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盤上に咲く幼竜  作者: ぬっく~


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第三十二話 静かな刃

 東大寺の一将が仕掛けた瞬間、しおりはようやく相手の輪郭をはっきりと掴んだ。


 この相手は、受けるために静かなのではない。


 刺すために静かだ。


 盤の上で余計な音を立てない。自分から大きく揺らさない。けれど、一度こちらが呼吸を乱せば、その乱れにだけ刃を差し込んでくる。海城のような整った重さでもない。白陵のような嫌味の積み重ねでもない。もっと自然で、もっと深く、もっと気づきにくい種類の圧だった。


 しおりは目の前の局面を見つめる。


 歩の交換は終わっている。

 角筋はすでに通っている。

 銀の位置も、互いに中途半端ではない。


 どちらも戦う形だ。

 だが、戦うと言っても派手にぶつかるのではない。相手の呼吸をひとつずつ奪いながら、最後に盤ごと閉じるような勝負になる。


 東大寺の一将が小さく言った。


「思った以上に、怖くないですね」


 しおりは視線を上げない。


「そうですか」


「ええ。もっと強引に来ると思っていました」


「来てほしかったですか」


「その方がわかりやすいので」


 しおりの口元が、わずかにだけ動く。


「残念でしたね」


 そのやり取りの直後、相手がさらに踏み込んだ。


 銀が前へ出る。


 それ自体は無理な手ではない。むしろ、今この局面で最も自然に見える進出だった。中央の圧を高め、こちらの応手を限定し、次の飛車の使い道まで見ている。


 強い。


 しおりは一瞬でそう判断する。


 見えている枝の数が多い相手ではない。

 最初から不要な枝を切り落としている。

 必要な筋だけを残して、その中で一番深いところへ来る。


 だから読みやすい部分もある。


 だが、その「読みやすさ」が罠だ。相手もまた、こちらにそう思わせることまで含めて盤面を作っている可能性がある。


 しおりはすぐには応じなかった。


 一度、盤全体を見る。


 右辺。

 中央。

 左の駒組み。

 持ち駒。

 玉形。


 盤全体の釣り合いの中で、今の銀上がりが本当に主戦場なのかを確かめる。もし違うなら、そこで応じた時点で相手の土俵に乗る。


 数秒後、しおりはまったく別の場所へ手を入れた。


 こと。


 小さな駒音。


 だが、その一手を見た瞬間、東大寺の一将の眉がわずかに動いた。


「……そっちですか」


「嫌でしたか」


「かなり」


 言いながらも、相手はすぐに次を返す。


 早い。

 しかも、揺れない。


 予定をずらされても、表情が崩れない。それどころか、ずらされた後の盤面の方が好みだとでも言うような落ち着きがある。


 しおりの胸の奥で、静かに火がつく。


 いい。


 ようやく、本当にいい相手が来た。


 凛々花との勝負は熱だった。

 白陵の一将は鋼だった。

 だが、目の前の東大寺の一将は水に近い。


 形を変える。

 受け流す。

 しかし流されない。


 どれだけ切り込んでも、気づけばこちらの足場の方が濡れている。そういう相手だった。


 右隣では坂本がすでに厳しい顔をしていた。


 相手二将は、やはり三枝の見立て通りだった。待てる。異常なほど待てる。少し有利そうに見える局面でも、そこで欲張らない。坂本の焦れを誘い、前に出た瞬間だけを狩りに来る。白陵の二将が終盤の刃なら、東大寺の二将は中盤の檻だった。


 左の黒田も苦戦している。


 相手三将は受けるように見えて、要所でしか受けていない。守っているのではなく、黒田に「攻めさせている」。攻めているつもりで、気づけば自分の駒だけが前へ伸び、玉のまわりが薄くなる。そういう形へ導いていた。


 三面とも苦しい。


 全国の頂点に近い場所とは、こういうものなのだろうとしおりは思う。


 一将だけが勝てばいいのではない。

 二将だけが粘ればいいのでもない。

 三将だけが取りこぼさなければ済む話でもない。


 三つ全部を同時に、同じ温度で刈り取りに来る。


 東大寺学園という学校そのものが、そういう形をしていた。


 しおりは目の前の盤へ意識を戻す。


 相手の銀が前へ出たことで、中央の圧力は確かに増している。だが、その分だけ別の箇所にゆるみが生まれた。極端に薄いわけではない。普通の相手なら見逃す程度の、ごく微細な継ぎ目。


