魔眼の龍神の冒険
某日、月の国にて——
ネオンの極彩色が、網膜を不愉快に灼く。月の国の裏側に位置するサイバーパンクシティ、ノクス・アビス。降り注ぐホログラムの雨と、歪んだ重力に逆らう様に屹立する黒鉄の摩天楼は、科学の限界と幻想の極致が交差するアバンギャルドな迷宮其の物だった。其の路地裏、廃棄されたデータバンクの影で、魔眼蒐集局の調査員たるステラは佇んでいた。
「……遅い。」
一言だけ、掠れた低音が漆黒の外套から漏れる。195㎝の巨躯。純銀の髪をネオンに染め、無表情な貌で佇む彼は、周囲のチンピラ達が一瞥しただけで逃げ出す程の圧倒的な威圧感を放っていた。ステラが不機嫌そうに、懐から取り出したのは特製のリボルバー。そのカンテラ代わりに灯る銃口が、壁面に刻まれた文字を照らし出す。否、其れは文字ではなかった。只の影の様に見えて、見る者の精神に直接、根源的な悪意を叩き込んでくる異形の言語。悪性情報の集積——魔性の爪痕だ。
「遅いだなんて、人聞きの悪い事を言わないで欲しいですね、ステラさん。」
背後から、空間が気紛れに反転したかの様な軽やかさで、聞き慣れた声が響いた。白銀の満月の様な瞳に、深藍の夜空の様な瞳。飄々とした笑みを浮かべ、常に掴み所がない星の魔女——サラが、自身の周囲を浮遊する天文観測儀を弄り乍ら姿を現した。
「また面倒な事に首を突っ込んでいるな、サラ。」
「酷いですねステラさん、私は只星が何時もより、少しだけ寂しそうに瞬いたから、気になって夜のお散歩をしていただけですよ?」
言葉を介さずとも、互いの視線が交わっただけで、ステラはサラが彗星の天文台で、記憶の揺らぎを観測して此処へ来た事を察する。ステラは無言の儘、サラの歩調で少し乱れた白銀の髪に手を伸ばし、優しくその束を整えた。その独占欲を孕んだ手付きに、サラは拒絶も見せず、只楽しそうに目を細める。
「それで?蒐集局の支配者様が追っている、奇妙な事件の進捗はどうですか?」
「……此れを見ろ。」
ステラが顎で示した先。路地の奥には、一人の異邦人が座り込んでいた。然し、其れはもう生命と呼べるものではなかった。衣服の隙間から覗く肌は、完全に透明な硝子へと変貌している。内臓も骨も透き通り、只其の胸の奥から、淡い光を放つホログラムの映像が、霧の様に空中へ垂れ流されていた。
『——あの時、君と食べた和菓子の味を、私はきっと、忘れない——』
ノイズ混じりの音声と共に、異邦人が嘗て過ごしたであろう、証明不可能な思い出が虚空に再生される。そして、其の顔面——くり抜かれた両眼の窩には、闇市場で取引される粗悪な偽造魔眼の残骸が、ドロドロとした粘液となってこびりついていた。
「生きた儘硝子の人形に変わり、自己の記憶を垂れ流す遺体、か。実に見事な、そして悪趣味な実験だ」
サラは可憐な唇を歪め、サイコパス的な合理性と圧倒的な知性が同居する瞳で、冷徹にその現象を観察する。
「被害者はこれで五人目。いずれも魔力回路を強引に拡張する偽造魔眼を仕込まれた異邦人だ。」
だが、この硝子化の術式は魔眼の暴走ではない。何か別の指向性を感じる。
「……生存者がいる。」
「ほう?」
「カゲツの工房に逃げ込んだ様だ。ハリーが今、現場を保護している、と」
ステラが短く告げると同時に、二人の影が虚空へと溶ける様に掻き消えた。座標ネットワークを通じた空間転移。速度も慣性も無視した神速の移動は、次なる謎の舞台——黒龍神カゲツの隠れ家へと彼らを誘う。不夜城の喧騒から隔絶された黒夢の心臓の拠点。薄暗い人形工房の扉を開けると、其処には既に先客がいた。
「合理的に考えて、この患者の脳細胞が硝子化するまで残り三分二十四秒。私のメモ帳に刻まれる改善点は、既に三ページに達している」
ハリーが冷淡な声で告げる。その手元の戦術演算デバイス(メモ帳)は、激しく数式を書き換えていた。
その奥では、極度の人見知りであるカゲツが、サラの姿を見るなりその細い身体をサラの背後に滑り込ませ、怯える様に服の裾を掴む。
「サ、サラ……ステラ……この人、私の、お人形に、なりかけて……でも、魂の糸が、何かに食べられてるの……。」
