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痛みから3

*****



 吸い込んだ空気が、細かな氷の粒のように心と身体を凍らせた。


 恋人が永遠に眠る場所を見つけたとき、アンウォーゼル捜査官はどんな気持ちだっただろう。私には想像することしかできない。


 もし私だったら……私の恋人が、親友の過ちで命を落としたとしたら。


 自分の親友が他人の命を奪う行為を見過ごす人間だとは思わない。だから、きっとやむにやまれぬ事情があったのだと……


 本当にそう考えることができるの、本当に?


 自分の知らないところで失われた命を、かけがえのない人の死を、それほど簡単に納得して受け入れられるの? 信頼する親友が直接手を下したわけではないとしても。


 当たり前のことだけど、失われた命は決して戻らない。

 いわれのない暴力を受けたとき、亡くなった恋人はどんな気持ちだったか。逃れられない恐怖と絶望に、たった一人で抗えないまま……どれだけ辛く悲しく、怖くて無念だっただろう。想像しただけで、野蛮な行為を働いた人たちへの怒りがこみあげてくる。


 そんな愚か者たちはもちろんのこと、彼らに関わったすべての人間……彼らをこの世に生み出して暴挙を働くように育てあげた親や、彼らを愛する兄弟、親友、恋人、肩を並べて働いていた同僚や上官……その人たちがみんな、彼らを容認する存在に見え、恋人を殺したことにすら加担していたようにすら思えて……


 胃壁に魔物が毒の爪を立てたような黒い痛みが走って、想像の感情から浮かびあがったとき、愕然とした。


 私の想像は、どんなに考えたとしても経験の伴わない浅いものでしかない。アンウォーゼル捜査官の苦しみは、私が今感じたものよりずっと重いはずだった。


「わかっているんです。誰を責めても仕方のないことだというのは。

 かといって、こんなことが許されていいはずがない。レオニーは罪で命を落としたのではない、卑劣な暴力に命を奪われたのですから」


 いつの間にか、食堂にいるのは私とアンウォーゼル捜査官の二人だけになっていた。


「だから、ローフェンディアに渡ったときも、あいつには会わずに帰りました。

 あのとき、あいつの顔を見ていたら、自分が何をしでかすかわからなかった」


 その言葉と同時に、琥珀色の瞳が見たことのない輝きを放った。今までの私の人生の中で、初めて目にした光だった。


 いきいきとしたと言ってもいいのかもしれない。だけど、そう呼ぶには強すぎるような歪んでいるような……どこか普通の精神状態から外れてしまったもののように思えて、アンウォーゼル捜査官と接しているのが恐ろしくなった。


 私が怯えているのに気づいているのかはわからなかったけど、アンウォーゼル捜査官は烈しい眼光を収めることなく、そのまま言葉を継いだ。


「今にして思えば、あのときあいつと、殴り合いの大喧嘩をしていた方がよかったのかもしれませんね。そうすれば、この思いも早いうちに清算できたのかもしれない」


 淡々としているというより、すがすがしささえ感じるような口調に、心が警鐘を鳴らし始めた。

 アンウォーゼル捜査官は、あの事件で受けた心の痛みを、今もまだ塞がらないまま負っているような気がしてならなかった。


「レオニーとのことは誰にも話していませんでしたから、あの事件の後でも縁談の話が絶えなくてね……今もですが」


 アンウォーゼル捜査官は意味ありげに私を見つめた。私との縁談もきっと苦痛だったんだろうと思うと、申し訳ない気持ちになった。


 でもだとしたら、どうしてこの前はあんな思わせぶりな態度を見せたんだろう。ただの気まぐれなのか、それとも、自分より幸せな立場の者……私やユートレクトへの皮肉のつもりだったの?


 そこまで考えて、自分の思考回路の卑しさが恥ずかしくなった。

 自分のことならいっこうに構わないけど、他人の心を勝手によくないように想像するなんて、失礼極まりないことだった。


「レオニーのことは、両親に反対されるのが眼に見えていましたから、頃合を見て話そうと思っていたのです。私自身も『世界機構』に入って間もないこともありましたし。

 ですが、もっと早く誰かに打ち明けておけばよかったと後悔しましたよ」


 心臓がどんどん鼓動を高めていくのがわかる。暑くもないのに額に汗がにじんできて、無性に不快だった。


 自分のことをそんな風に話さないでほしかった。なんでもないことみたいに、他人事みたいに、そんな風に思っているわけないのに、さわやかな声で。


 目を見ればわかるもの、本当は今でも……


 愛する人を失った痛みに、この人はずっと一人で耐えてきた。十年もの長い年月のあいだ。

 きっと何度となく自分の中で葛藤したはずだった。彼女を死に追いやった者たちを許せない思いと、加害者たちを憎んでも彼女は帰ってこない事実のはざまで。まして、彼女の死に親友が関わっていたとなったら……


 たった一人胸の内で悩み苦しんで、どうにか思いを昇華させようとしているうちに、出口を見出せないまま、心が理性の軌道を外れてしまったのだとしたら?

