第32話 夜空が綺麗だね、と彼女は言った
「ここですね」
肌寒い空気を纏った夜の病院に、時野さんの声が響く。
俺達の目の前にあるのは、一枚の病室の扉。扉はスライド式で、扉の右隣には「西野香織」と書かれたプレートがある。
「私は外に居るので、あなたは中に入っていてください。危ないので」
「分かりました。俺が他にやれることはありますか?後は………注意事項とか」
時野さんの指示に、俺は素直に従う。
昔なら足手纏いと言われているように感じて、俺も香織を救いたい、なんて言ったのだろうが今は違う。大人になって――正確には人の上に立つようになって、少なくとも今は、その言葉に込められている意味が分かる。それでも、自分で妻を救いたいという気持ちがある事は否めないのだが。
「やれること…………そうですね。強いて言うなら香織さんの手を握ってあげる事ですかね。ほら、出産前なんでしょ?」
俺の最後の抵抗に、時野さんは少し悩んでから言葉を返してきた。
確かに、香織が産気づくのは早朝なので、前日の夜、それも深夜である今の数時間後だ。香織も薄々、出産を予期して不安になっているかもしれない。……いや、香織なら寝てる可能性も十分あるな。
「分かりました。時野さんもお気を付けて」
「大丈夫ですよ。あ、もし病室に猟犬が侵入したときは頼みますよ?アニメや漫画ではこういう時にハプニングが起こるのが常ですからね」
「一介の研究者に何言ってるんですか」
時野さんの言葉に、俺は呆れながらそう答える。まぁ、もしそうなった場合は、体を盾にしてでも助けるのだが。
そう考えながら、俺は時野さんに背を向けて病室の扉の前に立つ。
「…………」
病室の扉を前に、懐かしい感じがした。
香織が病死する前は、毎日のように病室の扉を開けていた。そして、だからこそ怖い。この先にいるのは、あの日の瘦せこけていて、無理して笑っている彼女なのではないかと。
「――ふぅ」
短く息をついて、気持ちを整える。
そして俺は意を決して病室のドアを開けて、病室へと歩を進めた。
――そこには、香織がいた
月が差し込む病室で、静かに夜空を見つめていた。窓が開いていて、そこから入ってくる風が香織の長い髪の毛を揺らしている。その姿は、儚げで、とても綺麗だった。
あの日、子供の頃に見た景色とは姿も、雰囲気も、時間さえ違う。それでも、あの日の衝撃と同等の――いや、それ以上の物を俺に与えた。
「もしかして、海くん?」
香織はこちらに気づいたのか、そう問いかけて来る。その声からは戸惑いや困惑が感じ取れる。
「ぁ…………あぁ。俺だ」
「こっそり忍び込んだの?」
「あはは……ごめん」
「別にいいよ。それより、こっち、座って?」
バレないように、昔の自分を真似してみるが上手く出来ているか分からない
香織は手招きしながら、俺を誘導する。断るのも不自然なので、俺は促されるままにベッド脇の客用の椅子に腰かけた。
「海くん、少し老けた?いや、その髭のせいかな。いつも言ってるでしょ?お仕事が忙しいからって身だしなみは整えないと」
「そうだな……悪い」
明かりが月明かりだけだからか、俺の姿が違う事に気づいていないようだった。この頃――16年前の俺は研究者にも成り立てで、自分の事がおろそかになりがちだった。それも多分、奇跡的にバレなかった理由の一つだろう。
俺はバレてなくてよかったと、内心ホッとしながら久しぶりに聞く香織の声に耳を傾ける。
「お仕事は順調?」
「まずまず、かな」
「そっかぁ。あ、お仕事と言えばお隣の部屋の――」
香織と俺は、夜の病室で雑談していく。月明かりに照らされる彼女の顔は楽しそうで、表情や彼女の声、明るさに、心の奥底から懐かしさが込み上げていく。
――それと同時に、怒りも込み上げてきた
彼女と、娘を守れなかった自分に腹が立った。確かに病気になったのも、時間の狭間から来たモンスターも、俺にはどうしようもなかった。
それでも、もし俺に力があったのなら。あるいは、昔の自分を電話一本で救った彼のようになっていたのなら、彼女たちは死ななかったかもしれない。そう、考えてしまう。
――先程まで、綺麗だったはずの心がどす黒い負の感情に染まっていく
香織の雑談を聞きながら、自分がどんな表情になっているのか分からない。普通の顔が出来ているのか、あるいはこの気持ちが出てしまっているのか。俺には確認することはできない。
――もし、過去を変えたあの日の自分に戻れたら
彼女が楽しそうに会話をするたびに、彼女を守れるようになりたいと思ってしまう。光が強まれば影が濃くなるように、その気持ちが強くなっていく。
――自分の想い人を救うために世界の犠牲すらも厭わなかったあの日の自分に戻れたのなら