カゲツは彼女の指先で小さく踊る、仕掛け人形がカタカタと鋭い声で本音を代弁する様に話す。
工房の作業台に横たわるのは、右腕がすでに硝子へと変わりつつある若い異邦人の男だった。男の眼窩から溢れ出るのは、ステラの魔眼が放つような美しい光ではなく、ドス黒い悪意が混じった、血のような涙。
「ハリー、状況は?」
ステラの問いに、ハリーは冷徹にレイヤーを切り替えた瞳で男を見据えた。
「魔力回路に悪性情報の言語が直接、インジェクションされている。」
システムが拒絶反応を起こし、存在其の物を世界から排出しようとしている状態だ。だがおかしい。この悪意は、此の男を殺す為ではなく、男の記憶を強引に引き出す為の触媒として機能している。サラは男の顔に手を翳し、右眼の満月の魔眼を起動させる。可視化された運命の糸は、男の魂から伸びて、月の国の更に深部、或いは此の世ならぬ境界へと繋がっていた。
「成程……偽造魔眼を媒介にして、世界から除外されがちな主観的な思い出を物質化し、それを手繰り寄せている釣り人がいるわけだ……ステラさん、これは私達の手に負えない専門領域かもしれませんよ?」
「……実家か。」
「はい、不器用なあの人と、マッドなあの人の顔を見に行こう。」
サラは飄々とした笑みを崩さない儘、然し其の左眼の彗星の魔眼に、秩序を乱す者への苛烈な裁定の光を宿らせていた。
月の表側、銀色の建材が美しく輝く帝国の中心、クレセントシティ。その一角にある、厳格な結界に守られたアルバエレミア家の邸宅は、外の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
「……ふん。相変わらず、私の許可なく妙な事件を嗅ぎ回っているようだな、サラ」
重厚な応接室のソファに腰掛け、威厳ある王としてのオーラを放っているのは、サラの父・ロインだ。幽世の理を操る最高位の術者。その冷徹な眼差しは外敵を平伏させるに十分なものだったが——。
「父さん、お土産に紅華商業会の最高級みたらし団子と、季節の果物スイーツを置いておきますね」
「……。」
ロインの眉間の一文字が、ピクリと跳ねる。彼は無言で、しかし素早い手付きでお茶を淹れ始めると、差し出された和菓子をじっと見つめた。僅かに緩む口元を隠そうともしない。
「父さんったら、自分が食べたい癖に。ねえ母さん、お父様をからかうのはこれ位にして、此の術式の解析を手伝って?」
サラが苦笑しながら、工房から転写してきた硝子化の魔術回路のホログラムを展開する。
奥の研究室から、白衣の裾を翻して飛び出してきたのは、母のセツラだった。旺盛な知的好奇心の塊。彼女はサラの言葉が終わる前に、右腕のウロボロス紋様(闇喰:トリスメギストス)を金色の光で明滅させ、愛用の『哲学の短剣』を取り出していた。
「素晴らしいです、サラさん!素晴らしい、そしてなんて狂気的な錬成術かしら!」
セツラは瞳に神域の光を宿らせ、ホログラムの構造を短剣の先で切り刻みながら、狂おしいほどの熱量で語り出す。
「見て下さい、ロインさん!これ、物理的な等価交換を完全に無視しています。」
代わりに使われているのは、あり得たかもしれない可能性の残滓。異邦人達が死の間際に残す、此の世界における脆い存在証明……それをエネルギーに変換して、無理やりある概念を此の現世に固定しようとしている。
「可能性の残滓、だと?」
ロインが湯呑みを置き、その重厚な声を響かせる。彼の背後には、大地の脈動を思わせる薄紫の紋様が浮かび上がっていた。
ロインが指を一本鳴らすと、応接室の色彩が瞬時に剥落し、現世と幽界の境界が融解する。
「幽世の理から見れば、これは存在の忘却に抗う儀式だ。」
世界から完全に認識されなくなり、消滅しかけている幻影……それが、魔性の悪意を貪り喰らい、現世に受肉しようとしている。」
「誰からも認識されなくなった幻影……。」
サラの脳裏に、彗星の天文台の膨大な古文書のデータが駆け巡る。天文観測儀が周期を計算し、一つの解答を導き出した。
