*三十* どこまでもやさしい世界(了)
◆ ◆
無茶をして、アウリスに魔法陣で行ったことがつい最近のことのような気がするけれど、今はすっかり暖かくなった。
あれから数か月が経った。
執務室に戻ったとき、部屋はシンと静まり返っていたし、城内もざわめいていなくて、本当にバレなかったと知り、ホッとした。
ラーウスさまはルークスさまに再度、釘を刺されていたけれど、分かったと答えていた。
あれから数度、アウリスに行ったけれど、ラーウスさまは行く前には必ず、ルークスさまに連絡を入れることを怠ることはしなかったようだ。
帰ってきてからの日常は、結婚式の準備もあり、慌ただしかった。
それでも、隣にいつでも愛する人がいるということは、とても幸せなことで、それほど苦にはならなかった。
ウィケウスの栽培も、順調だった。
そして、ラーウスさまの研究の成果により、わたしは煎じた物を飲むことから解放された。
ラーウスさまの研究によれば、ウィケウスは微量の魔力を含んでいて、乾燥させて煎じて体内に取り入れることで、魔力が変換されて、獣人の特徴を消すことができるようになっているようだ、ということだった。そして、それは花の香りに一番含まれているというのだ。
そうか、だからポプリにしていても耳と尻尾を消すことができたのか、と納得。
匂いでも大丈夫ということで、前々からラーウスさまはウィケウスの花で香油を作りたいとおっしゃっていたので、それを実行することになった。
まず、準備したのは、畑から取ってきたばかりのウィケウスから、花を分離することだった。乾燥させたウィケウスから花を取るのは簡単だけど、採れたてのウィケウスから花を分離させるのは、慣れないのもあって、手間取った。
そうして集めたのは、前にニックスの花を摘んだときに使った籠の半分ほどだった。こんなに少なくては、ほとんど香油が採れないのではないかと危惧していたら、やはり、ほとんど採れなかった。
がっかりしているわたしをよそに、ラーウスさまは満足そうな笑みを浮かべていた。
え、こんなスプーンの先にちょっとの量でいいのですか?
「ルベル、これは精油といって、香り成分が凝縮されたものなんだよ。このままでは使うことはないから、大丈夫。これを油に溶かして使うんだ」
「え、これが香油なのでは……?」
「違うよ。これは香りの元。精油。これを植物油で希釈したものが香油だよ。そもそも、精油を原液で使うと、濃すぎて危険だよ」
そうなんだ、知らなかった。
「ところで、これ、どうやって作ったんですか」
「魔法で花を圧縮して、精油を取り出したんだ」
「へぇ……なんだかよく分からないですけど、すごいです」
ラーウスさまはあらかじめ用意していた植物油をビーカーに入れて測り、そこにウィケウスの精油を入れて、かき混ぜた。ふんわりといい匂いが漂ってくる。
「ルベル、これを毎朝、耳の後ろに塗るといいよ」
「えっ?」
「たぶんだけど、それで一日は保つはずだ」
「あの……?」
「乾燥したウィケウスの花を煎じた物を飲む代わりになると思うんだけど」
「え、あ、はい! ありがとうございます!」
「それと」
「はい」
「ルベルが私と結婚してから、ウィケウスを煎じた物を飲まなくても耳と尻尾が生えなかったのは、たぶんだけど、私の魔力を体内に取り込んだからだと思うよ」
「え、えっ、……え」
ラーウスさまは意味深な笑みを浮かべると、先ほど作った香油を瓶に詰めて、わたしに渡してくれた。
「だから、これはあんまり必要ないかもしれないね」
「ラッ、ラーウスさまっ!」
「ふふっ、今もかわいいけど、夜のルベルもかわいいよ」
「…………っ!」
なんという爆弾発言をしてくれるのでしょうか、ラーウスさまは!
もうっ!
「こっ、香油、ありがとうございます」
話をそらせたくてお礼を言えば、また、笑われた。
「いつまでも初心でかわいいな、ルベルは」
「ラーウスさまっ!」
ラーウスさまはこうやって、小さなことでわたしを困らせてくれたけれど、それは決して嫌なことではなかった。むしろ、なんだか特別に扱われているような気がして、嬉しかった。
あとは、そうそう、王妃さまと二人っきりでお茶会を開きました。
周りには反対されたのだけど、王妃さまの『母娘の交流を邪魔するの?』の一言で黙らされたようだった。
王妃さまとのお茶会は、とても楽しかった。ラーウスさまがおっしゃっていたように、王妃さま手ずからのお茶はとても美味しくて、お腹がたぷたぷになるほど飲んで、笑われた。
そうして、お話上手でもあり、聞き上手でもある王妃さまに乗せられて、幼い頃のあれこれを話してしまっていた。
最初はあまりのお転婆振りに驚いたように目を丸くしていたけれど、最後のあたりはお腹を抱えて笑っていた。
おっとりしたラーウスさまにはわたしみたいなのがちょうどいいとおっしゃってくださったけれど、ラーウスさまっておっとりしているとは思えないのですけど。どちらかというと、ラーウスさまに振り回されていますと言えば、王妃さまはまた驚き、わたしだからこそ、わがままが言えているのね、と言われた。
ルークスさまとのやりとりや、他の人とのやりとりを思い返してみれば、そうなのかもしれない。
そういえば、ラーウスさまは人嫌いと聞いていたけれど、父さんと普通に話していた。……あれ、父さんも獣人だから、人とは言えないのかしら?
