才媛と私
クラウス皇帝とお別れして私室に向かっていると、廊下が交差するところで、とある人物と鉢合わせた。
「あら……お子さまはもう寝ているはずの時間よ」
「お疲れさまです、ピアスカ司法官。先刻はありがとうございました」
私が心を込めてお礼を言うと、キアラさんは本当にお疲れさまだわと吐き捨てて、私が向かおうとしているのと同じ方角へ歩き出した。
キアラさんの部屋は私の私室と同じ方面にある。仕方ない……諦めてもらおう。
ところで、キアラさんは今まで何をしてたんだろう。
「あなたは皇帝陛下と楽しくお夜食を食べながら、優雅に過ごしていたのでしょうけど、こちらは大変だったのだから」
いや、楽しくはなかったし、優雅にも過ごしてないから。
「何かあったのですか?」
「ネフレタ教授の説得よ!」
「……ああ」
そういえばクラウス皇帝、キアラさんに言ってたわね。ネフレタ教授に『世界機構』の本部総長になるよう説得してくれ、って。
「ああ、ではないわ。あの人、肝心なところで優柔不断なんだから。
そんなにアンリ国王のサインが入った大百科が欲しいなら、さっさと本部総長をお受けすればいいのに。
今住んでいる家の居心地がいいだとか、学士院の自分の席の椅子が座り心地が最高だとか、小学生みたいなことばかり言って駄々をこねて。
中年男の迷っている姿ほど、みっともないものはないわね」
それはぜひ……特に最後の一行は、直接ご本人に言って差し上げたらどうだろうと思うけど、口にのぼらせるのは別の台詞にした。
「それで、結局ネフレタ教授はご決心されたのですか」
「決心しないから困っているのよ! 今日はもう眠いと言って、とっとと部屋に戻ってしまうし。
ああ、せっかく皇帝陛下に大役を仰せつかったというのに。明日までに説得できなかったら、どうお詫びすればいいの?」
私が思うに、クラウス皇帝はそこまでキアラさんに期待してない……というか、『気心知れた弟子の説得で、ネフレタ教授が本部総長受けてくれたらラッキーかなー』くらいの軽い感じで頼んだように見えたから、あんまり深刻に考えなくていいと思うのだけど、
「おまけにこんな夜中まで起きていては、お肌も荒れてしまうし……何一ついいことがないじゃない。それもすべてあなたのせいよ!」
ローフェンディア帝国臣民のキアラさんにとって、皇帝のおっしゃることは絶対なのかもしれないけど、どうして私に八つ当たりするかしら。
「あなたが、あの人の遺誡にフェアラスルインだなんて書かれなければ、こんなことにならなかったんだわ!」
ユートレクトの遺誡がどうのというよりも、通達さえ届かなかったら、キアラさんがネフレタ教授に捕まって特例法案を検討させられることもなかっただろうし、そもそもネフレタ教授がセンチュリアに来ることもなかったかもしれない。そういう意味では、
「そうかもしれませんね」
なんだけど。
「そうかもしれませんね、とはなによ!
私がこんなにも心を痛めながら、兄……あの人の幸せを思って協力してやったのに!