「歴史の守護者である私達——龍神族の記録から漏れ、人々の記憶からも完全に消え去ろうとしている古い存在……ステラさん、心当たりはありますか?」
ステラは、終始無口の儘サラの隣で腕を組んでいたが、その全知の魔眼が、セツラの解析データの中に隠された色彩の配置を見抜いていた。
「……美術品……イッサの彩色美術館に、これと同じ波長の絵画がある」
「成程ね……学芸員の彼なら、世界から消えかけた歴史のゴミ屑を、芸術として大切に保管していそうだ。」
サラは立ち上がり、ロインに深く一礼する。
「お父様、セツラお母様、助かりました。ユラちゃんとキラちゃんが待つ家に、必ず吉報を連れて帰ります」
「……無理はするな。万が一の時は、私の幻想が世界ごと幽界に沈める」
不器用な脅し文句の裏にある、狂おしい程の家族愛。ロインの言葉を背中で受け止め乍ら、サラとステラは再び、真実が眠る次の座標へと跳躍した。
月の裏側の最外郭、光と影の境界に位置する、ノヴァ・ゲート・テラス。その地下に隠された、イッサが管理する私設美術館は、静謐な狂気に満ちていた。
「おや、珍しいお客様だね、サラ、ステラ。私のコレクションに興味が湧いたかい?それとも、煙草の匂いでも嗅ぎにきたかな?」
紫煙を燻らせ乍ら、飄々とした態度で出迎えたイッサだが、その手にある顕現の筆は、既に戦闘体制に入っていた。美術館の奥からは、激しい言葉にならない叫びと、空間が凍りつく様な冷気が吹き荒れていたからだ。
「イッサ、中を見せて貰うよ。」
サラが遮る様に歩みを進めると、展示室の最奥では、凄惨な光景が広がっていた。巨大なキャンバスの前に、ナヴィが膝をついていた。彼女の美しい白い肌からは激しい霧氷が立ち上り、言葉を失った彼女のボディランガスは、もはや対話ではなく空間を破壊する打撃となって周囲を打ち据えている。
彼女の魔術回路は、偽造魔眼のバックドアを通じて、絵画の内部から伸びる黒い靄——魔性に直接ハッキングされていた。
「ナヴィ!思考を放棄するな、合理性を維持しろ!」
ハリーが借能の権能を起動し、必死にナヴィの周囲の重力を制御して彼女を拘束しようとするが、絵画から溢れ出る情報の濁流は、それを遥かに凌駕していた。
「……あれが、犯人か」
ステラが、その白銀の片眸を鋭く見開く。絵画の枠を超えて現世に這り出しつつあるのは、無数の異邦人達の硝子化した記憶を身に纏った、不定形の巨大な幻影だ。それは、月の国が建国される遥か神代の昔、人々に信仰され、そして科学の発展と共に不要として捨て去られた、名もなき星霊の成れの果て。
『消エタクナイ……!』
『私ヲ、覚エテ公認セヨ……!記録カラ、零スナ……!』
幻影が発する言語は、魔性の悪意と混ざり合い、人間の精神を狂わせるノイズとなって響き渡る。異邦人達の思い出を強奪し、彼らの人生の本を自らにパッチワークの様に縫い合わせる事で、この世界にシステムとして居座ろうとする、生存への哀しき執念。
「合理的に考えて、この幻影の存在基盤を消滅させるのが最善。」
ハリーが冷酷に告げる。だが、追い詰められた幻影は、此れ迄に集めた数千人分の異邦人の主観的な思い出を逆流させ、自爆による存在確率の崩壊を引き起こそうとした。このエネルギーが暴走すれば、ノクス・アビスの街ごと、数万の命が世界から最初からいなかった事にされる。
「ハリー——イッサ、ナヴィを連れて下がりなさい。」
サラが、その華奢な一歩を前に踏み出す。飄々とした笑みは消えていた。其処にあるのは、敵に対してはどこまでも冷酷非道でありながら、身内の……そして世界の秩序を守る為には、自らの命さえ平然と秤にかける、先天的な星の魔女の苛烈さ。
「消えたくない、か。その感情の揺らぎ、私には少し理解しがたいけれど——」
サラの隣に、ステラが並び立つ。
「……消させない。」
無口な支配者の瞳の奥で、銀色の紋様が狂った様に回転を始めた。
「ステラさん、道を切り開いて下さい。私の星達よ、彼の征く道を照らしなさい!」
サラの叫びが、美術館の空間を宇宙の深淵へと塗り替える。龍神の姿へと変転しかけるサラの意志に応え、虚空から次々と彗星銀河団の精霊たちが顕現した。
