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ヒュダトスミュトス  作者: ْ
終幕 水底
19/20

一節

 『海は大きな流れをつくって泡立ち、大岩にぶつかって波が砕ける。その岩も海もさらって、星辰はまわりつづける』 


 「ファウスト」より——


ナイアスは人身御供を捧げる儀の付き人、或いは旅人に神域の湖へと連れてこられた。


 「夜明けまでまだ時間がありますね」


 ナイアスは旅人にそう言った。この湖自体は良く訪れていたが、流石に暗い内に来たことはなかった。光源は旅人の手にあるランタン、そして月だけである。


 ナイアスはいつもと同じ木の下に腰を下ろした。そこから少し離れたちょうど良い倒木に旅人も腰を下ろしてランタンを置いた。


 「儀式は夜が明けた後なので暫くはお互い暇ですね」


 旅人は頷いて同意を示した。


 「これが最後になるのですから、よければ夜明けまで私の話に付き合ってくれますか」


 何処か寂しげに微笑してナイアスは問いかける。旅人はそれに了承し、荷物から水筒を取り出すと暖かいコーヒーをカップに注いで、一枚の板チョコレートと一緒にナイアスに手渡した。


 外界との接点が殆どない村では、コーヒー豆は貴重品だった。その為村ではお茶は良く飲まれるがコーヒーは滅多に飲まれない。チョコレートもちょっとした贅沢品だ。



 彼は人身御供となる少女達、皆に最後の贅沢としてコーヒーとチョコレートを振る舞っていたのだろうか?


 「ありがとうございます」


 ナイアスは礼を言って、いい香りのする黒い液体を一口すする。


 「……美味しい」


 銀紙を剥いて、一欠片のチョコレートも口にすると、芳醇なカカオの香りと優しい甘味が口の中に広がった。それがビターなコーヒーの後味によく合った。


 ほぅ、とリラックスしたように息を吐き、もう一口飲むとナイアスはゆっくりと話し始めた。


 「私の話を聞いてくださる事、ありがとうございます。今から話すのは、今まで誰にも話す事の出来なかった私の罪、そして後悔の話です」


 「旅人さんは、今は村の人ではないから、話す事が出来るんです。流石に私も全てを胸に秘めたまま死ねるほど強くはないのです」


 そう、誰にも知られる訳にはいかない。けど誰かに知って欲しかった。そうナイアスは続けた。


 「だけどお願いがあります。今から話す事は村の人には決して教えないで下さい」


 そう前置きをするナイアスに、旅人は肯首した。それでいよいよナイアスは今までは語り得なかった事を語り出す。


 「私は罪人です。まずはどのような罪を犯したのかという前に、何故私が罪人たり得るかを話します」


 「まず、罪人が罪人たり得るのは、自らの罪を自覚しているが故なのです」


 「罪を罪と知り得ない人は、罪人たり得ないのです。罰を受けても、それが自ら招いた咎だとは思わないのです」


 「貴方は、外では軍人さんでしょうか? 歩き方がとても綺麗です。でもただの軍人さんでもないのでしょうか? 以前、村の長老方のお婆さんに汚れ仕事をやっているとお聞きしました」


 それに答えない旅人を見据えたまま、コーヒーで唇を湿らせて、ナイアスは話を続けた。


 「貴方は沢山の人を殺してきたのでしょう。眼をみたら分かりました。貴方は罪人でしょうか? 自分の罪に自覚的でしょうか?」


 ナイアスの問いかけに、旅人は深い色の眼を彼女に向けて、しかし否とも是とも答えなかった。


 「ごめんなさい、貴方の罪を言及したい訳じゃないのです。だけど、そんな貴方だからこそ私の話を聴いてもらいたいのです」


 ふっ、とナイアスは息を吐き、まだ暗い空に瞬く星々を仰いで話を続けた。


 「貴方からは私と同じ匂いがしたのです。落とせない血の穢れと孤独……そして後悔の匂い」


 「前置きが長くなりました。それでは飢饉の起る七年前以前から話させてください」


 「私と両親は仲の良い三人家族でした。お母さんは愛情深く、お父さんの事をとても愛していました」


 「私には厳しい所もあったけれど、私を叱る時もそれは私を思っての事だというのが良く伝わってくる言い方でした」


 「私はこの湖が好きなのですが、元々は私が小さい時からお母さんが良くここに連れて行ってくれたんです」


 「昼下がりにお母さんと二人で手を繋いで、ここまで歩いて来て、私は光を反射して煌めく湖面を良く眺めていた事を覚えています」


 「お母さんは料理も上手でした。あの頃はいつもご飯が楽しみだった覚えがあります。特にジャガイモのポタージュが好きでした、甘い風味の優しい味でした。もう二度と食べられません」


