五人の普通の一日
「どーもぉ、えーっすっと」
眩しい朝日の差し込む時間。アリティー伯爵家の厳かな食堂に響き渡るは、脱力しきった少年の声であった。
一糸乱れぬ礼装で控える執事とメイドたち、そして上座に座る厳格な父が、一斉に眉をひそめる。しかし、次期当主である兄だけは苦笑していた。
そんな彼らの視線の先にいるのは、我が伯爵家の『出がらし』こと、次男のケイン・アリティーだ。
黒髪は寝癖だらけで、火事の現場から逃げてきたようである。締まりのない口元に細い目をこすりながら、ポロ切れのごとき毛布をまとって進んできた。
ちなみに、今彼の口から出た「えーっす」とは「おはようございます」の略である。
「ケイン、さっさと席につかんか」
父のレオンに言われ、ケインは面倒くさそうに席につく。
ようやく、アリティー家の朝食が始まった。ケインは手づかみで肉料理を食べ、スープを音を立てて飲み干す。恐ろしい速さで食べ終えたが、テーブルの上は惨憺たる状況だ。
さすがのレオンも我慢できなくなった。
「貴様、いい加減にせんか!」
怒鳴るが、ケインはどこ吹く風だ。無視してさっさと食べ終わると、兄の方を向く。
「兄ちゃん、今日も一緒に学校行こ」
「兄ちゃんとはなんだ!? 仮にも、アベルはアリティー家の次期当主なのだぞ! 兄さまと呼べんのかぁ!」
今度は立ち上がり、凄まじい形相で吠えたレオンだった。しかし、アベルの方は苦笑しつつ答える。
「学校に行く前に、まず身だしなみを整えろ」
「はーい」
素直に答え、ケインは食卓を後にした。すると、メイドたちがひそひそ囁き合う。
「何なのアレ?」
「ひどすぎ」
「いいところは、アベルさまに全部持って行かれたのね」
「まさに出がらしよ」
そう、兄アベルは外見も物腰も非の打ちどころがない。肌は雪のように白く、髪は金色で顔立ちは彫像のよう……まさに貴公子である。
対する双子の弟ケインはというと、貴公子ではなく奇行種であった。
ウルテミス学園の前に馬車を停め、ふたりは降りる。その時、ケインの目はあるものを捉えた。
黄色く大きな虫が飛んでいる。あれはドグマバチだ。体は大きく肉食であり、時にはちいさなネズミすら食べてしまう。しかも猛毒の針を持っており、万一にも刺されれば、人間でも死の危険性がある。
運の悪いことに、ドグマバチは真っ直ぐにアベルの後頭部へと向かっている。仮に刺されなくとも、気づかれれば大騒ぎだ。
その瞬間、ケインの手が動いた。放たれた左手は、稲妻のような速さでドグマバチをつまむ。
一瞬にして握り潰した──
「ん? ケイン、どうかしたか?」
動く気配を感じたアベルが、驚いた顔で振り返る。だが、ケインは潰したドグマバチを瞬時に投げ捨て、ヘラヘラした態度で頭を下げる。
「いや、虫がいただけだから──」
「アベルさま!」
ケインの言葉は、大きな叫び声にかき消された。見ると、こちらに全速力で駆けてくる美少女がいる。学園の門の向こうから、まばゆい笑顔を輝かせたシーラ・ハンムが、亜麻色の髪をなびかせてアベルの元へと駆け寄ってきた。
「おはようございます、アベルさま! 今日も素晴らしい朝ですね!」
「おはよう、シーラ。今日も一段と元気だね」
朝日に照らされている美男子のアベルと美少女のシーラ。長身のアベルと並ぶと、シーラの小ささが余計に際立つが、それすら両者の魅力になっている。
まさに絵になるふたりだ。周囲の生徒たちも「お似合いだわ」と感想を漏らしていた。
そんな陽の空間から少し離れた校門の柱の影からは、凄まじい「怒りの気」が放たれている。ケインは目ざとく見つけていた。
やがて、気の主たる女が動き出す。グレイス公爵の娘・イライザだ。背は高く肩幅広く、逞しい体つきである。ド派手に飾り立てられた金髪に、極彩色のサイケデリックなデザインのドレス。両手の指すべてにリングがはめられており、イヤリングやネックレスの数も多い。しかも、その両手には猫を抱いているのだ。
相変わらず派手な人だ、と苦笑するケイン。気づかぬふりをして、ふたりの後から歩いていく。耳には、イライザの声が聞こえてきた。
