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訳あり侯爵家の兄弟

場面転換が多いです、すみません。

すっかり秋の季節になったこの時期に珍しい事だが、新しく追加された先生がいる。


私と同じ歴史を教えるクラウス先生、三十歳。別の学園で教鞭をとっていたが、この度アズベーク学園にやって来た。


この先生と初めて会った時、どこかで見た顔だなと首を傾げたものだ。


しかし何度唸って考えても思い出せない。


私は人の顔を覚える事は得意だし、クラウス先生は一度見たら絶対に忘れないという程の美形だから(実際に女生徒達がキャーキャー騒いでいる)、頭に残っていてもおかしくはない…おかしくはないはずが…。


「駄目だ。思い出せない」


ポツリと呟いた声が聞こえたのか、隣で勉強していたレーゲンが顔を上げた。


「何を?何を思い出せないって?」

「いや、ちょっとある人の顔をね…。どこかで見たような気がしているんだけれど…全然思い出せない」

「ふうん?…なら会った事ないんじゃないの?」

「うーん…でもあれはきっと会っていると思うんだよ…」

「…何それ。面倒だな」


レーゲンの言葉を無視して改めて考え込んでみる。けれど無駄だった。思い出せない。


窓から外を見ると、クラウス先生はまた女生徒達に囲まれている。


黒髪を後ろで一つに束ね、白衣を着て颯爽と歩き、きりっとした目を細めて空を見上げる姿は様になっている。生まれて一度も女性に不自由したことがなさそうだな、なんてレーゲンがペッと言葉を吐いていた…。






同じ教科を教えるからと言って頻繁に会話をするかと問われればそうではない。


教師の世界は割と閉鎖的で、誰とも話さないと決めてしまえば本当にその通りにできるものだ。


クラウス先生はこの学園に来た時からあまり他人と話さないで坦々と業務をこなしていたから、きっと馴れ合うことが嫌いなのだろうと思っていたが、どうやらそうではなく元々無口なだけなのだ。


こちらが何を聞いても大体返って来るのは一言のみ。それは的を射たものばかりなので、脱線ばかりの話を聞くよりも非常に楽ではある。


しかし当然会話が盛り上がるはずもなく、妙に居心地の悪さを感じて、私はいつもそそくさと帰って来る。(端的だという点では良いのだけれどね…クラウス先生の話は)


女生徒達がいい笑顔でクラウス先生の周りに群がっているのを窓から眺めた。


「…男でも女でも…美形って特するよなあ…」


男性にしておくには勿体ない美形という一方で、近寄りがたい雰囲気と無口という要素のせいか、私は少々彼が苦手だ。よくもまあ、女生徒達はあんなにクラウス先生の傍に寄っていけるものだと感心してしまうよ。




***



「クラウス先生ってヴェクトヴァーン家の長男らしいですよ」


ある昼下がり、ニコラス先生がちらりと教えてくれた。


「ヴェクトヴァーン家?って侯爵家の?」

「そうそう、侯爵家のです。教師の中にも貴族は数人いますけれど…長男坊ってのがね…」


言葉を濁していたが、ニコラス先生の言いたい事は分かった。「長男なのに教師をしている」ということが珍しいのだ。


貴族の長男は普通家を継ぐ。王を支える立場として仕事をこなし、領地を治める。家督をまだ継いでいなくても領地から出て教師をしている人は稀だろう。


「これは聞いた話ですけれど、現ヴェクトヴァーン侯爵は女好きで…、複数の女性たちを囲っているらしいですよ」

「へえ?」

「クラウス先生は長男ですけれど、どうやら愛人の子供らしくて、三男が正式な奥方の(・・・・・・)息子らしいです」

「……貴族の世界も大変ですね」


長男だが愛人の子供故に家督を継げる立場ではないということだ。だからこそ教師をしているのだと。


分かってしまえばごくごく簡単な話だが、クラウス先生の心境はいかばかりか。私には想像もつかない。


「にしたって…愛人を囲って…。貴族って本当に金持ちだよね」


ニコラス先生は呆れた視線をこちらに寄こす。


「どうしてそういう事になるんですか、ロッテ先生」

「だってそうでしょう?お金があるから本妻以外に手を出せるんですよ。貧乏人だったらそんな事できないですよ…」

「違いますよ。男が貧乏人だったら、女性が(・・・)相手にしてくれないんですよ。ヴェクトヴァーン侯爵が‘モテる’のは、お金があるからですよ。それ以外に何の魅力があるって言うんですが、中年親父のどこに」


ん?私とニコラス先生、そこまで違う事を主張しているとは思わないけれど?