 「私は小さな頃からお手伝いみたいな感覚でお母さんから家事を少しずつ教えてもらってました。今の養親に引き取られた後、家事を手伝うのに役立ちました」


 「お父さんは、とても優しい人でした。私にはとても甘いので、お母さんからいつも甘やかして、なんて小言を言われるくらい私を可愛がってくれました」


 「優しい反面、少し体力が低かったようでした。農作業や狩りなどの仕事では他の人程働けない、等とボヤいていた記憶があります。本人も気にしていたのでしょう」


 「思い返してみれば、病気がちで少し病弱な所もあったと思います」


 その時、一陣の風が二人の間を過ぎ去っていった。初夏とはいえ、まだ日の登らない内の風は少し冷たかった。


 「だからなのかも知れません。七年前の飢饉でお父さんが早いうちに病に倒れてしまったのは」


 「……お母さんは今考えると少し心に余裕のない人だったのかも知れません。それも無理はないけれど、飢饉の最中でお父さんが倒れてしまうと焦りと心配からお母さんもどんどんやつれていきました」


 「お父さんは、飢餓と病により胃腸が弱りきって、何とか手に入った貴重な食べ物も喉を通らなくなってしまい、自分が生き延びる事を諦めてしまったようでした」


 「もう助からないであろう自分よりお母さんや私達に食糧を譲るようになりました」


 「お母さんは、自分の事を諦めてしまったお父さんに諦めないでと縋りました。それでもお父さんは食事を取らない……取れないので結局、私がその分を食べました」


 その時ナイアスの眼に過ったのは幼年期の心の痛みか。


 「今考えると、食べるべきではなかったのかも知れません。お母さんのように、お父さんに何とか少しでも食べて貰えるように訴えるべきだったのかも知れません」


 「だけど、愚かな私はお父さんの食事を食べました。お腹が空いていたのです。今考えると、例えお父さんが食べなくても、それに手をつけるべきではなかったのです」


 「お父さんの分の食事を食べる私を、お母さんが怖い目で見てきた事を覚えています」


 「結局栄養も取れなかったお父さんは、死んでしまいました。もし、私がお父さんの分の食事を食べなければ助かっていたのでしょうか?」


 「おそらく結果は同じだったとは思います。でも過程が違っていれば、その後の事も違っていたかも知れません」


 ふ、とナイアスは瞳に憂いを宿して、そこでため息を一つ吐いた。


 「お母さんは嘆き悲しみ、お父さんの亡骸の側を離れようとはしませんでした」


 「それどころか、お母さんは自分に与えられた食事をお父さんの亡骸の口に運び食べさせようとしてました。それを見た時はお母さんがおかしくなってしまったと怖かったです」


 「お母さんは心痛から、心がおかしくなってしまったと私や村の皆は思いました。お父さんが埋葬されると、お父さんの影を探すように度々村中を徘徊するようになりました」


 「お母さんもおかしくなってしまったので、私は一人で必死に飢饉の村の中で生き延びる為に動きました」


 「お母さんは少ない食糧もろくに食べずに痩せ細っていきました。私はお母さんも飢え死にしてしまうのではないかと思った程です」


 「そして、お父さんが死んじゃってから一ヶ月以上経った頃でした。私は夜中に目を覚ましました」


 「そして、家にお母さんがいない事に気がつきました。夜中にも関わらず何処かに徘徊に出たようでした」


 「私は虫の知らせのような胸騒ぎを感じて、お母さんを探しに家を出ました。あんな身体で真っ暗な中を歩いてたら行き倒れてしまうかもと思ったのです」


 「そして、私は嫌な予感に導かれるように村を外れた森の中を探す事にしました。今考えると夜中にランタン一つで森に入るのは危険な事をしたと思います」


 でも何故かお母さんはそこにいる気がしたのです。とナイアスは続けた。


 「でも森の中で見つけたのはお母さんではなく、村では殆ど見られない自動車と、外国語を喋る外の世界の男の人達三人でした」


 「長老方に外の世界の悪人が村から人攫いをする事がたまにあると聞いていた私は慌ててその場から逃げ出しました」


 「しかし見つかってしまい、子供の足では逃げ切れずにすぐ捕まってしまいました。私は夢中で何度もお母さんに助けを求めたのを覚えています」


 「助けなんて来るはずもなく、そのまま私は男達に車に引き摺り込まれて……そこで、その日、私の血は汚されてしまいました」


 「……痛かったな」