ラーウスさまの人嫌いというのも、わたしにはイマイチ、実感がない。
本当に嫌いなのではなくて、幼い頃、なにか嫌な目に遭ったのかもしれない。
「あの、お義母さま」
「なぁに?」
「ラーウスさまは人嫌いと聞きますけれど、なにか理由があるのですか?」
「あぁ、あの子の人嫌いは、特に理由はないと思うのよね」
「え?」
「たぶんだけど、あの子は臆病なところがあるでしょう?」
「えぇ」
そう言われてみれば、ラーウスさまは臆病なところがあるかもしれない。
「自分で制御仕切れない魔力を抱えているから、それがいつ、暴走して、そのせいで人を傷つけるかもしれないから、人を避けているような気がするの」
「そう言われてみれば、そうかもしれません」
今はわたしが側にいるから落ち着いているけれど、初めて会った時は、触れただけで切れてしまいそうな気配をしていたのは、そのせいだったのかもしれない。
「今はずいぶんと落ち着いているのは、あなたのおかげね、ルベル。ありがとう」
「いえっ、わたしはお礼を言われるようなことはなにも」
「いいえ。あの子を受け入れられる人は、あなたしかいないし、むしろ、あの子を受け入れてくれて、ありがとうと言いたいのよ」
「お義母さま……」
お義母さまに、自分が獣人であることを隠しておくのが嫌で、お茶会の最初に話をして、驚いていたけれど、納得したように受け入れてくれた。それだけでも嬉しいのに、そんなことを言われて、思わず、涙ぐんでしまった。
「まあまあ、ルベル。あなたを泣かせたくて、お礼を言ったわけではないのに」
「いえ、すごく嬉しくて……。ごめんなさい、泣くつもりはなかったんです」
王妃さまはわたしの頭を撫でた後、いい匂いのするハンカチで涙を拭いてくださった。
「ふふっ、ルベルからは甘くていい匂いがするわ」
「これ、ウィケウスの花から取った香油なんです。ラーウスさまが作ってくださったんです」
「まぁ、あの子、そんなことができるの? 素敵ね! あたくしも専用の香油が欲しいわ」
「分かりました。ラーウスさまに伝えておきますね。お義母さまはなんのお花が好きですか?」
「そうねぇ、ルベルが使ってる香油と同じ物を使ってみたいわ」
「はい、伝えておきます」
こうして無事にお茶会は終わり、ラーウスさまに王妃さまからの伝言を伝えると、嬉しそうに笑った。
「やはり母上もウィケウスの花の匂いを気に入ったんだね」
「はい。同じ香油が欲しいとおっしゃっていました」
「分かった。ルベル用の香油はまだあるよね?」
「はい」
「ルベル、私にいい考えがあるんだけど」
出た、ラーウスさまのお得意の言葉!
「ウィケウスの花を増やすために、この香油を一部の貴族に売ろうと思うんだ」
「え……?」
「貴族社会からこの香油が広まれば、人間でも、獣人でも、付けていても不思議はなくなると思わないかい?」
「えぇ、そうですけど……」
そんなに上手くいくのかしら?
