからもあなたの『死に体』で、この街に潜む『死に体』にマウントを取りましょう! そして彼らの生きる活力を取り戻し、イオの残業を減らしてください!」
「やだよ」
「『マウント王に、俺はなる!』と、ここで宣言してください」
「やだ。ぜってーヤダ」
それからイオは俺に別れを告げ(「また篠崎さんの”死にたいゲージ”が溜まったら来ます」)、俺の部屋の天井にできた、黒い「もやもや」の中に帰って行った(死にたいゲージって一体何だ?)。
俺はクタクタになった体を、ビショビショのままのシーツの上に投げ出して、今日の戦いを思い出し……今年一番、死にたくなった。
《続く》