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痛みから4

*******



「あ、こ、これね、本当に熱かったから冷ましてたの。うん、今ならもう食べられそう」


 リゾットを一口分すくって口元に持っていきながら顔をあげると、やっぱりそこにはいつもの冷静すぎる顔があった。


 さっきまでアンウォーゼル捜査官と話していたせいで、ユートレクトと気まずかったことを忘れかけていたから、どんな態度をで接したらいいのか少し迷ったけど、今は彼に対するわだかまり以上に大事なことがある。


 アンウォーゼル捜査官の胸の内を、ユートレクトは知っているんだろうか。

 なんとなくだけど、彼ならもう知っている気がする。だけど、もしも知らなかったら……

 知らせたところでどうなるものでもないかもしれないし、もしかしたら、かえって彼を傷つけることになるかもしれない。

 でも、アンウォーゼル捜査官の告白は、私の中にだけ収めておくにはあまりにも大きすぎて……


 どうすればいいんだろう。どうしたら、誰の心も身体も、傷つかずに済むんだろう。


 悩んでいる間にも、ユートレクトは手と口を黙々と動かしていた。

 あと少しで夜定食を食べ終えようというところで、私のスプーンが止まっているのに目を止めると、小声でつぶやいた。


「早く食え、食ったらここを出る、話がある」


 心に甘い蜜がひとしずく落ちたような揺らめきが走った。私は何を期待したんだろう。


「なんの話?」


 愚かしく震えた心を振り払おうと固めた声は、いつもよりもずっと冷たいものになってしまった。

 こんな風に自分を繕わなくては平静を保てないなんて。


「応接室で話す」

「執務室じゃだめなの?」


 応接室は私的な場所だから入ってほしくなかった。昨日のことが頭の隅をちらつき始めて、胸が苦しくなる。


「信用をなくしたか、無理もないが」

「ち、違うよ、そういうつもりじゃなくて」


 首を横に振って、甘く苦い痛みに押し流されそうになるのを必死で抑えた。


 どうしてそんな言い方をするの?

 私のこと、はしたない女だと思ったんでしょう、だから帰ったんでしょう?

 信用をなくしたのは、愛想を尽かされたのは私のはずなのにどうして?


 本当は私のこと、どう思ってるの?


 こんなこと怖くて死んでも聞けないけど、信用をなくしたなんてことは絶対にないから、言葉を足そうと口を開きかけたときだった。


 入り口の方が騒がしくなって、下級官吏の集団が何組かなだれこんできた。ようやく飯にありつける、などと大声ではしゃいでいる。

 こちらには注意を向けていないみたいだけど、ごく私的な会話は控えるべきだった。


「わかった……」


 これ以上こみ入った話になって、他人の耳に入ったらやっかいなことになる。

 仕方ないけどおとなしく従うことにして、冷たくなったきのこのリゾットを急いで胃に収めた。




 応接室に入っても、ユートレクトはいつもなら勧めなくても上座に腰かけるのに、今日は立ったまま座ろうとしなかった。

 私もなんだか落ち着かなくて腰かけられないまま、しばらく沈黙が続いた。


「明日は」


 どこへ目を向けていいか困って、窓の方に視線を運んだときだった。


「本当に大丈夫なんだな」


 いつもどおりの冷静すぎる声に、頭から冷たい水をかけられたようにわれに戻った。


 東19番街の視察。


 今朝彼にぶつけた乱暴な言葉を思い出すと、恥ずかしさと情けなさで喉が塞がりそうになる。

 謝らなくちゃ、明日は絶対連れて行ってもらわなくちゃ。


「も、もちろんよ!」


 主君として、臣下として。それ以上は……


「今朝は……ごめんなさい。言われたとおり、私、大人げなくて」


 もう望まないから。


「でもね、やっぱり東19番街のことは、早く見ておかなくちゃいけないと思うの、意地とかじゃなくて。女王として、この国のことを知らないままじゃ恥ずかしいもの。だから、明日はお願いだから連れて行って」