長髪を燃え上がらせた太陽が、圧倒的な光の障壁で幻影の放つ悪性情報の汚濁を焼き払い、土星が秒単位の戦術タイミングをステラの脳内に同期させる。
「——ガ、アアアアアッ!」
ステラの吼え声と共に、彼の脳波と同調した銀龍の王冠が起動する。周囲に電磁浮遊の不可侵領域が展開され、幻影の自爆エネルギーの拡散を強引に圧し留めた。
ステラは2.5mを超える双頭の槍銀雷槍を突き出し、超高出力のプラズマを全開にする。瞳の奥の闇喰が、ステラの肉体が受ける神速の負荷を強制的に相殺する。
「次元断絶の魔眼、装填——焦熱寂滅、同時発動!」
ステラの視線が走った軌跡、空間其の物が線で断ち切られ、幻影を構成するパッチワークの記憶ネットワークが綺麗に剥離していく。更に右腕の紋章から生成された銀色の巨大な稲妻の鞭が、暴走する悪性情報の核を容赦なく縛り上げ拘束した。
「今だ、サラ……!」
言葉にならないステラの魂の叫びを、サラは完璧に受け止める。サラの頭上に現れるのは、銀河の渦の如き三層の光環星月の王冠。彼女は月の女神の髪を編み込んだ月の竪琴を掻き鳴らし、そして——その可憐な喉を震わせた。
世界を書き換える、二人の聖歌・絶唱が始まった。ステラの歌声は、内に秘めた狂おしい程の情熱が純粋な銀色の雷光となり、幻影と結合した魔性の存在確率を零へと追い込んでいく、絶対的な裁きの呪歌。
サラの歌声は、星が瞬く様な幻想的な響きであり、宇宙の運行其の物を強制執行する、冷徹で美しい創造の旋律。物質的な鼓膜ではなく、魂に直接響き渡るその絶唱は、幻影に混ざった悪意だけを綺麗に濾過し剥ぎ取っていく。
「これでもくらえ、異世界からの贈り物だ!」
サラは更に、セツラから預かっていた月の寓意画を虚空に展開する。引き当てたのは、最高位のカード——。
「XXI.宇宙、発動!」
完璧な調和の光が、美術館全体を包み込んだ。暴走しかけていた数千人分の異邦人の記憶、そして名もなき星霊のエネルギーは、セツラの錬金術式によって反転され、破壊の波動から、月の国を維持する為の清浄なエーテル動力へと再錬成されていく。光の奔流の中で、名もなき星霊の幻影は、サラの瞳を見つめていた。
「君の事は、私が観測した。私が彗星の天文台の公式記録に、新しい星座として永久に書き記してあげる。だからもう、誰も傷つける必要はないし、消える恐怖に怯える事もない」
サラの冷徹で絶対的な救済の言葉と共に、幻影の歪んだ輪郭は、穏やかな星屑の結晶へと姿を変え、サラの周囲を浮遊する天文観測儀の中へと吸い込まれていった。
事件から数日後。クレセントシティの最上層、アウラム・ソリスに位置する、フォルティア家の浮遊宮殿のテラスは、これ以上ないほどの賑やかさに包まれていた。
「さあサラ、ステラ、私の特製ティーセットだ。ユラ、キラ、お祖父様が淹れた紅茶は美味しいかい?」
ナオトが、孫娘達に骨抜きにされたデレデレの顔で、空飛ぶお洒落なティーポットを操る。その隣ではサクラが、優雅に日傘を回し乍らサラに微笑みかけていた。
「サラ、今回の事件での身のこなし、実に見事でした。ですが、やはり淑女たるもの、いざという時のために関節技の角度をもう三度、深く叩き込める様になるべきですね。今度お教えしますわ」
「其れは淑女の嗜みとして、少し過激すぎやしませんか?お義母さん。」
サラは苦笑し乍ら、お茶請けの和菓子を口に運ぶ。
テラスの端では、今回の事件で九死に一生を得たナヴィが、セツラにお礼を述べていた。その度に周囲に霧氷が飛び散り、ハリーが冷気の拡散効率が非合理的だとぼやく。
「カゲツ、これ、あげる!」
「あ、有難う……でも、狭い……。」
ハルヒが、カゲツの腕の中に巨大な可愛いぬいぐるみを押し付ける。カゲツは真っ赤になり乍サラの影に隠れる。
「皆、本当に騒がしいね」
サラはそっと、賑やかな輪から離れ、テラスの手すりに身を預けた。
見上げる月の空には、青白く輝く新たな星の並び——サラが公式記録に刻んだ迷い子の星霊座が、誇らしげに瞬いている。
被害に遭った異邦人達も、蒼雨総合病院の治療とセツラの生命科学アプローチにより、全員が硝子化から元の肉体へと戻り、今日も元気にサイバーシティの雑踏を生きている。