 行き場のないまま心の中をさまよい続けた思いが、復讐という形であふれだそうとしているのだとしたら?


 やめて、そんなことありえない、あってはいけないことなんだから……


 アンウォーゼル捜査官から眼をそらしてはいけない。本当は怖いけど、彼は私以上に辛い思いをしてきたんだから。その痛みを少しでも和らげたいなら……ユートレクトとの関係を元に戻してほしいのなら。


「一人で抱えているうちに、自分でも感情が抑えられなくなってね。頭ではわかっていても、心が納得してくれないのですよ」


 相変わらず小さいけどはっきりと聞き取れる声が、私の胸を最後の一撃のように突き刺した。

 アンウォーゼル捜査官の瞳が、歪んだ光で私を捉えていた。


「あの事件依頼、あいつが各地を転々としていると聞いて、いい気味だと思いました。

 軍隊に入ったと聞いたときも、戦場で死んでしまえばいいと思いました。レオニーも死んだのだからおまえも死んで償えと」


 『死』という言葉……響きを、これほど恐ろしく、嫌悪感を持って耳にしたことはなかった。自分の死について考えた時さえ、こんな風に感じたことはなかった。


 アンウォーゼル捜査官は、心から死んでしまえばいいと思っていた。

 今はどう思っているのかはわからない…ううん、本当はもうわかってる。わかっているけど、認めたくなかった。怖くて悲しくてならなかった。


「あいつが貴国の宰相に就任したと聞いたとき、陛下には申し訳ありませんが、奴も落ちたと思いました。

 ローフェンディア皇族ともあろう者が、失礼ながら貴国のような小国に仕える身に、自らを貶めるとは思ってもみなかったのです」


 ユートレクトがセンチュリアに落ち着く以前……『世界最後の楽園』ことマスガナス諸島で隠遁生活をしていたときよりもっと昔、各国の重職に就いていたことがあるのは知っていた。

 だけど、その前にこんな事件があったとは思ってもいなかった。


 もっとも、あちこちの国に仕えていたというと聞こえはいいけど、過去に仕えていた国々では、主君や閣僚たちと衝突ばかりしていたみたいだった。

 どうして衝突を繰り返していたのか……ローフェンディアの威光をかざしていばり散らす人じゃない。


 『バルサックの悪夢』があったからこそ、今の彼がある。今ならそれが痛いほどよくわかる。


 もう二度と民を苦しめたくない、苦しめない。

 その一心でいろいろな提案をしたけど、どの国にも受け入れられなくて……だから、諸国を転々としていたんだ。


 彼が仕えたことがある国家の現状を思い返せば、すぐにわかることだった。

 どの国も困窮を極めているのに、統治者たちは自分の保身にばかり必死で、何も手を打とうとしていない……そんな国ばかりだった。


「あなたを見てすぐにわかりました。なぜあいつがこの国に腰を据えているのか。

 あいつは落ちてなどいなかった。本当に自分を必要とする主君に出会い、自分の償いができる場所を見出したのだと思いました」


 アンウォーゼル捜査官の瞳は、いまだに私を怯えさせる光を放っていた。声も表情に釣り合わないほど落ち着いたもので、本心が全く量れない。


 アンウォーゼル捜査官が心からそう思っているのなら、心の中ではユートレクトを許しているの?

 昨日、ユートレクトは許されなかったと言っていたけど、本当はもう許しているのに、彼に告げていないだけなの?


 だけど、アンウォーゼル捜査官の次の言葉に、そんな考えは浅はかなものだと思い知らされることになった。


「それでも、私は素直に喜んでやれないのですよ。ここまでわかっているのにです。

 きっと、私はとうの昔におかしくなっているのでしょう」



******



 表から帰路につく官吏たちの声が聞こえた。


 現実を思い起こさせる明るい声に、いつの間にかアンウォーゼル捜査官の心に囚われて、逃れられないような錯覚に落ちていたことに気がついた。それだけ、アンウォーゼル捜査官の言葉に衝撃を受けたのだと思う。


