恋願う(希う)
王太子の執務室へ駆けていくと、ちょうど扉が開いてエリウスが顔を出した。
のぞみの部屋へ向かおうとしていたエリウスは、のぞみの姿を見つけて驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに相好を崩す。
その様子に怯みかけるが、勢い込んで問いただす。
「エリウス、どういうこと」
出し抜けの問いに少し目を丸くしたものの、すぐさま言葉にしなかった部分をきちんとエリウスは読み取って、部屋の中に入るように促す。
耳目のある場所で継承権を放棄、なんて言葉を口にするのは良くないのではと判断したのは合っていた。
人払いをして執務室に二人きりになる。応接用のソファにのぞみを座らせるとその隣に腰を下ろしてエリウスは口を開いた。
「継承権のことだろう?」
頷いて、必死に訴える。
「違うよね?放棄なんてしないよね?」
エリウスは少し難しい顔をして考える素振りをする。
「何と言えばいいかな」
まだ半信半疑で何かの間違いだろうと言ってほしくて尋ねたのに、当人から否定の言葉が出ないことにのぞみは真っ青になる。
「だめだよ!絶対にそんなことしちゃだめ」
悲鳴に近い声を上げるのぞみに、穏やかな顔で静かに彼は答える。
「もともと、君が頷いてくれたなら、そうするつもりだったんだ」
その言葉に、ひどく衝撃を受ける。
どうしてこうなるの?
のぞみはもう泣きそうだった。
やっぱり自分は相応しくないのだという気持ちが胸を支配する。
知らず、ぎゅっと服を握り締める。
「なんで…ちゃんと、ちゃんと考えて…お願いだからそんなことしないで」
「考えたさ」
優しい翠の瞳を細めて、困ったように笑う。
「考えたんだ。君が失うもののこと、君から何を奪うのか、君に何を与えられるのか」
王位を捨てても王族であることは捨てられない自分は、与えられるものの方が、きっと少ない。
周囲のしがらみや身分や血筋と言うことではなく、自分自身の根幹が、己を王族たる者であらねばならないと告げる。
のぞみに払わせる犠牲を思えばあまりに身勝手だ。
だから、と続ける。
「のぞみが、王太子だから私を選べないというなら、私は迷わずに選べる」
だめだとのぞみは首を横に振る。
そんなつもりじゃない。それじゃだめなのに。
「私はっ…エリウスになにもあげられない」
「のぞみをくれるだけでいい。欲しいのはそれだけだから」
望むことはそれだけ。
嫌々と首を振り続けるのぞみを宥めるようにエリウスは服を握り締めるのぞみの両手をひらかせて包む。
「のぞみ、のぞみ。ねえのぞみ」
呼びかけられることが嬉しくてたまらないというように繰り返す。慈しむ響きをたっぷりと乗せて。
顔をあげるのを待つ視線に、おそるおそる向かい合う。
金糸の髪、翠玉の瞳。夢の中にいるような王子様。
触れているのは現実の男の人の骨ばった大きな手。
どこまでも優しい。
なのに切実な熱がその瞳にあって、私を見ている。
とても、綺麗な人。
「君が好きだ」
あんまり綺麗に笑うから。
くしゃくしゃに絡まって縺れた感情が解けていく。
するするとたったひとつのシンプルな糸になって辿り着く。
エリウスが好き。
夢を、この人を、この人を好きだという気持ちを。
何よりも自分自身を。
信じるにはどうすればいい?
諦めるんじゃなく、逃げるんじゃなく、信じたいって、そう思ってる。
―――強くなりたい。
「……っ、すき」
ひきつれる喉から絞るように声を出す。
伝えなくちゃ。
けれどそれ以上言葉にならなくて、もがくように喘ぐ。
どうか届いてと見上げた先で、翠の瞳にとろりと蜜が垂れた。
こつりと額を合わせて笑う彼の顔が、何より無邪気に嬉しそうで。
それから浮かべた、どこか意地悪そうな、悪戯するような笑みが意外で。
「のぞみが傍にいてくれないなら、継承権を放棄するよ」
だからそれを捨てるなと言うなら、傍にいて。
「止められるのは、のぞみだけだ」
びっくりして目を白黒させてしまう。血が逆流する。
「え、エリウス?」
「それとも、好きと言ってくれたのは嘘?」
カッと体が熱くなる。
「大丈夫、王太子を辞めても誰も困らない。叔父もいるし、歳は離れてるが従弟もいる。私が、君も王位も失くすだけ」
こんな言い方をする人だったろうか。
「きょ、脅迫!」
どうして楽しそうに笑うの。
「形振り構わず必死に口説いてるだけだよ」
本当はそんなに優しくないんだ、嫌いになるかい?
そんな事を言う。王子様のくせに。
ほんの少しだけ強ばった顔に弱気を滲ませて。
どうして?
ああ。
もう降参。
だってとっくに落ちている。
お姫様になんてなれない。
だけどいくらでも、強くなるから。
「好きだよ。エリウスの傍にいたい」
心の底に押し隠した、いちばん純粋な混じり気のない本当の望みが、ようやっと言葉になった。
***
部屋の主が不在のまま、残された三人はお茶を続けていた。
「そろそろまとまったかなあ」
甘いケーキに舌鼓を打ちながらかなえはぼやく。
「随分呑気だな」
紅茶を含みながらアレックスが応じる。
わざわざアレックスを引っ張って、無茶をしてここまで来た割に、二人が会って話しさえすればまとまると確信してすらいるようだった。
ネネも給仕をしながらかなえの余裕ある態度に不思議そうな視線を向ける。
「まあ大丈夫でしょ。だってお互いに好きなんだし」
それに、とかなえはにんまり笑う。
「王子様と女の子の物語はハッピーエンドで終わるんだよ」
そして彼女の予言はその通りになる。




