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盤上に咲く幼竜  作者: ぬっく~


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第三十話 白い壁の裂け目

 しおりの指先が駒に触れた瞬間、向かいの白陵の一将の目がわずかに細くなった。


 盤上は静かだった。


 駒組みが終わり、中盤の入り口を越え、互いに刃を見せながらまだ致命傷は避けている。大きな駒損はない。派手な斬り合いにもなっていない。けれど、ここで一度でも足を滑らせれば、そのまま底まで落ちる。そういう局面だった。


 しおりは相手の陣にある細い継ぎ目を見ていた。


 今はまだ傷ではない。

 ただ、そこだけが少し呼吸をしている。


 金と銀の連結。

 角の利き。

 飛車先の圧。

 玉の逃げ道。


 盤の上にある全部が噛み合っているように見えて、その一点だけが、数手後に裂ける形をしていた。


 白陵の一将も、それを見られていることに気づいていた。


「……そこですか」


 低い声だった。


 しおりは駒を置く。


 こと。


 小さな音だったのに、その一手で盤面の空気が変わった。


 会場の一将戦を見ていた数人の顧問が、ほとんど同時に顔を上げる。


 ただの攻めではない。

 形を乱すための一手でもない。


 相手の予定図をずらしながら、自分の勝ち筋だけを一段深く潜らせる手だった。


 白陵の一将はすぐには指さなかった。


 考えている。


 受ける手はある。

 だが、その受けは長い目で見れば窮屈になる。

 強く反発する手もある。

 けれど、その場合は別の場所に傷が開く。


 つまり、どの手を選んでも気分が悪い。


「嫌な手ですね」


「よく言われます」


 しおりは盤から目を離さずに答えた。


 相手はそこでほんの少しだけ笑った。


「あなた、本当にそういう人なんですね」


「何だと思ってたんですか」


「もっと勝ち急ぐ人かと」


「見たままです」


「見たまま、ですか」


 相手はようやく手を返した。


 最善に近い受けだった。

 白陵らしい、としおりは思う。嫌な形になっても、露骨に顔へ出さない。苦しい局面でも、まず一番長く生きる筋を取る。勝つためというより、負け方を汚さない将棋だ。


 強い。


 認めるしかない。


 だが、その強さごと踏み潰すために、しおりはここにいる。


 しおりは次の手をほとんど間を置かずに返した。


 そこから局面は急に速くなった。


 白陵の一将が銀を上がる。

 しおりが歩を取り込む。

 相手が飛車を寄る。

 しおりが角筋を通す。


 互いに手待ちはない。

 もう、先に息を切らした方が負ける将棋だった。


 右隣では坂本が歯を食いしばっていた。


 相手二将の将棋は、やはり嫌らしかった。大技はない。けれど、坂本が受け慣れた形を一つずつ外してくる。受け切れそうで受け切れない場所へ局面を誘導し、細い判断を何度も迫ってくる。


 左の黒田も楽ではない。三将戦はずっと低い温度のまま進んでいた。相手は崩れない。黒田が少しでも前のめりになれば、その瞬間だけを待っていたように差し返してくる。


 全国二回戦。


 三つとも地獄だった。


 けれど、しおりの胸には焦りより先に、静かな熱があった。


 これだ、と思う。


 こういう盤を踏み越えるために、あの県大会を抜けてきた。凛々花との代表決定戦も、白陵のような相手と向き合うための前段に過ぎない。強い相手がいる。逃げない相手がいる。自分の名前に飲まれず、最初から壊しに来る相手がいる。


