第41話 実習の準備
その週の部活で、三枝先生が机に地図を広げた。
着替えようと鞄を開けていた水野くんが、手を止める。相馬先輩は机の端にあった急須を棚へ移し、地図を押さえるために筆箱を置いた。
「今日は先に、週末の実習について話します。皆さん、座ってください」
私は朝倉くんの隣へ腰を下ろした。タマが椅子の下から顔を出したので、抱き上げて膝へ載せる。
地図には山の名前と、細い道がいくつも印刷されていた。麓には駐車場があり、そこから延びた道が山の途中で二つに分かれている。
先生が配った資料を、上から読んだ。
行方不明者、二名。
その下に、名前と年齢、姿を見なくなった日が並んでいた。
「この山で、人が帰ってこない事案が続いています。警察の捜索では、まだ見つかっていません」
先生が地図へ指を置いた。
「陰陽庁の調査で悪霊が確認されたのが、こちらと、こちら。二か所です。当日は榊先生の班と分かれて調べます」
印は、分岐した道のそれぞれにあった。
今まで練習に使っていた木片や紙の的とは違う。資料には本当の人の名前が書いてあって、その人たちは、まだ帰っていない。
タマが膝の上で座り直した。私はその背に手を置き、続きを読む。
確認された悪霊は、どちらも周囲の同じ場所を行き来していたという。調査員への接近を認めたため離脱、と最後に記されていた。
「先生、調べに行った人は大丈夫だったんですか。悪霊が近づいてきたって……」
顔を上げると、先生は私の見ていた箇所へ目を落とした。
「怪我はありません。近づかれる前に、その場を離れています。この方は霊を見つけて報告するのが仕事で、悪霊と戦えるだけの力はありませんから」
無事だったと分かり、少しほっとした。
「そういう仕事もあるんですね」
「今は、見える人にも協力してもらわないと調査が追いつかないんです」
私は資料へ目を戻した。離脱、と書かれた短い言葉を、さっきとは違う気持ちで読む。
自分へ近づいてくるものを見ながら、山を下りてきた人がいた。
「確認された範囲では、皆さんが対処を学んできた相手です。ただ、行方不明との関係はまだ分かっていません。現地を確かめ、祓えると判断できれば祓います。私も一緒に行きますが、指示するまでは手を出さないでください」
相馬先輩たちが返事をした。
少し遅れて、私も「はい」と答えた。
◇
「僕たちは、どちらからですか」
相馬先輩が地図を引き寄せた。
「沢沿いの道です。榊先生たちは尾根側へ。途中で分かれますが、連絡は取り合います」
先生が道を指でたどる。相馬先輩は自分の資料へ同じ印を書き込んだ。
藤宮先輩が、その隣から写真を一枚抜いた。
「ここ、道が崩れてますね」
私は身を乗り出した。土の道の端が削れ、むき出しになった木の根が斜面へ垂れている。人が通れそうな部分は残っていたけれど、練習室のように横へ広く動くことはできそうになかった。
「そこでは立ち止まって戦わず、通過前に私が周囲を確認します」
先生の答えを聞きながら、私は写真と地図を見比べた。
紙の上では、どこも同じ太さの道だった。
相馬先輩が指で写真の端を押さえ、私の方へ向きを変えてくれる。
「こんなに狭いんですね」
「うん。地図だけじゃ分からないから、写真も見ておこう」
次の写真には、少し開けた場所が写っていた。石が散らばり、奥には折れた枝が積もっている。
ここなら結界を張れるだろうか。
白い膜を思い浮かべ、その向こうで朝倉くんが手を上げるところを考えた。足元に石があれば、私も彼も、いつもと同じ位置には立てない。
「佐々木さん」
先生に呼ばれ、顔を上げた。
「あなたには結界で皆を守ってもらいます。まずは、私の近くから離れないでください」
「はい。……張る場所は、そのときに教えてもらえますか」
「もちろん。最初は一緒に確かめます」
少し息が抜けた。
写真を見ただけで、自分一人で決めなければいけないような気持ちになっていた。
「タマとの降霊を使う予定はありません。必要だと思っても、必ず先に相談してください。自分たちだけで始めないこと」
「分かりました」
膝の上へ目を落とすと、タマは私を見上げていた。指で頬を撫でると、目を細めて頭を押しつけてくる。
学校で真帆を傷つけたときのことを、思い出さないわけではなかった。
あのときと同じことは、もうしたくない。
私は資料を自分の前へ戻した。