 しかし、しおりはそこを見逃さない。


 今すぐ切る場所ではない。

 だが、数手後に必ず意味を持つ。


 東大寺の一将が言った「終わる将棋」という言葉が、しおりの頭の中で静かに反芻される。


 気づいた時には終わっている。


 ならば、その終わりをこちらが先に仕込めばいい。


 しおりは一手ずつ、何気ない顔でそこへ向かう道を敷き始めた。


 露骨な攻めではない。

 受けでもない。

 ただ、後から振り返った時にしか意味がわからないような位置へ、駒を置いていく。


 東大寺の一将は、それをちゃんと見ていた。


「準備してますね」


「何のですか」


「終わり方を」


 しおりは少しだけ考え、それから言った。


「あなたもでしょう」


 相手は否定しなかった。


 その無言こそが答えだった。


 数手後、局面はさらに深くなる。


 東大寺の一将が、こちらの玉頭にわずかな圧をかけた。

 しおりはそこで初めて、真正面から応じた。


 歩を合わせる。

 角の利きを通す。

 金を寄る。


 受けているようで、受けていない。

 相手の手順を認めるようでいて、その実、ひとつ上の段で封じている。


 東大寺の一将の指先が、そこで初めてわずかに止まった。


「難しいですね」


「はい」


「楽しいですか」


「少しだけ」


「僕もです」


 盤上でしか通じない会話だった。


 周囲から見れば静かな一局に見えるかもしれない。派手な飛車切りもない。大駒の乱舞もない。だが、そこにある読みの密度だけは、これまでのどの相手よりも濃かった。


 右隣で坂本が小さく息を吐く。


 まずい。


 しおりは見なくてもわかった。


 相手二将が坂本の得意形を外しきった。形勢が悪いというより、息苦しい。受けても受けても出口が見えない局面へ入っている。まだ致命傷ではない。だが、このまま何も起こせなければ、じわじわ死ぬ。


 左の黒田も、盤面の温度が上がり始めていた。あちらは逆だ。相手三将がようやく前へ出てきた。受け切るだけでは間に合わないと判断したのだろう。ここからは、黒田が自分の将棋を通せるかどうかになる。


 しおりは静かに息を吸う。


 ここで自分が流れを引かなければいけない。


 焦る必要はない。

 だが遅れてもいけない。


 東大寺の一将はそういう焦りを誘うのが上手い相手だ。味方の危機が見えている時に、あえてこちらの急ぎを待つ。急げば荒くなる。荒くなれば、その瞬間だけを狩れる。


 だから、急がない。


 急がずに、速くする。


 しおりはその矛盾した答えを、盤上でやるしかなかった。


 次の一手は、これまでより少しだけ深い場所へ入る手だった。


 こと。


 東大寺の一将が、はっきりと黙った。


 盤上に変化が生まれる。


 露骨に何かを取ったわけではない。

 だが今の一手で、しおりは主戦場を中央から少しずらした。相手の攻めの本線を、細い横道へ逸らしたのだ。そこを通るしかないが、通れば苦しい。そんな道を、静かに一本作った。


「……そう来ますか」


「変でしたか」


「変というより」


 相手はそこで少し言葉を探した。


「性格が悪いですね」


「ありがとうございます」


「褒めてません」


「知ってます」


 東大寺の一将は小さく息を吐き、読み直しに入る。


 ここで初めて、しおりは自分が相手の呼吸をひとつ奪ったことを確信した。


 まだ優勢ではない。

 まだ勝っていない。

 だが、主導権の角度がほんの少し変わった。


 それだけで十分だった。


 相手は受ける。

 しおりはさらに一段潜る。

 相手が別の筋を見せる。

 しおりはそこで受けず、盤全体の形で無効化する。


 数手が流れるたびに、観戦席の空気が濃くなる。


 誰もが気づき始めていた。


 この一将戦は、派手さのないまま決定的なところへ向かっている。

 しかも、気づけばしおりの側がわずかに主導権を握っている。


 東大寺の一将も、それを理解したのだろう。


 だからこそ、次の一手で初めて強く踏み込んだ。


 歩ではない。

 銀でもない。


 もっと重い駒が、一歩前へ出る。


 それは局面の均衡を保つための手ではなかった。

 このまま細く削られ続けるより、ここで戦場そのものを変えるという決断だった。


 強い。


 しおりは心の底でそう思った。


 そこから逃げず、そこを選べるなら本物だ。


 ならば、こちらも受けて立つしかない。


 しおりの指先が、ゆっくりと次の駒へ触れる。


 ここから先、盤上の水は凍る。


 静かなまま、

 冷たいまま、

 一気に割れる。


 そんな予感が、会場全体に広がっていた。

あとがき


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価をしていただけると、とても励みになります。


また、作品への感想やコメントも大歓迎です。

「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。


いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。


それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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