 だったら、もう遠慮はいらない。


 白陵の一将が、わずかに先んじて攻めの歩を叩いた。


 しおりはそれを見て、すぐに受けない。


 別の場所へ一手入れる。


 相手の眉が、今度ははっきり動いた。


「そう受けますか」


「受けてませんよ」


「なお悪い」


「ありがとうございます」


「褒めてません」


 そのやり取りの直後、盤上の均衡が崩れた。


 白陵の一将は自分の予定図を修正せざるを得なくなった。

 しおりはそこを待っていた。


 相手が強い人間であるほど、予定図を崩された時の修正は鋭い。

 だが鋭いからこそ、どこを優先したかが見える。


 いま相手は玉形の安全を優先した。

 ならば攻め駒の連結が一瞬だけ薄い。


 しおりの指先が、そこへまっすぐ伸びる。


 こと。


 会場の空気が少しだけ揺れた。


 白陵の一将が初めて黙り込む。


 長い。


 かなり長い沈黙だった。


 観戦している者たちにも、ただならぬ一手だとわかる。無理攻めには見えない。決め手にもまだ見えない。だが、この一着が入ったことで、局面の主導権がどちらへ傾いたかだけは、はっきり伝わった。


「……なるほど」


 白陵の一将が、ようやく声を出した。


「怖がっていないわけじゃないんですね」


 しおりは何も言わない。


「壊れないんじゃない。壊れる前に、相手を先に押し潰してるだけだ」


 しおりはそこで初めて、少しだけ相手を見た。


「そう見えますか」


「見えます」


「なら、たぶん合ってます」


 相手は苦く笑った。


 そして、受けた。


 強い受けだった。

 ここで雑にならないから、全国まで来るのだろう。


 だが、しおりはその受けを待っていた。


 さらに一手。


 今度は駒音さえ静かだった。


 なのに、その一手を見た瞬間、白陵の一将の姿勢がわずかに変わる。前傾になる。目が鋭くなる。読むしかなくなったのだ。


 盤上のどこかが死んだ。


 まだ詰みではない。

 即投了の形でもない。


 けれど、どこをどう直しても、数手後に息が苦しくなる未来しか残っていない。


 その感触は、強い棋士ほど早く理解する。


 右隣で坂本の駒音が一度強く鳴った。


 まずい。


 かなりまずい。


 見なくてもわかる。相手二将が踏み込んできた。坂本は受け切るために、かなり細い手を選ばされている。このままなら先に折れるのは坂本の方だ。


 左の黒田はまだ互角。

 だが、互角であること自体が苦しい。終盤での正確さ勝負になれば、白陵の三将はそう簡単に崩れない。


 しおりは一瞬だけ目を閉じそうになる。


 ならば、ここで終わらせる。


 この一将戦だけは、絶対に落とさない。

 しかも、味方に流れを引き寄せる形で勝つ。


 白陵の一将が、ようやく次の手を置いた。


 苦しい受け。

 最も粘る一手。


 だが、その一手を見た瞬間、しおりの中で勝ち筋が一本に収束した。


 細い。

 それでも十分だ。


 一手勝ちになる。


 しおりは静かに、その順へ入った。


 攻めるというより、締めていく手順だった。

 一枚一枚、相手の呼吸を剥がしていく。

 逃げ道を消す。

 反撃の含みを先に折る。

 最後に詰み筋だけを残す。


 白陵の一将も必死に食らいつく。


 一手返す。

 しおりがさらに迫る。

 また受ける。

 しおりが深く刺す。


 その繰り返しの中で、観戦の輪はほとんど息をしていなかった。


 誰も声を出さない。

 誰も動かない。


 盤の上だけが、静かに終わりへ近づいていく。


「……すごいな」


 白陵の一将がぽつりと言った。


 しおりは答えない。


「噂よりずっと、嫌な将棋だ」


「ありがとうございます」


「だから褒めてないんですよ」


 少しだけ笑って、それから相手は盤面を見つめ直した。


 最後の確認だったのだろう。

 本当に抜け道がないのか。

 どこかに逆転の綻びが落ちていないか。


 長く考えて、考えて、それでも見つからなかった。


 やがて相手は、静かに駒台へ手を置いた。


「……負けました」


 一将戦が終わる。


 しおりが最初に盤を降りた。


 会場のあちこちで、抑えていた息が一斉に吐き出される。


 白陵相手に、一将が先に落ちた。


 それは単なる一勝ではない。

 重い。

 全国二回戦の空気を丸ごと動かすだけの一勝だった。


 しおりは一礼する。


「ありがとうございました」


「完敗です」


 相手はそう言って頭を下げたが、顔を上げた時、その目はまだ死んでいなかった。