「陛下」

「……はい」


 乾上がった喉に無理に声を出させたけど、出てきたのは衝撃から立ち直れていない弱々しい声だった。


「以前にも申し上げましたが、あいつを宜しくお願いします」


 以前みたいにすぐ言葉を返せなかった。


 アンウォーゼル捜査官の心の闇を目の当たりにした今では、なぜか即答すれば彼を傷つけてしまうように思えてならなかった。

 私が黙ったままでいると、


「私の中に、二人の私がいるんです。あいつの親友である私と、レオニーの恋人であった私が。

 決着をつけようとする私を、もう一方の私は必死に止めるんです、今でも……」


 やっぱり、アンウォーゼル捜査官は一人で苦しんでいたんだ、長い間ずっと。


 誰にも心の痛みを打ち明けないまま、理性と狂気のあいだで葛藤し続けるのは、どれほど辛いことだっただろう。


 私の心を縮こませる光をたたえた瞳の奥で、幾度となくはちきれそうになった感情が、今にもあふれ出しそうにうねりをあげているように見えた。


「敵討ちなど、ばかげた行為であることは重々承知しています。

 でもね、あいつにはあいつのことを大切に思う人間が大勢いる。レオニーには私しかいないんですよ」


 そんなことない。

 レオニーさんにはアンウォーゼル捜査官しかいなかったなんて、そんなことなかったはず。


 止めなくちゃ。

 これ以上、あの事件で命を失う人が出ることこそ、レオニーさんは望まないはずだから。


「そんなこと……ありません」


 こんなことを言えば、ユートレクトからすべて聞いたことを認めることになるけど、もう黙ってはいられなかった。アンウォーゼル捜査官のためにも。


「私にこのようなことを申し上げる資格はないことは、重々承知していますが、あえて申し上げます。

 ユートレクトは、あのときのことを心から悔いていました。処刑された人たちのことを、忘れるはずなどありません。自分の命を差し出して彼らが生き返るのなら、何度でも命を投げ出すでしょう。

 ですが、そんなことはできません。そんなことをしても亡くなった方は生き返りませんし、人に命は一つしかないのですから。

 だからこそ命は尊いもので、簡単に失われてはいけないと思います。

 彼は何を言われようと、生きて償う道を選んだのだと私は思っています。

 それに、レオニーさんは、とてもお優しい方だったとお見受けします。敵討ちなどを望まれる方ではないと思うのです。ですから、どうか」


 まだ……言いたいことを、言わなくちゃいけないことを全部伝えられていないけど、これ以上言葉が出てこなかった。何をどう言えば、アンウォーゼル捜査官の心を鎮め、変えることができるのかわからなかった。

 自分の経験不足が、他人を思いやる心の小ささが、悔しくてならなかった。


「そうおっしゃると思いました。ですが、私の意思は変わりません。近いうちに私はあいつを討ちます、それが終われば」


 終われば……


 その言葉の続きはわからないことにしておきたかった。

 本当はわかって……感じているけど、自分の中ですら言葉にはしたくなかった。

 言葉にしてしまったら、現実になってしまいそうで怖かった。


「今なら、大声をあげれば憲兵が駆けつけるでしょう。私を捕らえた方が、あなたがたのためにもなる。どうします」


 動けなかった。復讐だなんてよくないことだとわかっていても。


 アンウォーゼル捜査官の瞳からは、いつの間にか危険な光が消えていた。今にもあふれ出しそうだった激情も。

 その代わりに、誰にも侵すことのできないものが、アンウォーゼル捜査官の全身をとりまいたように思えた。


 圧倒された。

 アンウォーゼル捜査官の決意がよくないものだとわかっていても、私に向けて言ったことがそのとおりだとわかっていても、手が、唇が、動かせなかった。


 感じたのは恐怖ではなかった。うまく言えないけど、ひれ伏したいような許しを乞いたいような、おかしいのだけどそんな気持ちで心が震えていた。


 ……私だけ時間が止まってしまったかのように、身動きできないままでいると、食堂の入口の方から物音がした。

 靴音と共に入ってきたのはユートレクトだった。

 予期しなかった人の登場に、自分の顔がこわばるのがわかった。

 アンウォーゼル捜査官は、何事もなかったかのように表情をいつもの人懐っこいものに戻した。


「約束します、決して卑劣なまねはしないと。あなたに誓って」


 そして、私に顔を寄せてそう囁くと、空になったお皿の乗ったトレイを持って席を立った。


「相変わらず忙しそうだな」


 食器の返却口にトレイを置きに行く途中で、ユートレクトにかけた声音もいつものものに戻っていた。少し軽薄な感じもするけど、明るくて裏のない声。


 そんな旧友に対するユートレクトの態度もいつもどおりだった。アンウォーゼル捜査官が言っていた顔色の悪さもなかった。


「おまえは相変わらず暇そうだが、調査はまじめにしているのだろうな」


 朝以来聞いていなかった彼の声が、なぜかとても懐かしく……愛しく聞こえて、また涙があふれそうになった。

 もうそんな風に感じていい立場じゃないのに、声を聞いただけで、姿を見ただけで、どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。


 二人はたわいもないことを二言三言交わした後、それぞれ別の方向へ足を動かした。

 アンウォーゼル捜査官は、トレイを返却口へ戻すとこちらに軽く手を振って食堂を出て行った。

 彼に合わせて軽く会釈した目の前に、適温を通り越して冷たくなったきのこのリゾットが映った。そこからなんの気なしに伸ばした視界の先に、私のものではない別のトレイが現れた。


「そのたぐいは熱いうちに食っておけ。冷めるとまずいだろうが」


 夜定食がうっすらとあげる湯気の向こうから聞こえた声は、そう聞こえるはずがないのに、優しく温かく耳に響いて、少しの間顔を上げられなかった。

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