 水色の瞳が険しい光で私を捉えた。

 いつもなら、怖くてうつむいてしまったかもしれない。でも、今は目をそむけようとは思わなかった。女王としての自覚が足りなかった自分からは。


 ユートレクトは私の言葉から本心を量るようにしばらく黙っていたけど、


「そうか、では何も言うことはない」


 そう口にしたときには、瞳からは険しさがなくなっていた。その代わり、表情からは何を考えているのか余計見えなくなった。


 私の決意は認めてくれたのだとと思う。だけど、他にもたくさんのことを考えていて、それを全部押し殺しているように見えてならなかった。


「今日は早く休め」


 今度は空耳じゃなかった。耳より心より先に、身体が感じ取った。

 さきほどまでとは明らかに違う響きの不器用な温もりが、全身を包んで私の内側にしみこんでくる。


 ……いやだ、行かないで。


 どうしてってそれは……言わないといけないことがあるから。

 いまだにどう話せばいいのかわからないけど、やっぱり伝えた方がいいと思うから。アンウォーゼル捜査官と話したこと。


「あ、あのね、さっき、アンウォーゼル捜査官と話してたの」


 温もりに覚まされた痛みには気づかないふりをして、私は出て行こうとするユートレクトを引きとめた。


「知っている、さきほど見た」

「うん……」


 自分の中で何からどう話せばいいのか、まとめられていないままだったから、すぐには話し出せなくて言葉に詰まっていると、ユートレクトは戸口に向けていた身体をこちらへ返して戻ってきた。


「何が言いたい」


 わずかに細められた目に、私が何を言おうとしているのかを感じ取られたような気がして、鼓動が早くなる。


 どうして呼びとめてしまったんだろう。考えなしに話したら、彼を傷つけてしまうかもしれないのに。どうにかして伝えなくちゃいけないことなのは確かだけど……


 悔やみながらも、私は言葉にできない心の奥で気づいていた。女性としての感情に突き動かされたことに。


 まだ離れたくない、そばにいたい。

 なにより温かく身体にしみた声に……期待した。


 もしかしたら『本当のこと』を話してもらえるんじゃないかって。そうしたら、また彼のとなりにいられるかもしれないんじゃないかって。


 ごめんなさい、こんなみっともない女で、考えなしな女で。女性を捨てるって誓ったはずなのに。

 大切な親友のことを言い訳にして引きとめるなんて、私はどれだけ卑怯な人間なんだろう。


 みじめな気持ちに押しつぶされそうになったけど、今は自分を憐れんでいるときじゃない。


 心の中で頭を振って、甘えた妄想を追い出した。情けない理由で持ち出した話題には、本当ならもう触れたくなかったけど、自分から口にしたことには責任を持たなくちゃいけないし、大事なことなのに変わりはない。


 それに、アンウォーゼル捜査官のことを話せる機会……こうして私的な場で二人になることなんて、もうないはずなんだから、だって私は……


 だとしたら、やっぱり今話さなくちゃいけないんだ。


「アンウォーゼル捜査官ね、私が全部知ってること、知ってた」


 歯切れ悪く黙りこくった後の台詞に、なんて答えてくれるだろうと思っていると、返ってきたのは一言だけだった。


「そうだろうな」



********



「そうだろうなって……どうしてわかるの」


 当たり前のことみたいな口ぶりが信じられなくて、思わず聞き返したけど、


「学士院時代からの付き合いだ、互いに手のうちは知り尽くしている。それだけだ」


 淡々とした、寂しげにも聞こえる声にそう言われて、何も反論できなくなった。


 ということは、ユートレクトもやっぱりアンウォーゼル捜査官の本心を知っているの?

 あの心の闇を、行き場のない思いがたどり着いた先を。


「どうにもならないの?」

「何がだ」


 こんな言葉しか出てこないことが情けなかったけど、口にせずにはいられなかった。

 だって、わかり合っているはずなのに、対立しなくちゃいけないなんて。


 お互いがすべて承知のうえなのかと思うと、やりきれない気持ちになるし、傷口をえぐるようなことを口にするのはいやだった。


 けど、もしかしたら、本人たちでない誰かが諭したら、歩み寄れるかもしれない。

 アンウォーゼル捜査官には遠慮もあって強く言えなかったけど、この人にだったら言える……ううん、たとえ言いづらくたって言わなくちゃ。昨夜のことを気にしてる場合じゃない。