「ともあれ、こんな話を聞くと、私の父は愛人を作る余裕なんてなかったなあってしみじみ思います。いい事なのか悪い事なのか分かりませんが」


ニコラス先生はそれには答えないで肩をすくめた。


「ロッテ先生のお父上は既にお亡くなりでしたね…」

「…はい。もう何年も前ですけれどね」


あの頃の事は今でも鮮明に思い出せる。


迫り来る敵から逃げ、森の中を母親と妹と三人で突き進んだ。野宿をし、野犬に怯え、川の水でお腹を壊した。今なら笑って語れる出来事はしかし、私の最も怖かった体験の一つとしてこの身に刻まれている。


逃亡生活で学んだ事は色々ある。お金に対する意識が変わったのもその時だ。


生きる為には食べ物が必要だ。そして食べ物を手に入れる為にはお金が必要。自給自足の生活をしている者ならば良いが、そうでない私達にとって一日のお金を稼いで食べ物を手に入れる事はとても大変だった。


そんな当たり前のことすら突然出来なくなって困り果ててしまうということも、あの時は想像していなかった。


苦く、辛く、けれど私という人間を形作った体験がひっそりと頭に浮かんでは消えた。







***


「ロッテ先生、少しよろしいか」


ある日のことだ。滅多に私に話しかけて来ないクラウス先生が来た。


彼の表情は普段からあまり変化がないから最初は気付かなかったが、少しだけ緊張しているのではないかとしばらくして気付く。目がきょろきょろしていて、口元をおさえて肩をすぼめている。こんな様子は珍しい。


「クラウス先生、どうしました?何か生徒に問題でもありました?」

「あ…いや…。その、そういう事ではないのだが…」


何やら長くなりそうだなと思ったから、例のお貴族様専用サロンに誘いこんでお茶を用意する。理由をつけてサロンを使ってばかりじゃないかと言われていそうだけれど気にしない、気にしない。


「…香りも味も良い…。ロッテ先生がお茶を容れるのが上手だとは知らなかったな」


少し上から目線のコメントが気になったがそれは置いておく。つい最近気付いたが、彼のしゃべり方は私が想像する「貴族」そのものなのだ。


「それで?何か私に話があったんですよね?」


クラウス先生は目をほんの少しだけ伏せて静かに口を開いた。


「もうすぐ秋休みだが…、ロッテ先生はその間何か予定はあるのか?」

「秋休みですか?まあ…実家に顔を出して、あとはレーゲンの勉強に付き合うくらいですよ」


アズベーク学園は年間で四回の休暇がある。夏は一カ月の長期休暇だが、それ以外は約二週間ばかり学生にも教師にも休みが存在している。もうすぐそのうちの秋休みがやって来る。


「ならばロッテ先生に頼み事をしたい。秋休みの二週間、私の弟の家庭教師をしてもらえぬか?」

「……唐突な申し出ですね…。どういうことです?」


目を丸くさせて尋ねれば、クラウス先生は一番下の弟の家庭教師を探していると言うではないか。


「既に耳にしている事とは思うが…私の家はヴェクトヴァーン侯爵家だ」

「…はい」

「6歳になったらアズベーク学園初等部に入学するだろうが…、私の義理母である侯爵夫人は、他の子よりも弟の出来を良くさせたいようでな。学園に入る前から勉強を徹底させたい意向だ。弟の家庭教師探しに躍起になっている」

「……はあ」

「そこでロッテ先生の噂を耳にしたようだ。名門アズベーク学園の唯一の女性教師ということで、弟の家庭教師に是非と義理母が望んでいるのだ。勿論、秋休みとか冬休みとか長期休暇の間だけ見てもらえればいいらしい」

「………」


貴族って大変だなって再び思う。


学園に入学したらみっちり勉強するんだから、事前準備なんてする必要ないのに!やっぱり貴族って凄い!教育に力を入れられるだけのお金があるってことだね!