ああ、今夜の夜更かしが原因で、吹き出物でもできたら覚悟なさい。謝罪と賠償を要求するから!」
視界の先に私の私室が見えてきた。吹き出物で謝罪と賠償、は聞かなかったことにしておこう。
私も一刻も早くお化粧を落としてお肌の手入れをしたら、永世中立国の元首の皆さんに送る書簡を作らなくちゃ……と考えていたら、あることを思いついた。
そこで、キアラさんに提案してみることにした。
「ピアスカ司法官、いい化粧水があるのですが、お分けしましょうか」
私の化粧水といえばもちろん、親友のチェーリアが作ってくれた化粧水だ。
キアラさんがセンチュリアに来てまだ日が浅い頃、夜遅く私室に乱入してきて、ドレッサーの中身にさんざんけちをつけたことがあった。
そのとき、この化粧水はキアラさんにとってあまりに存在感が薄すぎたのか、攻撃を免れていた。
私をはじめセンチュリア女子……若い子からおばあさんにとっては、日常使いの化粧水なのだけど、あのララメル女王が目の色を変えて欲しがったものだし、もしかしたらキアラさんも喜ぶかもしれないと思って。
夜遅くまで特例法案の検討に付き合ってくれたのは確かだし、キアラさんの白皙のお顔に吹き出物ができたら、謝罪と賠償は置いておくとして、責任の半分以上は私にある。
果たして、ローフェンディアの伯爵令嬢は、私の申し出を受けるかしら。
「あなたが使っている化粧水ですって?」
「ええ」
「そんな『毎日うるつや化粧水〜これ一本で全てのお肌ケアが完璧! 忙しく生きる現代女性の強力な味方! 年齢を感じさせない、みずみずしい輝く素肌へ〜』みたいな、ありふれた触れ込みのお徳用化粧水を、私が使うとでも思うの?」
確かに、材料費的にはお徳用級に安いんだけど。
どこかで耳にしてそうな商品のネーミングと、キャッチフレーズが即座に出てきたのに驚いた。しかも平民センスど真ん中で。
「はい、私の化粧水にはセンチュリアのウルリカが入っているんです。
先日ララメル女王にもお分けしたところ、お気に召されたようなので、ピアスカ司法官のお肌にも合うといいかと思いまして」
ララメル女王が喜ばれるくらいだから、キアラさんも気に入るかも、と思ったのだけど、そういえば、ローフェンディアの伯爵令嬢にとって、ファレーラ王国の女王陛下は敬いの対象になってるのかしら。
貴族令嬢Yさんこと、モンセラット公爵令嬢ジュディットさん(久しぶりに思い出したけど長いわね)は、あからさまにララメル女王を見下していたから、そこが心配だったのだけど、
「まあ、あのララメル女王陛下が?」
キアラさんの声色からは、ララメル女王を軽く見ている感じは一切受けなかった。
「はい、私はあまり化粧品に詳しくないのですが」
「そんなこと見ればわかるわ」
途中で口はさむのやめてもらえないかしら。
「ララメル女王によると、この化粧水に入っているウルリカが、お肌にとてもよいそうなのです」
「そうね、ウルリカは確かにいいわ。特にセンチュリアのウルリカには、オーリカルクの成分も含まれているし。さすがララメル女王、よくご存知でいらっしゃるわ」
ローフェンディアの伯爵令嬢にとって、ララメル女王は敬愛の対象らしかった。
ていうか、王族って普通は、大国小国関係なしに敬われていいと思うんだけど。
クラウス皇帝には、こういうローフェンディア貴族の、すごく失礼なところも再教育してほしい。
ちなみに、ララメル女王とキアラさんは、昼間のクラウス皇帝お出迎えのときまで、一切顔を合わせていないはずだった。
キアラさんのこの調子だと、王宮内で偶然会っていたとしてもトラブルは起きていなさそうでほっとした。もし何かあったら、お二人のことだしすぐ苦情を言ってくるはずだから。
「で、その化粧水はどこの会社のものなの?」
銘柄もの好きのキアラさんらしい質問だったので、
「スタールイ社という会社のものです」
化粧水の作り主チェーリアの新しい姓を教えておいた。
私の友人の手作りですって言ったら、またうるさくなりそうだし。
「スタールイ社……聞いたことないわね、まあいいわ。
ララメル女王がお気に召したことに免じて、信頼してあげるわ」
「はい、ぜひそうしてください」
私が大分ぞんざいな返答をしたところで、ちょうど私室の前に着いた。
キアラさんに少し待ってもらうよう断ってからすばやく部屋に飛び込むと、空いている綺麗な小瓶にスタールイ社の化粧水を詰めた。
あんな口をきけるようになったのは……少しはキアラさんと親しくなれたと言っていいのかな。
スタールイ社の化粧水を詰めた小瓶を持って私室を出ると、キアラさんが右手を左胸に当てて、目を閉じていた。ローフェンディアの祈りの捧げ方だった。
誰への祈りだろう。ユートレクトかアンウォーゼル捜査官かと思ったけど、一個人への祈りよりもっと深いというか、尊い祈りを捧げているようにも見えた。