「やっぱりよくないよ、親友同士なのにこんな……このままなんて」


 それでも、率直な言葉を使うのには勇気が出なくて、歯切れを悪くしていると、


「わかっている」


 私の言いたいことなんて聞くまでもないという風に遮られた。


「だが、俺に奴を止める権利はない」


 申し訳なくなるほど落ち着いた声だった。


 はっきり言わないことで、かえっていらだたせてしまったかもしれない。彼がそういった態度を全く出していないだけに、余計に申し訳なくなった。


「俺がすべきことは、あの事件の犠牲者をこれ以上出さないことだ」


 あの事件、とまで聞こえたとき、頭の中に見たことないはずの『あの事件』の光景が浮かびあがって心が凍りついた。


「誰も巻き添えにはしない」


 その声にも…『誰も』という響きにも、言いようのない不安を感じて息が詰まりそうになった。

 命を落とすときは自分たちの命だけを、とでも言っているような気がしてならなかった。


 心の中で頭を振ると、乾いてきた喉をこじ開けるようにして声を出した。


「あんたも……アンウォーゼル捜査官も、だよ?」


 誰も巻き込まなければ、過去が清算されるわけじゃない。亡くなった人たちが許してくれるわけでもない。


 そんなこと、私が言わなくてもわかっているはずだけど、言わずにはいられなかった。不安を自分の内にだけに留めておけなかったからかもしれない。


「誰も、もういなくなっちゃだめなんだから」

「わかっている」


 いつもに増して感情を抑えた声に、胸が苦しくなってうつむくと、大きな手がきつく握りしめられているのが見えた。


 どれほどの感情を堪(こら)えているんだろう。それを考えると、なんとかしてあげたくてたまらなかった。冷たくなっているかもしれない手を、温めてあげたかった。

 でも、私にはもうその権利はなくて……

 もしかしたら、まだあるのかもしれないけど、その権利を使う勇気は湧いてこなかった。異性として彼に接するのが怖かった。


 どうか二人が本当に衝突するなんて、ありませんように、どうか……


 願いを呪文のように胸の内で唱えていると、


「昨日は、悪かった」


 突然声がしてわれに帰った。


 何を言っているのかすぐにはわからなくて、言葉を返せないでいると、


「自分がいかに弱い人間だということがよくわかった」


 昨夜のあのことを言っているのだと判ると、この場からすぐに溶けてなくなりたいくらい恥ずかしくなった。


 だけど、拒まれたのは私のせいで……私のせいなはずで。どうして今になって謝るの?


 昨夜のことを思い出すと心が砕けそうになるから、もう考えたくなかった、というより考えられなかった。

 はっきりと思い返すまでに、頭の中に霧のようなものが降りてきて回想をさえぎった。


 見えなくなったのは回想だけじゃなかった。まぶたの裏がだんだん熱くなってきて、目の前が霞んでいくのがわかった。


 泣いてる場合じゃないのに。何か言わなくちゃいけないのに。


 どうして『弱い人間だ』なんて言うの?

 あなたが弱かったら、私なんて一体どうなるの?

 悪いのは私……あなたの気持ちも考えずに一人で舞い上がって、恥ずかしい姿をさらけだしたから。そうなんでしょう?


 それを今になって悪かっただなんて。


 何が悪かったっていうの?

 あんなことをしたこと、あんな言葉を投げつけたこと?

 それとも、もっと他のこと?


 もう私にはわからないよ、はっきり言ってよ!

 私がどれだけ傷ついたかわかるの、あんな言葉を残しておいて!


 いつもの私と……女性として見てもらって、厚かましい自信を抱いた私とが、正反対の方向に爆発しそうになっていた。それを堪えるのに精一杯で、首を横に振ることしかできなかった。


「すまなかった」


 謝って欲しいわけじゃないのに、聞こえてきたのは、痛々しいほどかすれた声だった。


 きっと、私は意識しないうちにわかってたんだと思う。

 あのときの私は間違っていないと。

 彼はあのときの私を軽蔑しているのではないと。

 そんな理由で女性を嫌う人じゃないはずだから。


 だからこそ、こんなにも心が痛くて荒れ狂う。


 どうしてあんなこと言ったの、どうして出て行ってしまったの、どうして、どうして、どうして!?


 わからなくてごめんね、でも、どうしてもわからないよ……


 それでも……これほど心のなかでは叫べるのに、『どうして』の一言が出てこなかった。


 感傷的に叫び散らしてしまいそうだったからかもしれない。

 自分から本当の理由を聞くのが怖かったからかもしれない。

 けれど、それだけではないような気もしていた。


「弱くないよ」


 私は特にみっともない爆発を起こしそうな方……女性として持ってしまった図々しい気持ちを抑えることにした。


「ユートレクトは、強いよ。あんたで弱かったら、私なんてどうなるの」


 そう言いながら少しずつ足が扉へ向かっていた。感情が噴き出てしまう前に、彼の前から姿を消したかった。


「私が……浮かれてたから悪かったんだから。本当にごめんなさい」


 これは本当にそう思うから、心から謝った。そんなつもりは全然なかったけど、神様におまえは浮かれていたと言われたら、反論できそうにないから。


「違う」

「違わないよ」


 とっさに否定して。


 言ってから後悔した。


 今までにたくさん彼の言葉を聞いてきて、もう全部知っているつもりでいた。

 でもそれは、思いあがりでしかなかった。


 怒っているのかも、苦しんでいるのかもわからない。

 悲しんでいるのかも、投げ出しているのかも。


 だけど、わずかにだけど震えているようにも聞こえた声は、それらを全部足してもまだ届かない、暗くて重い負の感情を隠しているのがわかるものだった。


 聞いてはいけない声を聞いてしまった気がして、急に恐ろしくなった。

 もしかして、私、また言ってはいけないことを口にしたの?