とは直接言えないけれど…。


(いけない、いけない。つい先日のニコラス先生との話のせいで、お金の事を気にしているぞ…私ってば)


私からしたら悪い話ではない。私は暇をしているのが嫌いだし、仕事が貰えるのは嬉しい。


けれど一つひっかかる。


「私じゃなくて、クラウス先生が弟さんの勉強をみてあげればいいじゃないですか。教師なんですから」


教師が教師に、子供の勉強を教えてやってくれと頼むのはどうしてだ。しかも私とクラウス先生は同じ教科担当なのに。


「私はそうしても良いのだが…私の義理母が嫌がる」

「嫌がる?」

「…………」


無言。もしかしてあまり聞いてはいけない事だった?


義理母の侯爵夫人との関係だろうか?


貴族特有の面倒な裏事情、それだったら仕方ない。私には断る理由もないし。


そんな訳であっさりと承諾をすればクラウス先生の方が驚いた顔をしていた。彼が驚く理由がよく分からない…。頼んで来たのはそっちだろうと言うのに。


「引き受けるとは思わなかったな」

「………なぜ…?」


けれどクラウス先生は口の端を上げてにやりと笑うのみ。……やはりよく分からなかった。








「秋休み中、ロッテ先生に会えないのは寂しいですよ」


口ではそう言いつつ、デートに行こうとは絶対に言わないジェラルド先生だ。デートは男性にとって、とても面倒に感じるモノだと以前ジェラルド先生は言っていたけれど…。でも口だけで取り敢えず「寂しい」と言ってみればいいってモノじゃないでしょう。


別に私もデートに行きたいとは思わないけれどさ…。


最近の私はジェラルド先生に対して、心の中で悪態をついている。特別な理由はなく、それが段々とクセになりつつあるようだ。


「私は忙しいので寂しさを感じる暇はないかもしれませんね。ジェラルド先生も秋休みは予定をびっちり入れてみてはいかがです?」

「へえ?予定があるのですか?因みにどんな予定です?」

「……学生の勉強を見るってやつですけれどね」


クラウス先生の家(ヴェクトヴァーン侯爵家)にお呼ばれしている事はあまり口外しない方がいいと思い、ここは濁す。貴族達にとって家の情報を外で勝手に洩らされるのは嫌だろうから。


しかしジェラルド先生はニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべると、


「それはクラウス先生と関係があるのですか?」


鋭く突っ込んで来た。なぜその事を知っているのだろうかと問いそうになれば、サロンに二人でいたでしょう?とジェラルド先生は私が聞く前に答えをくれる。


「何でもお見通しって訳ですか…」

「と言う事はやはりクラウス先生絡みなのですね?どんな事なのですか?」

「……いくらジェラルド先生でも内緒です。人様の…ましてや貴族の方の家の事情なので」


それだけでジェラルド先生はふうんと言い、納得した顔をしていた。それは目を細めて私を試すような顔。こういうところが少し嫌なのだ…はっきりしていない態度をされることが。


「ヴェクトヴァーン家は色々と複雑ですし、敵も多いですからね。気を付けた方がいいですよ」

「は…?それは一体…」

「人様の家の事情は簡単に洩らせませんのでね。内緒です。でも一応忠告はしておきますよ」


何だそれは…。モヤモヤするなあ。


けれどどうせいつものジェラルド先生の軽口だろうと思って、私はさほど気にしてはいなかった。私はヴェクトヴァーン家の末っ子に勉強を教える程度だと考えていたから。




***


「あなたがロッテ先生ね。息子をよろしくお願い致しますわ!わたくしはレイリアですわ」

「…初めまして、侯爵夫人。ロッテ・ダナーと申します」


秋休みに入ると、私は早速ヴェクトヴァーン家に呼ばれた。想像以上の豪邸で、美しい侯爵夫人のレイリアと、可愛らしい末っ子・モーゼスが私の前に現れる。勿論、そこにクラウス先生もいた。


「モーゼスと言います」

「はい、初めまして。ロッテ・ダナーです。短い間だけれど、よろしくお願いします」


モーゼスはお行儀の良い子だった。聞けば五歳だとか。なかなか素直そうだし、教えがいもありそうだ。やはり素直な子が一番伸びるしね。


侯爵夫人は四十代後半と聞いていたけれど、若々しい容姿からもう少し年下にも見える。


その侯爵夫人とクラウス先生は全く目を合わせようとしない。血が繋がっていない親子なのだから馴れ馴れしい関係というのはおかしいかもしれないけれど、それにしてもなんて冷たい空気が漂っているのだろう。


義理母と義理の息子だからこんなものなのかな?