「……サラ。」
いつの間にか、隣にステラが立っていた。彼の影が、サラを包み込むように寄り添う。
「綺麗ですね、ステラさん。世界は今日も新しくて、奇妙な愛に満ちています」
サラがいつもの飄々とした調子で、何処か愛おしそうに呟く。ステラは何も言わなかった。ただ——大きな、銀色の雷光を秘めた其の手で、サラの細い指をそっと、二度と離さないという強い拒絶の意思を込めて握り返した。
ステラの瞳の奥、刻印の魔眼が静かに明滅する。彼は此の温かな家族の光景を、そして隣で悪戯っぽく微笑む最愛の魔女の横顔を、永遠に色褪せない映像として、自身の魂の匣へと永久に焼き付けていた。
事件の騒動が完全に収まり、月の国に何時もの、科学と幻想が織りなすアバンギャルドな日常が戻ってきた頃。彗星の天文台の最上階。青色LEDの静謐な光に満ちた観測室で、サラは一人、天体観測儀の歯車を愛おしそうに磨いていた。
「うん、周期のズレはコンマ数秒以下。新しい星座の座標も、世界のシステムにすっかり馴染んでいるね」
嬉しそうに呟くサラの背後から、一切の気配なく、圧倒的な質量を伴った影が伸びる。
「……また、一人で夜更かしをしている。」
無口な支配者の低音が、静かな部屋に響いた。ステラだ。彼は手元に、湯気が立つ二つの湯呑みと、小さな木箱を携えている。
「酷いですねステラさん、私はただ、あの子が今夜もちゃんと夜空で笑っているか、観測原簿のチェックをしていただけですよ?」
「……言い訳はいい。義父上から、此れを預かってきた」
ステラが差し出した木箱を開けると、其処には薄紫と薄緑の繊細な細工が施された、果物ジュースのジュレを包んだ最新作の創作和菓子が並んでいた。ロインが、態々セツラの研究室の温度管理システムを強奪してまで手作りした逸品だ。
「父さんったら……母さんに甘やかされて、益々お菓子作りに磨きがかかっていますね。」
サラが可憐に目を細め、早速大好物の和菓子を口に運ぶ。其の瞬間、先天的な苛烈さを隠す様に、蕩ける様な甘い笑みが其の貌に浮かんだ。ステラはそれを見届け、満足した様にサラの隣へ腰を下ろす。
「ハリーから、提出された事件報告書が届いている。」
「へえ、なんて書いてあった?」
今回の事件におけるサラの行動選択は、論理的生存確率を著しく無視していた。だが最終的なエネルギー錬成効率において、ハリーの予測を40%上回る奇跡を証明した。次回のチェスでは、この引数を組み込んでチェックメイトする……と書かれている。
「……だそうだ。」
「ふふ、彼らしいね。今度のボードゲームの対局には、アオト御祖父様も誘って、徹底的に知恵比べをしてあげよう」
お茶を啜りながら、楽しそうに笑うサラ。其の時、ステラが大きな手を伸ばし、サラの指先に残った僅かな菓子の粉を、自身の指でそっと拭った。そして、其の儘彼女の手を包み込む様に握る。
「ステラさん?」
「……私の魔眼は、万物の真理を見抜く……だが。」
ステラは、オッドアイの瞳の奥の紋様を、穏やかな銀色の光へと落ち着かせ乍ら、サラを真っ直ぐに見つめた。
「君の考える事だけは、時々、全知の眼でも予測がつかない……だから、面白い。」
無口な彼が口にした、それは彼なりの、狂おしい程の独占欲と深い愛情の告白だ。嘗て堕ち神になりかけた自分を救い上げてくれた、この気紛れな星の魔女。彼女の隣にいる事こそが、ステラが魔眼の過酷な運命を背負う為の、唯一にして絶対の原動力だ。
サラは一瞬だけ驚いた様に目を丸くし、其れからステラの胸元に自らの頭を預けた。彼の巨躯は、彼女を受け止めるのに十分すぎるほど温かい。
「嬉しいですね。私が君を、退屈させない特別な存在でいられるなら、これ以上の喜びはないよ」
サラの右眼……満月の魔眼が、二人の小指を強く、永久に結びつける運命の糸を鮮やかに映し出す。テラスの窓の外では、ノクス・アビスのネオンと、クレセントシティの銀光、そして二人が救った新しい星座の瞬きが、一つの美しい夜景となって月の国を彩っていたのだった。