 「でも、身体の苦痛より遥かに痛い事実が突きつけられました」


 その日の苦痛を思い出してか、瞳から一筋の涙を溢し、そう前置いてナイアスは語り続けた。


 「男達の一人は私達と同じ言語を話せて、いっそ分からなければ良かったとも思いますが……何故自分達がここにいるか私に話したのです」


 「結論から言うと、男達は無差別な人攫いではなかったのです。人身売買に村に来ていたのでした。彼らは人を買ったのです」


 「買われたのは私でした。彼らは丁度商談がまとまった所で買った本人が現れたからその行幸に驚いたようです」


 「そして……私を売ったのは、母でした。狂気に陥っていると皆に思われていた母は実は、理性を残していたのです。徘徊していた時に他人に知られないように外の人間と接触して交渉していたようです」


 「そうして、幾許(いくばく)かの金品と食糧と引き換えに私を売ったのです」


 ナイアスは俯いて涙をはらはらと溢した。


 「私は……そこまで母に憎まれているとは思いませんでした。それを聞かされた時……悲しみと、それを遥かに上回る母への怒りと憎悪に燃えました」


 「車内で私を甚振(いたぶ)って、満足したように空気が弛緩した男達は油断していました。私は車内に転がっていた工具を鈍器にして一人を思い切り殴りました」


 「もう1人には思い切り工具を投げつけて、一気に車から飛び出しました。あの時はまだ子供でしかも飢えている状態なのに、信じられない底力が身体の奥から湧いてきました」


 「そうして、男達から逃げ切る事が出来ました。殆ど奇跡のようなものだったと思います」


 「……私はボロボロで、軋む身体を引きずって、森を探しました。お母さんはまだ近くに居るはずだという理由のない確信がありました」


 「今にして思えば、早く村に、家に逃げ帰るべきです。いつまでも森にいたのではまた男達に見つかりかねないですよね」


 「でも私は森の中でお母さんを探しました。いつしか雨が降ってきました。雨では私の穢れは流せなかったけれど、あの夜の雨の冷たさはよく覚えてます」


 「そして、お母さんを見つけました。何を思ってか丁度お母さんは切り立った崖の側で佇んでいました」


 「崖といってもそんな断崖絶壁の高い場所ではありません。高さとしては四、五メートル。でもそのくらいの高さでも落ちたら大怪我するし、打ちどころが悪ければ命に関わる事もあるでしょう」


 でも、と言ってナイアスは上向きに上げた握った手をパッと開いた。


 「それを見た瞬間に、私は何も考えられなくなりました。ただ衝動に突き動かされるまま、母へと走り……そして罪を犯しました」


 「体当たりのように私が突き飛ばした母は、悲鳴一つあげずに崖を転落しました。私は茫然としたまま迂回して母の落ちた崖下へ向かいました」


 「……落ち方が悪かったのでしょう。あるいは落とし方が上手かった、のかも知れません。母は崖下の岩に頭を打ち付けて死んでいました」


 「割れた頭から赤みがかった灰色の脳が飛び出していたので、一目でもう駄目だと分かりました」


 「仰向けになった母の薄目を開けた死に顔は今でも夢に見ます。そして、それを見て私は自分の人生において取り返しのつかない事をしたのを悟りました」


 「私は母を殺した事よりもこれからの自分の事を考えて、恐れて、泣きました」


 「……私はそういう人間なのです」


 ナイアスは両手でコーヒーの入ったカップを包んだまま、俯いて絞り出すように言った。


 「私は母の死体をその場に残して家に帰りました。布団の中で朝になるまで震えて、朝になってから、お母さんがいない。と近所に訴えました」


 「そして、善意で母を探してくれた人により母の死体が発見されました。状況から村中の人は事故か、あるいは自殺かと結論つけました」


 「……後になって考えたのですが、お母さんはなんであんな崖の側にいたのでしょうか? もしかして最初から死ぬ気だったのでしょうか?」


 「そうも思えるかも知れないですが、私は違うと思います。お母さんは私を食糧と金品で売ったのですから、私を消した後はやはり自分だけは生きるつもりだったのでしょう」


 「……話を戻します。そうして、私は村では哀れにも両親を亡くしてしまった可哀想な子供と扱われ。私もその役割を演じました」


 「これが、母を殺した私の生涯の罪の始まりです——」

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