妙な気分と居心地の悪さを感じてしまう。それは後々も続いていて…。


「…クラウス先生…。私に気を遣って下さらなくても良いのですよ?」


豪華な部屋の中でモーゼスと勉強を始めれば、クラウス先生はその部屋のテラスにある椅子に座り本を広げた。監視でもされているような気分になり焦ったが、どうやらそうではないらしい。


「…義理の母上(あれ)は勉強中だと言うのに遠慮なく入って来るからな」

「……」


我が子(モーゼス)を気にしての事か。それにしても義理の母親とは言え、「あれ」呼ばわり。クラウス先生がしきりに部屋の外を気にしていたから、侯爵夫人が部屋に入って来ないのを無言で阻止していたのだろうか。



「…クラウス兄上と母上は仲が悪いんだよ」


モーゼスはこそりと私に教えてくれると、クラウス先生がその弟を少し睨む。


「余計な事は言うな…モーゼス」

「どうして?ロッテ先生は僕の先生なんでしょう?だったら教えてもいいじゃない!」


モーゼスはくるりと私に向き合うと、クラウス先生が何かを言いたげなのを無視して話を進めた。


「ところでロッテ先生に問題!僕たちは何人兄弟だと思う?」

「………い…いきなりな質問だね…。う…うーん…、四人?」


三男が正妻の子で、正式な跡継ぎと聞いていたから四人!と答えておいたが、モーゼスは「ブブー!」と言って笑った。


「七人だよ!僕たちは七人なんだよ」

「…結構多かった…」

「それでね、皆お母様が違うんだよ!」

「!?」


それには思わず目を丸くさせてしまいクラウス先生を見てしまう。七人の兄弟の母親が全員違うって…ええ!?


「……モーゼス…それは少し違う。お前とコリンの母はレイリア侯爵夫人だ」


コリン?と聞けば、三男だと言うではないか。成程、正式な侯爵家の跡継ぎはコリンという名前だったのか。


「父上は六人の愛人がいるのだ。私もその愛人であったサーシェから産まれた」

「…クラウス先生のお母様はサーシェ様と仰るのですね」

「…ああ…。だが…あまり口外しないでもらいたい。我が家の醜聞だ」

「いや、勿論言わないですよ…」


言わないけれど、いやはや驚く。愛人が六人もいるのか、現侯爵は!お盛んだな…。


「僕はこの家が好きだよ!沢山お母様がいてね!お兄様やお姉様達も皆優しいんだよ!」

「……そ、そっか。モーゼスは楽しいんだ」


愛人達が産む子供達はどうやらそれなりに仲が良いらしい。信じられないことだけれど、侯爵はそれなりに上手くやっているということか?


複雑なヴェクトヴァーン侯爵家の家庭事情が頭の中を巡っていたせいで、モーゼスとその後何を話していたかあまり覚えていない。


クラウス先生はそんな私の様子に気付いていたようで、休憩中に私の元へ来てくれた。


「済まないな…。モーゼスが余計な事を言った」

「いえいえ…。まあ多少は驚きましたけれど…」


正直に言えば、クラウス先生の表情がちょっと緩んだ。


「ついでに言っておくが、父上の女達(・・・・・)は仲が悪い。幸い、私達兄弟は仲がいいのだがな…」

「…それまた珍しいですね…。正妻や愛人の女性たちの仲が悪いのは理解できますが…。子供同士が仲がいいというところが…」

「子供は全員、一人の乳母によって育てられたからな。産まれてすぐに、父上は子供を女達から引き離した。女達が子供を育てたら輪が乱れるからと言ってな」

「………既に乱れているような気がしますけれど…」


子供に悪影響が出ないように配慮した侯爵の事を褒めるべきか悩む…。子供同士の仲が良いことはいい事だけれど、そもそもは侯爵が愛人を作りすぎなのがいけないだろうに。


「私は長男だが、庶子だ。侯爵家を継ぐことはない。私の母(サーシェ)はそれが気に入らないのだ」

「………そうですか」

「あろうことか、弟達を排除しようとしている。だからなるべく弟達の傍を離れないようにしているというわけだ」

「……クラウス先生はご兄弟を想っていらっしゃるんですね」


私の言葉にクラウス先生は微笑む。


「…ロッテ先生には…兄弟はいるのか?」


静かに問われて、内心で驚いた。


「……なぜ驚く?驚くような質問でもあるまい」

「………いえ……、その……。誰かからプライベートな質問をされる事があまりないので…」

「……そうなのか」


アズベーク学園の生徒達は裕福な子ばかりだが、教師たちもやはり身分が高い家の出身だったり裕福な家柄の人達が多い。そういう人達は私のような庶民にはあまり興味を示さないのだ。だからプライベートな事を聞かれる事は少ない。