 そんな弱気が湧いてきてしまうほどの声だった。


「当の本人が違うと言っている」


 さっきより長く、部屋に響いた声を聞いて確信した。じゃあどう違うの、なんて気軽に訊ける声じゃなかった。


 でも、だとしたら本当に一体、どう違うというんだろう。


 単細胞の私には考えもつかないほど、昨夜のことには実はいろいろな事情があって、その結果、さっぱり全然わからないけど、なぜか私に悪いと思ってる……とでもいうの?


 こんな声になるまで思いつめていることを、無理に訊きたくはなかった。

 これ以上私のことで苦しんでほしくなかった。他にも考えなくちゃいけないことは、山のようにあるのに。


 もしかして、実はやっぱり私がまた余計なこと言ったとか……過去を振り返ると、大いにありえるからそれも怖かった。


「わかったよ、うん、違うんだね。いいよ、もう何も訊かないから、ごめんね」


 少なくても……多分、今は何も悪いことをしてないはずだけど、ごめんねと言わずにいられなかった。

 ここまで彼を追いつめたのが、もしも本当に私だとしたら、いつの間にそんなことをしたの、私は……


 だめだめ、まだ落ち込むときじゃない、今はとりあえずこの場をなんとかしなくちゃ。


 こんな声を聞かれるのは、きっといやに決まってるもの、それなら今日はもう帰してあげなくちゃ。


 瞳を覆っていた涙は、いつの間にか消えていた。

 今まで爆発しそうだった気持ちたちの存在も、すっかり忘れてしまっていた。


 私はなけなしの気力を奮い起こすと、改めてユートレクトの顔を見た。


 相変わらず感情の読めない顔をしていると思っていたのに、視界の先にあったのは、さっき聞いた声と同じ……負の感情をまとった表情だった。こんな顔だって、絶対見られたくないに決まってる。


「き、昨日の話は、もうするのやめよう? 私はなんとも思ってないから。

 お願いだからもう謝らないで、ね? 明日はちゃんと視察に行くから。

 今日はもう遅いから帰ろう? ゆっくり休んだ方がいいよ、年明けからずっと忙しいんだもの」


 自分が言っていることが、正しいことなのかわからなかった。でも、この状況を…彼の気持ちをどうにか変えたくて、不自然に聞こえない程度の明るい声を出した。


 本当は『どうして』と訊かなくちゃいけなかったのかもしれない。


 どうしてそんなに辛そうなの、また私が悪いことをしたから?

 どうして自分が弱いだなんて言うの?

 どうして自分が悪かっただなんて言うの?


 どうしてあんなこと言ったの?

 どうして出て行ってしまったの?


 言えなかった……言わなかったのは、どうしてだろう。


 今までの中でも、一番長く思えた気まずい沈黙を破って聞こえてきたのは、


「……わかった」


 色も音も、暗くて重いまま、小さくなっただけの声だった。


 そうつぶやいても、ユートレクトはいっこうに動こうとしなかった。

 押し黙ったままの姿に、全てを拒絶するような近寄りがたい空気を感じた。


 いつもなら、もっと何か言えるはずなのに、今はこれ以上言えなかった。


 言えなかった……言わなかったのは。


 胸をわしづかみされるような痛みをこらえて、私は一人で応接室を出ることにした。


 ごめんね、一人にしてあげることしかできなくて、ごめんね。


「それじゃあ、おやすみなさい……また明日」


 こんなにも、明日が来るのを重苦しく感じたことはなかった。

 そっと閉めたはずの応接室の扉が、硬く冷たい音をたてた。




『どうして』


 たったその一言が。


 言えなかった……言わなかったのは、本当は。




 気づいたときには、日付はもう変わっていた。

 それでも……彼がいないとわかっていても、応接室に向かわずにはいられなかった。


 彼の心の傷を広げたくない、何もできないなら、せめてそっとしておいてあげたい。

 それも本心だったけれど、これ以上傷つきたくないと思っていたのは、私だった。




 感傷的に叫び散らしてしまいそうだったから?

 軽蔑されたってわめき散らせばよかった、今にして思えば。

 自分から本当の理由を聞くのが怖かったから?


 そう、どうして怖かったの……?


 彼の言葉でまた自分が傷つくのが怖かったからに他ならなかった。


 もしかしたら、自分からはとても言いづらいことを抱えていたかもしれないのに。

 だからこそ、あんなに暗く重く打ちのめされたような顔をしていたかもしれないのに。


 いくら私が今までにないほど傷ついていたとしても……!




 私は自分が受けるかもしれない傷を恐れて、大切な人の痛みを置き去りにした。




 暗闇の中、自分のすすり泣く声が応接室にむなしく響いた。

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