◇
先生の説明が終わると、相馬先輩が棚から箱を出してきた。
中には札の束や細い紐、手袋が入っている。藤宮先輩は救急用品の袋を開け、足りないものを紙へ書き出し始めた。
「佐々木さん、山を歩ける靴、持ってる?」
相馬先輩に聞かれ、少し考えた。
「運動靴ならあります。体育で使っているのとは別の」
「今回は、登山靴を用意した方がいいよ。沢沿いを歩くし、さっきの写真みたいに足場の悪いところもあるから」
写真の、土が崩れた道を思い出す。
「買いに行きます。登山用品のお店教えてもらえますか」
「うん。あとで店の場所を送るよ。この資料も持っていって、どんな道を歩くか伝えるといいよ。ちゃんと履いて、足に合うものを選んでね」
「分かりました」
私はノートの端へ、登山靴を買う、と書いた。
札の使い方や結界のことばかり考えていて、山へ行く用意は何も浮かんでいなかった。
「私、何を手伝えばいいですか」
声を掛けると、藤宮先輩が手袋の入った箱を寄せてくれた。
「穴が開いてないか見て、使えるのを人数分、組にしてもらえる?」
「はい」
タマを椅子へ下ろし、箱から一つ取る。指先を裏返すと、小さく擦り切れたところがあった。
「これは?」
「そっちは分けておいて。新しいのを足すから」
机の上で左右を揃えていく。水野くんは紐をほどき、傷んだ箇所がないか確かめていた。
隣では朝倉くんが札を数えている。十枚ずつ並べたあと、一束を手に取って先生のところへ持っていった。
「こっちは補充してもらえますか」
「ええ。何枚必要?」
「五枚です」
私にはまだ分からない準備を、皆はそれぞれに進めていた。
朝倉くんが戻ってきたとき、聞いてみた。
「こういう実習って、何回も行ってるの?」
「何回か。山は久しぶりだけど」
「悪霊も、祓ったことあるんだよね」
「うん。先生についててもらって」
彼は札の端を机で揃え、こちらを見た。
「気になる?」
「……練習みたいにできるかなって」
朝倉くんは、すぐには答えなかった。
「俺も、練習どおりにできるかは分からないよ。相手も動くし」
彼は広げたままの地図へ目を向けた。
「でも、結界が邪魔になりそうなら言う。この前の練習でも、そうしてたでしょ」
「うん。私も、張り直すときは言うね」
「分かった」
私は残っていた手袋を揃え、箱へ戻した。
朝倉くんが札を腰の札入れへ収めている。私も鞄を開き、いつも札をしまっている内ポケットへ手を入れた。
学校で襲われたときは、鞄を奪われ、中の札を使えなくなった。今も同じ持ち方のままだった。
「先生。札は、鞄とは別に持っていたいです」
言うと、先生は頷き、棚の引き出しを開けた。
「腰につけるものと、肩から掛けるものがあります。使いやすい方を選びましょう」
渡された二つを、手に取って比べる。
小さい方を腰へ当ててみると、藤宮先輩が留め具の位置を教えてくれた。実際に札を入れ、何度か出してみる。最初は角が引っ掛かったけれど、蓋をしっかり開けば、そのまま指でつまめた。
「動いても落ちないか、確かめてね」
「はい」
留め具を閉じて、椅子の脇でしゃがんだ。タマが顔を近づけてきたので、札入れを押さえたまま、その額へ軽く触れた。
◇
その日の結界の練習では、札入れをつけたまま朝倉くんの横へ立った。
腰に慣れない重さがある。腕が触れるのが気になり、始める前に少し後ろへずらした。
「これで大丈夫?」
朝倉くんに聞かれ、一度札を抜いて戻す。
「うん。お願いします」
先生が球を持ち上げた。
床は平らで、結界の位置には目印がある。昨日と同じ部屋なのに、今日は机に広げた写真の石や、崩れた道が頭をよぎった。
まずは、ここでできることを。
朝倉くんの左側に膜を張る。球が当たっても、端は広がらなかった。
隣から火が飛び、的を焼いた。
それが終わるまで待ってから、私は次の球へ目を向けた。
先輩に店を教えてもらったら、実習までに靴を買いに行こう。久世さんにも実習のことを伝えておこう。
まだ見たことのない山を思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
分からないことは、先生に確かめながら進めばいい。まずは、練習してきた結界で皆を守ろう。
「もう一回、お願いします」
自分から先生へ声を掛け、結界を保ったまま待った。