「……それは違うだろう。皆本当はロッテ先生の事を聞きたくて仕方ないのだと思うぞ。だがロッテ先生が聞かせないオーラを出しているから聞くに聞けないのだ」

「………私が…?」

「ロッテ先生は自分で考えている以上に秘密主義者だろう」

「………そういう訳じゃないですけれど…。誰も聞いてこないから言わないだけですよ」

「パーティーに出るご婦人のように、聞いてもいないことを一から十まで話されると辟易する。……が、ロッテ先生は全く自分の事を話さないから、皆も聞けないだけだ」


そうなのか?私って話しにくい人種なのかな?そんなつもりはなかったけれど…。


「悪い意味で言ったのではない。私もあまり自分の事は語らぬ性質だ」

「ああ、クラウス先生はそうですよね…」


ぷっと吹き出して同意すれば、若干何か言いたげのクラウス先生の顔がこちらを見つめた。


「……話を戻すが…。私の実母(サーシェ)は、私が他の兄弟達と仲良くするのが気に入らないのだ。だからこそ、私はモーゼスの勉強を教えてやることを控えている」

「ああ……成程。お母様の事を気にされたんですね、納得です」


なぜ私に弟の家庭教師を頼んで来たのか理由が分かってすっきりした。


「こちらの事情に合わせてしまってすまないな」

「別に構いませんよ。私は稼がせてもらっていますし」


兄弟仲が良いのはいいことだ。母親同士で争うのだけはどうしようも出来なさそうだけれど…。


「ああそうそう。私には妹が一人いますよ。鈍くさくて不器用な子ですけれど、優しい妹が」

「………、そう…か」


クラウス先生が穏やかに微笑まれたこの瞬間、和やかな空気が私達の間に流れた。あんなにも彼に苦手意識を持っていたのに、この時確かに、そんな負の感情はきれいさっぱり消え去ってしまっていたのだ。







***


そんな雰囲気で話していたのはつい昨日のことで…。


「どうしてこうなった…」


思わず呻く。


空は暗く、直に雨が降るだろう。時刻は夕方。場所は森の中。足元のすぐ下は急勾配の崖があり、落ちたら確実に死ぬ。


「ロッテ先生…。僕…僕…怖い…」


ぎゅっと私にしがみつくモーゼスを、私は抱き締め返す。


足場を踏み外したら下へ真っ逆さまだ。私はモーゼスを片手で抱き、もう片方の手で木をしっかり掴み、ゆっくりと足を進める。


私とモーゼスは襲われたのだ。他ならぬ、クラウス先生の実母・サーシェによって…。


そのせいで危うく死にかけた。


「僕…僕、死にたくない…死にたくないよおおお…」

「…分かった。分かったから黙ってて。集中力が途切れたら終わりだから」

「ふええ……!嫌だ…嫌だよおおお」

「黙ってろって言っているの!その口を閉じてろ!」

「っ…!」


五歳の子供を抱えて、崖から落ちないようにするのは大変なんだよ!少し黙ってろ。


崖から落ちぬよう細心の注意を払いながら木々の間を進むが…私の頭は怒りで一杯だった。


(気をつけろって言われていたけれど…。まさか本当に手を出して来るなんて)




内戦から逃げていた時の事を嫌でも思い出す。


敵から逃げて山の中に入り、しかし山では野犬に怯え、食べる物もなかった。


(この感覚……懐かしい……)


今にも泣きそうなモーゼスの姿が、あの頃の幼い妹と被る。


「大丈夫…大丈夫だから。私がいるから、絶対に助けてあげるから…」


モーゼスにそう言うと、腕の中でモーゼスがひくっと声を詰まらせる。妹もそんな反応をしていたっけ。


ヴェクトヴァーン侯爵家に来て死んだなんて、本当にシャレにならない。何が何でも、モーゼスを無事に送り届けなくては、と私は心に強く誓った。


そして続きます。

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