邪魔をしたくなかったから、私室に戻ろうとしたのだけど、その前に気づかれてしまった。
「あら、早かったのね。あなたのことだから今頃、瓶から化粧水をこぼして、大惨事になっていると思っていたのに」
この人も、いちいち私と喧嘩したい人ね。
「そのご想像力の豊かさは見習いたいですが、ご期待に添えず申し訳ありません。おかげさまで無事分けられました」
私がスタールイ社の化粧水を詰めた小瓶を差し出すと、キアラさんは黙って受け取った。
キアラさんには十分ご恩を感じているのだけど、少しずつ本音を投げてもいいかな、という気分になっていた。
先ほどからの私の口のきき方に、不快そうな素振りも見せていない。それならもう、気を遣わない方がお互いにとっていい気がして。
それでも、キアラさんには何度お礼を言っても、謝っても足りないと思っている。
「いろいろと助けてくださり、本当にありがとうございました」
あんまりしつこいといやがられるだろうから、これで最後にしようと思って、もう一度心を込めて頭を下げた。
今はクラウス皇帝と非公式会談をしたときとは違って、頭を下げるのを我慢することはないと思った。
きっちり三秒後、頭を上げた瞬間、キアラさんと視線がぶつかった。その途端、
「失敗するんじゃないわよ」
私の眉間に、美しくマニキュアを塗られた人差し指が突きつけられた。
だけど、その指の勢いとはうらはらに、キアラさんの声音はそれほど鋭くはなかった。
「明日、あなたが間抜けたことを言ったら、あの人もレシェクも助からなくなるんだから。
皇帝陛下も、あなたがきちんと補佐して差し上げるのよ」
アンウォーゼル捜査官のことは、私も気がかりだった。
私の交渉が下手なせいでとても心苦しいけど、今日の非公式会談では、アンウォーゼル捜査官の処罰について、クラウス皇帝からまだいいお返事をいただけていない。
そもそも、国際裁判所が極刑を下したら、いくらクラウス皇帝でも判決を覆すことはできない。
だからせめて、極刑もしくはそれと同等の処罰を求めることだけでも、止めてもらいたいのだけど……
まがりなりにも国家元首の私には、クラウス皇帝にお願いできる機会がある。
明日にはまた正式な首脳会談があるし。そのとき、もう一度申し上げてみようと思っている。
だけど、ローフェンディア帝国の臣民であるキアラさんは、クラウス皇帝に直談判なんてできない。
だから歯がゆいというか、もどかしいというか、いてもたってもいられない気持ちなんだろう。
「……わかりました」
キアラさんの指がまだ眉間に向けられたままで、視界に入るのが少し不快だったのだけど、そのままにしておいて短く応えた。
「おやすみなさい、ピアスカ司法官」
キアラさんに自称華のような笑顔を向けたものの、もちろん笑顔のお返しはなかった。その代わり、
「早く化粧を落としなさい。
化粧と汗と脂が、顔で無様な交通渋滞を起こしているわよ」
眉間に向けられていた指が、そのまま頬に降りてきて、私の顔の一大事を知らしめた。
両手を頬にやると、不快なべたつきを感じた。
キアラさんは化粧と汗と脂と言ったけど、実は、キアラさんたちに会う前に泣いているせいで、涙も交通渋滞に拍車をかけているはずだった。
こんなどろどろの顔で、クラウス皇帝に偉そうなことを言っていたのかと思うと、今更遅いけどすごく恥ずかしくなる。
そんな私に、キアラさんはぼそっと、
「……まあ、明日は、せいぜい頑張るのね」
仏頂面というのとも少し違う……硬いというか、こわばってるような、うまく言い表せない顔でつぶやくと、黒い三角帽子をひるがえして歩き出した。
「ピアスカ司法官!」
遠ざかっていくまっすぐな背中に声をかけた。
振り向いたキアラさんの顔は、廊下の照明が暗いせいか、少し赤味を帯びているように見えた。
「ありがとうございます、頑張ります!」
ぼそっとでも、励ましの言葉をくれたのがとても嬉しかった。
「当然よ! 百回くらい死ぬ気で臨むことね!」
振り向いたキアラさんがくれた声は、いつものコオロギ声ではなかった。
台詞はいつもの悪態そのままなのだけど、初夏に吹く風のように爽やかで、生気に満ち溢れる声音だった。
クラウス皇帝との非公式会談で、張り詰めて疲れ切っていた私の心を洗い流してくれた。
そして、私に向けられたまっすぐで明るい眼差し、隙なく紅を差した唇が描く緩やかで暖かな曲線、まだ赤く見える頬に……自然に顔がほころび、目の奥が熱くなった。
思い過ごしでなければいいのだけど、初めて私の存在自体を認めてもらえたような笑顔だったから。
キアラさんは再び私に背を向けると、スタールイ社の化粧水が入った小瓶を、嬉しそうに振り回しながら自分の部屋へ歩いていった。
その後ろ姿を、私は見えなくなるまで見送った。