「おのれシーラめ……楽しそうな顔で、アベルさまの横を歩いていやがりますわ。許せませんの」
やや遅れて、別の声が聞こえてくる。
「今はほっときゃいいニャ。人目があるニャよ」
「人目? そんなの関係ありませんわ」
傍から見れば、イライザがブツブツ独り言を言っているようにしか見えないだろう。事実、イライザは「壁に向かって喋る癖があるヤバい女」という認識をされており、学園内では友だちもいない。
だが、ケインにはわかっていた。彼女は、腹心の部下である妖魔と話しているのだ。その妖魔は、今は猫の姿をしてイライザの両手に抱かれている。
ケインは、さり気なく後ろを向いてみた。と、イライザの態度が一変する。ケインと目を合わせぬよう、空を向いたまま歩き出したのだ。顔は美しいのに、やっていることはポンコツだ。今の仕草も、誰が見ても不審人物である。
次いで、ケインはその腕に抱かれている猫に視線を移す。すると、猫は彼に向かいペロリと舌を出して見せた。困ったもんだよ、という猫なりの意思表示である。
まあ、いい。どうせ今日も大したことはしないだろう。ケインは、再び前を向く。
と、再び声が聞こえてきた。声をひそめてはいるが、ケインの耳にはしっかり聞こえていた。
「危なかったわ。あのアホの出がらし男だからこそ、上手くごまかせましたのよ」
「あのニャ、あいつは……まあ、いいニャ」
「そんなことより、だんだん腹が立ってきましたわ。あの小娘が、アベルさまと親しそうに話して……こうなったら、我がグレイス家に代々伝わりし秘技・嫌がらせ術を用いてギャフンと言わせてやりますわ」
そう言うと、何やらゴソゴソ探っている気配が伝わってきた。何をするつもりなのか、ケインは背中に神経を集中させる。
しかし、後ろの妖魔が全て教えてくれた。
「それ、俺のおやつのケーキだニャ。何する気ニャ?」
「ふっふっふ、我がグレイス家に伝わりし嫌がらせ術その三十四・菓子投げを食らわせてやりますの」
「俺の食べる分がなくなるニャ」
「大丈夫、ほんの一欠片だけだから。お家に帰ったら、もっと大きいのあげるから我慢なさい」
「だいたい、その菓子投げってなんだニャ。どうせ投げるなら、石でも投げればいいニャ」
「バカ、石なんか投げたらケガするでしょ。それは、わたくしの悪の美学に反します。まあ見てなさい。ケーキがあの亜麻色の髪にベットリ着いて、泣き出すさまが目に浮かびますわ……そら!」
その瞬間、ケインは向きを変えた。パッと顔だけ動かし、飛んできたケーキの欠片にパクッと食いつく。
瞬時に口を閉じ、モグモグ動かして飲み込んでしまった。うむ、味は悪くない……などと思いつつも、素知らぬ顔で歩いていく。
直後、イライザの咆哮が聞こえてきた──
「キーッ! 何よ何よ今のは!? あの出がらしの口の中にケーキが入った! 我がグレイス家に伝わりし嫌がらせ術が敗れるなんて、そんなはずはないわ!」
吠えたかと思うと、猫を抱いたまま地団駄を踏んでいる。周りの生徒たちは「またヤベー奴が暴れてる。かかわらないようにしよう」とばかり、イライザから距離を空けて進んでいく。
当のアベルとシーラはというと、全く気づいていない。
「それにしても、シーラさんは今日も綺麗だ」
「いやですわ、アベルさまったら」
そんなやり取りをしながら歩いているのだ。イライザの目に、さらなる怒りの炎が燃え上がる。
「今のは偶然よ、偶然に決まってる。あんな出がらし次男ごときが、我がグレイス家に伝わりし嫌がらせ術を防ぐなどありえない。そうよ、勝負は教室に行ってから……教室で、嫌がらせ術その二十六を食らわしてやりますわ!」
イライザは、そこで笑い出した。ひとり高笑いをしている彼女の姿は、完璧な変人である。周りの生徒たちは「やっぱり、あいつおかしいぜ」という表情を浮かべつつも、近寄らないようにして歩いていく。
ただひとり、猫の姿をした妖魔だけがフゥと溜息を漏らした。
「あのケインは、とんでもない奴ニャよ。なぜそれがわからんのかニャ……」




