天使とテリヤキ
レグナス・コアが宇宙の塵となり、宇宙の空を覆っていた
銀色の「蓋」が消えてから、最初の一年が過ぎた。
かつて鉄の規律と無機質な静寂が支配していた世界は、
今や騒がしいほどの生命力に溢れている。
エラータウンの街は、今や「世界の掃溜め」ではなく
「世界の台所」と呼ばれるようになっていた。
崩壊した軌道エレベーターの残骸は、リナの指揮下で解体・再利用され、
街を囲む巨大な温室へと姿を変えた。
そこでは、三〇〇年前の品種改良データをもとに、
シオンが持ち帰った「伝説の種」たちが芽吹き、豊かな緑を広げている。
「おい、マスター!ぼさっとしてる暇はないぞ。
今日の『テリヤキ・カーニバル』の仕込み、まだ終わってないじゃない!」
リナの声が響く。
彼女は今や、全人類の胃袋を掌握する「復興貿易商会」の総帥。
その手には、最新式の集計端末ではなく、巨大なソースの寸胴をかき混ぜるための
木べらが握られている。
「分かってるって。……ほら、セラ、マヨネーズの乳化具合を見てくれ」
店の奥から出てきたシオンは、一年前より少しだけ肩幅が広くなり、
顔つきには料理人としての自信が深く刻まれていた。
その隣には、純白のドレスのようなエプロンを纏ったセラ。
彼女の肌には、かつてのような金属光沢はなく、
夕陽を浴びて健康的な赤みを帯びている。
「……マスター。相変わらず、左手の攪拌速度が〇・三秒遅いです。
これではマヨネーズのコクが、私の毒舌に負けてしまいます」
「うるせえ。その毒舌が隠し味なんだよ」
二人の軽口は、今やエラータウンの朝の風物詩となっていた。
昼下がり、街の外れにある「天使とテリヤキ」ダイナー。
その特等席に座っているのは、黒い喪服のようなドレスを脱ぎ捨て、
活動的なワークウェアに身を包んだタナトスだった。
彼女は今、父親がわりだったカイザーが遺した
「平和」を維持するために、街の警備隊員として働いている。
「タナトス、これ、試作の『極厚テリヤキ・サンド』だ。食ってみろ」
シオンが差し出した皿。
そこには、香ばしく焼かれた厚切り肉と、溢れんばかりのマヨネーズ。
タナトスは一口、大きく頬張った。
溢れ出す肉汁。甘辛いソースの香り。
「……美味しい。……シオン、これ、マスターにも……食べさせたかったな」
彼女の瞳から、一粒の涙が零れる。
カイザーはあの日、システムの一部となり、この空の彼方で消えた。
だが、彼が命を懸けて守った「娘の未来」は、今、この一口の温かさの中に確かに存在していた。
「カイザーの野郎なら、きっと空の上で文句言ってるぜ。
『焼き加減がなってない』とか、なんとかさ」
シオンが笑うと、タナトスも少しだけ、はにかむように笑った。
その時、店内に騒がしい足音が響く。
「大変だ! ネメシス、落ち着け! まだ式の日程は決まってないだろう!」
「黙りなさいマスター! あなたがポエムを詠んでる間に、
宴会の予約は埋まっちゃいますよ!」
入ってきたのは、今や街の「名物夫婦(予定)」となったグリードとネメシス。
グリードは父アーサーから引き継いだ技術を、
武器としてではなく「自動農耕機」の制御に注ぎ込み、
ネメシスはそれを管理・運用する現場監督として、
日々彼を尻に敷いている。
「シオン、聞いてくれ。この女、
結婚式の料理は全部テリヤキがいいと言い出したんだ。
招待客全員の胃もたれを考えないのか!」
「何ですか、あたしたちが出会ったのは
テリヤキの戦場だったでしょう。思い出の味じゃないですか」
「思い出を胃酸で溶かすつもりか!」
二人の漫才に、店内は爆笑に包まれる。
誰かが冗談を言い、誰かがそれを笑い飛ばす。
三〇〇年前、レグナス・コアが最も恐れた「混沌」という名の
幸福が、そこにはあった。
夜。
祭りが終わり、静かになった店内で、シオンとセラは二人きりの賄いを食べていた。
メニューは、シオンが初めてセラに作った、あの日のテリヤキ・バーガー。
「なあ、セラ。お前、最近……本当に『美味い』って思ってるか?」
シオンが唐突に尋ねた。セラは、バーガーを口に運ぶ手を止め、
不思議そうに首を傾げた。
「私の味覚センサーは、常に一〇〇%の精度で成分を解析しています。
甘み、塩味、酸味、そして……」
セラは言葉を切り、自分の胸に手を当てた。
かつては冷たいプロセッサーが収まっていた場所。
今は、規則的で、熱い鼓動を刻む心臓がある。
「……マスター。私、ずっと不思議でした。なぜ人は、同じ味でも、
誰かと食べるだけで数値が変動するのか。……でも今、ようやく理解できました」
セラは、シオンの皿から肉を一片奪い、自分の口へと運ぶ。
「……『美味しい』とは、味のことではありません。
……その味を分かち合いたいと思う、その『相手』のことです。……
マスター、あなたの作るテリヤキは、正直に言って……世界で一番、うるさくて、暑苦しくて、
……そして、愛おしい味がします」
セラの頬が、夕焼けよりも赤く染まる。
彼女はもう、宇宙の管理天使ではない。
シオンという不器用な料理人の隣で、共に腹を空かせ、共に笑う、一人の少女だった。
「……そっか。合格点、もらえたかな」
「いいえ。……まだ一生分の修行が必要です。覚悟なさい、マスター」
夜空を見上げれば、かつての「お袋」がいた場所には、
満天の星々が輝いている。
月明かりの下、セラフィオンの残骸は、
もはや戦いの道具ではなく、子供たちの遊び場となり、
蔦が絡まる静かなモニュメントへと変わっていた。
三〇〇年の静寂は破られた。
人類は、再び自らの手で土を掘り、火を熾し、汗を流して食事を作る。
それは非効率で、争いも絶えない、厄介な生き方かもしれない。
だが、明日の朝になれば、また誰かが「腹が減った」と叫ぶだろう。
誰かが誰かのために、最高の一皿を作ろうと立ち上がるだろう。
「いただきます」
「召し上がれ」
その言葉がある限り、この星の灯火が消えることはない。
シオンはフライパンを磨き上げ、明日のための仕込みを開始する。
隣には、毒舌を吐きながらマヨネーズを準備する、世界で一番贅沢な助手。
宇宙で一番熱い、テリヤキの物語。
その余韻は、今、香ばしい匂いと共に、新しい夜明けへと溶けていった。
そして、シオンは言った。
「なあ、セラ。俺たち結婚しないか?」
「……は?」
セラはフリーズした。
——その視界の端で、誰にも見えないエラーメッセージが、一瞬だけ点滅する。
それは、すでに消えたはずの――「レグナス・コア」からの、微かな呼びかけだった。
※次回、最終章へ。システムは本当に死んだのか?