彼に近づくには……彼になるにはどうすればよいのだろうか。彼は目的の為ならばすべてを捨てた――捨てれる人間だった、と思う。
そうすれば、俺も成れるのだろうか?家族を守れる立派な――
「ねぇ、海くん」
「夜空が綺麗だね」
唐突に香織が、そんなことを言う。何故、そんな話になったのか。どういうつもりで香織がその言葉を発したのか、いつの間にか話しながら思考に更けてしまっていた俺には分からなかった。
夜空が綺麗だねと呟く彼女の表情は、いつの間にか月明かりが逆光になっていて良く見えない。
「……普通は月とか星じゃないか?」
「そう?でも、月とか星とか、わたしには決めれないかなぁ。全部ひっくるめた夜空の方が良いな」
「全部ひっくるめたって……月が明るすぎたら見えなくなる星もあるぞ?」
”全部ひっくるめた”と言う事は、悪い所も含めたと言う事だ。月の光が星の光を打ち消すように。美しいものが2つあれば、2倍美しくなるわけじゃない。
それに、すべてを得ようとして一つだけを求めた時の感動を失えば本末転倒だ。
「月だけを見ていれば得たはずの感動が、他の物も見ることで減るかもしれない。それに、もしかしたら感動そのものすら失うかも」
「でも、月だけを見てたら、見れたはずの物が見れないこともあるよ?」
「…………それは?」
「夜空の下にある町の夜景だったり、海の近くだったら水面に映る夜空や月、星だったり……それに、海くんやこの子の横顔だって。それを見ないなんてもったいない。だってそれは、きっと一つだけ見て感じた感動よりも何倍の感動を得られるから」
香織は、大きくなったお腹をさすりながらそう言う。
「だからね海くん。笑って?さっきから仏教面だよ?」
お腹に当てていた手を上げ、身重の体をベッド脇の俺の方に寄せ、俺のほっぺをムニムニと伸ばす。そのムニムニは、中年のカサカサなお肌には少しきつかった。
それが、自分の中に燻っている黒いものを取り除いていく。
「お、おい」
「わたしは、どんなに綺麗な夜空でも海くんが笑ってないと笑えないよ?」
その言葉に、どんな意味があったのかは分からない。全部分かっていて言ったのか。それとも分かっていないのか。だが、確かにその言葉は、自らを犠牲にして家族を守る存在になろうとしていた俺を引き留める物だった。
「どんなに綺麗な夜空でも俺が笑ってないと意味がない、か」
「そうだよ。そうだ、この子が生まれたらみんなで夜景を見に行かない?それでわたし達は、夜空を見ながら笑いあうの。この子と一緒にね」
「……あぁ、うん、そうだな。そうしよう。でも、体の事もあるからその時はそっちから誘ってくれ」
「分かった。今から楽しみだなぁ」
「そうだ。そういえばその子の名前だが――」
そんな風に、俺たちは笑いながら話す。心の中ではそろそろ行かないとと思いながらも、もう少しだけ、この時間を楽しみたかった。
そう言えば、時野さんは今頃どうしているのだろうか。俺達のために、戦ってくれているのだろうか。
◆◇◆◇◆
数十分前、西野海斗が病室に入った数十秒後の病院の廊下
「行きましたか」
美月は、閉まった病室の扉を見つめながら、そう呟く。病院の廊下の照明は最低限で、目を凝らせば見える位の明るさだ。
「いった!!」
そう元気に呟くのは美月の隣にいる巫女服に身を包んだ狐の獣人、ききょうだ。フリフリと狐の尻尾を揺らしながら、それでも静かにはしゃいでいる。
「さくら、ききょう、そろそろ戦闘の準備を……って、さくらは?」
「いくところができたって、どっかいった!!」
「どっか行ったって……まぁ、さくらの事ですし、考えがあるのでしょう」
美月ははぐれてしまったさくらの事を思いながら、準備運動がてら、背伸びをしたり屈伸をしたりする。
病院の廊下で黒セーラー服の少女が準備体操をする姿は、他の人から見た場合とてもシュールに映っただろう。ひょっとしたら、七不思議に仲間入りする可能性すらある。
そんな美月に、ききょうは元気に問いかける。
「りょーけんはつよいのか!?」
「そういえば、あの時はききょう達を出してませんでしたね。強さは…………私の成長次第ですかね」
そう言いながら美月は、『収納ちゃん』から、一振りの刀を呼ぶ。その刀からは相も変わらず、不気味なオーラを漂わせている。
「前回は剣術を習得していませんでしたし、これがどのくらい通用するかですね。まぁ、今の最大戦力が剣術なので通用はするとは思いますが」
「でも、はぷにんぐがあるっていってた!」
「起こさせませんよって、噂をすれば来たようです。ききょう、扉を守って貰えますか?」
「わかった!!」
唐突に、美月たちがいる廊下の少し先に、黒い狼が現れた。漆黒の下に包まれ、大型犬よりも二回り大きいそれは明確に美月達に敵意を向けてくる。
――そして、美月と『猟犬』の戦いが幕を開けた