「まずは母上に渡した上で、相談しようと思っていたんだけど、どうだろうか」
「この匂いがするから獣人だと分からないようにするためですか?」
「そう、そのとおり」
今のわたしは、乾燥したウィケウスの花を煎じた物から解放されている。毎朝、あれを煎れて飲むという煩わしさがなくなって、助かっていた。他の獣人は、わたしと違って週に一度程度でよいとはいえ、ウィケウスの花を乾燥させる工程などを思えば、こちらの方がいいかもしれない。
「今は私が魔法で精油を作っているけれど、実はルベルのお父上と手紙のやりとりをして、やり方を伝えたんだが、向こうでも精油を作るのに成功したようなんだ」
「あぁ、それでこの間、あんなに喜んでいたんですね」
月に一度程度、ラーウスさまとともに日帰りでアウリスに行っているのだけど、父さんがなにか興奮気味に話をしていたのを見た。
「乾燥したウィケウスの花を売って生計を立てているところに、私が香油を売り始めたらまずいだろう? だから、お父上に技術を伝えて、代わりに製造してもらうように手配したんだ」
「そんなことを……」
「ちょっとまだ試行錯誤の段階みたいだけど、上手くいっているみたいだよ」
確かに、町の人たちに乾燥したウィケウスの花を売って生計を立てている身としては、代わりのものが出てきたら、それはそれで困ってしまう。だって、どう考えたって、香油を嗅ぐ方が遙かに楽なんだもの。
「とはいえ、香油の安定供給にはまだまだ時間が掛かりそうだし、なによりも最初は貴族に売っていこうとしているから、高めの値段設定にしようと思っているんだ」
「そう……なんですね」
「うん。本当は安価で安定供給できるのが一番なんだろうけど、どうしても精油自体がそれほど採れないから、希少価値が高くなってしまう。それに、いきなり変わると、戸惑う人が多いだろう? なにごともゆっくりとやるのが一番だと思うんだ」
「そうですね」
わたしは今、とても楽をしているから、他の獣人たちも楽ができたらと思ったけれど、受け入れられない人もいるかもしれない。急に変えるより、ゆっくりと。それはそうだ。
「ラーウスさまは色々なことをきちんと考えてくださるのですね」
「いいや、そんなことないよ。すべてはルベルのためを思ってだよ」
「……ラーウスさま」
そんな甘い言葉を言われたら、照れてしまう。
「ありがとうございます」
「私の方こそ、ありがとうと言いたい。ルベルがいなければ、私は私ではなくなっていたかもしれない」
「そんな、大げさな」
「大げさではないよ。日に日に内に溜まっていく魔力を発散できなくて、気が狂いそうだった。この魔力がいつ暴走して、いつ、人を傷つけるか分からなくて、怖かったんだ」
あぁ、王妃さまがおっしゃっていたとおりだった。
そう思うと、ラーウスさまのことが愛おしくて、わたしは勤務中にも関わらず、ラーウスさまに抱きついていた。
「ルベル?」
「わたし、ずっとラーウスさまの側にいますから、大丈夫です」
「うん……ありがとう、ルベル」
ラーウスさまもわたしの身体をキュッと抱き寄せて、おでこにキスをしてくれた。
そんなこんなの日常を送っているうちに、とうとう、ラーウスさまとの結婚披露宴が行われることになってしまった。
できたら、そんなことはしたくなかったのだけど、めでたいことだからということで王妃さまに押し切られ、披露宴を行うことになった。
騎士の仕事の一貫で、公式の場に出ることはあったけれど、その場合は警護役だったから気楽だったけれど、今回はいきなりの主役だ。しかも、麗しいラーウスさまの隣に立って人前に出るなんて、とてもではないけれど、勇気がない。
とはいえ、王妃さまが考えてくださったドレスを着れば、それなりに見えてしまうのだから、不思議だ。
ラーウスさまが前におっしゃったとおり、ピウスさまの神殿の周りのケラススの花が満開の中、わたしたちは結婚披露宴を行った。
普段なら、夜はピウスさまのための時間なので、外に出ないけれど、今日は特別で、披露宴は夜に行われた。
神殿の中への立ち入りは招待された人たちだけだったけれど、神殿前の広場は開放されて、屋台も出て、にぎやかなお祭りのようになっていた。
外から聞き慣れない音がすることをいぶかしがったわたしに、ラーウスさまはいたずらそうな笑みを浮かべた。
「外の音、気になる?」
「気になります」
「それなら、見に行こうか」
ラーウスさまに連れられて、神殿のバルコニーから外を見れば、夜空に綺麗ななにかが打ち上がっていた。
「あれはなんですか」
「花火だよ、ルベルは見たことはない?」
「あぁ、あれが花火なんですね。初めて見ました! すごく綺麗です!」
「実はこれを見せたくて、無理を言って、披露宴を夜にしたんだ」
「ラーウスさま、ありがとうございます!」
バルコニーに出たわたしたちにだれかが気がついたようで、下から声が聞こえてきた。
「ラーウスさま、ルベルさま、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
花火の音と、おめでとうの歓声とで、広場はとてもにぎやかだった。
ラーウスさまがその声に応えるように手を振っていたので、わたしも倣ってみんなに手を振った。
この世界は、どこまでもやさしい世界で、わたしはとても、嬉しくて、ラーウスさまと顔を見合わせて、笑い合った。
(婚約破棄から始まるけれど、どこまでもやさしい世界 了)