「でも、次に当たるなら、もっと深く刺します」


「受けて立ちます」


「やっぱり嫌な人だ」


 そう言って、相手は席を立った。


 しおりはすぐに左右を見る。


 坂本は、苦しいながらもまだ生きていた。

 相手二将の寄せは細く鋭いが、坂本も簡単には沈まない。県大会から何度も何度もしおりに潰され、そのたびに覚えた粘りがここで効いている。終わったように見える局面から、まだ一手を捻り出せる。


 黒田もまだ五分だった。

 だが、しおりの勝ちで空気が変わった。相手三将の顔に初めて焦りが差す。チームとして一将を落とした以上、自分が勝たなければならない。その意識が、受けの硬さにわずかな雑味を混ぜ始めている。


 黒田はそれを見逃さない。


 盤上の圧が、少しずつ反転していく。


 しおりは黙って見ていた。


 自分の仕事は終わった。

 ここから先は、二人の盤だ。


 だが、その二人ももう、県大会の頃とは違う。

 しおりが勝って当然だと信じているだけの駒ではない。しおりが作った流れを、自分の勝ちへ変えることを覚え始めている。


 坂本の相手二将が、ついに勝負を急いだ。


 寄せの網を一段深くかけにくる。

 だが、それは細い。

 わずかに細い。


 坂本の目が、そこで変わった。


 受けていたはずの駒が、一気に反撃へ転じる。

 飛車が走る。

 角が通る。

 死んでいた筋が、突然相手玉へ牙を剥く。


「そこか……」


 相手二将が掠れた声を漏らす。


 坂本は何も言わない。


 ただ、次を指す。


 さらに次を指す。


 苦しかった分だけ、そこから先は速かった。相手の寄せを逆用し、薄くなった一点へ食い込む。重く、遅く、それでも逃さない手順で、坂本は相手を追い詰めていく。


 数分後。


 相手二将が深く頭を下げた。


「……負けました」


 その声で、団体戦の勝敗は決まった。


 二勝。


 二回戦突破。


 黒田がその言葉を聞いた瞬間、少しだけ肩の力を抜いた。けれど盤は投げない。相手三将も同じだった。チームの勝負が決しても、最後まで指す。それがここにいる者たちの礼儀だった。


 しおりは黙ってその盤を見守る。


 全国の強豪は、やはり簡単ではない。


 一将は強かった。

 二将も鋭かった。

 三将も崩れなかった。


 それでも、勝った。


 覇王一人の暴力ではない。

 坂本と黒田を含めた三人で、白陵という強豪校を踏み越えた。


 それが少しだけ、しおりの胸に残った。


 やがて黒田の対局も終わる。

 最後は引き分けのない将棋らしく、わずかな手順差で黒田が押し切った。


 三勝。


 結果だけを見れば完勝だった。


 だが、そんな数字に騙される者はここにはいない。


 白陵は強かった。

 そして全国は、まだその先がある。


 坂本が立ち上がりながら、苦く笑う。


「全国二回戦でこれかよ」


 黒田も額の汗を拭う。


「次、何が来るんだよ」


 しおりは組み合わせ表の先を見た。


 まだすべては出揃っていない。

 だが、残る学校の名前はどれも重い。


 東大寺学園。

 西の王者。

 白陵を越えてなお、その先に座っている本命。


 ほかにも、まだ消えていない強豪校がある。


 しおりは小さく息を吸った。


 全国は広い。

 そして、まだ足りない。


「次も勝ちます」


 短くそう言うと、坂本が苦笑する。


「お前、そこだけは本当にぶれないな」


「ぶれたら負けるので」


 黒田が肩をすくめた。


「その通りすぎて反論できねえ」


 会場の奥では、次の対局の準備がもう始まりつつあった。


 強豪たちの盤は、まだ尽きない。


 そして、覇王の進撃も、まだ終わらない。

### あとがき


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。


また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。

「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。


いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。


それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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